第90話 人魚たちの希望
マーメイドラウンジでは、人魚たちへの事情聴取が始まっていました。
警察官は、リリア、ミレナ、キラリに順番に話を聞きます。
そして、人魚たちの希望と、マーメイドラウンジに残された問題が少しずつ見えてきます。
マーメイドラウンジの水槽の前で、警察官が一人の人魚の名前を呼んだ。
「リリアさん。こちらでお話を聞かせてください」
リリアは静かにうなずき、水槽のふちへ近づいた。
警察官は記録用の端末を手に、落ち着いた声で尋ねる。
「あなたは、誰にここへ連れてこられましたか」
「ワタルです」
リリアは答えた。
「ワタルに、ここで待っていれば迎えに来ると言われました」
警察官は記録を取る。
「人生交換をしたことはありますか」
「あります」
リリアは少し目を伏せた。
「ワタルが迎えに来なかったので、私はワタルを探しに行こうと思いました。そのために、一度、人間と体を交換しました」
「その相手は、今どうしていますか」
「元に戻りました」
リリアは静かに続けた。
「人間から人魚になっていた相手が、後悔していました。だから私は、元の人魚の姿に戻りました」
警察官はうなずき、さらに尋ねる。
「今後、あなたはどうしたいですか」
リリアは少しだけ水面を見つめたあと、はっきりと言った。
「私は、マーメイドラウンジを出て、ひとまず竜宮城へ帰りたいです」
その声に迷いはなかった。
リリアの事情聴取が終わると、次にミレナが呼ばれた。
「ミレナさん。こちらでお話を聞かせてください」
ミレナは不安そうに水槽のふちへ近づいた。
警察官は同じように尋ねる。
「あなたは、誰にここへ連れてこられましたか」
「ワタルです」
ミレナは小さな声で答えた。
「ここで待っていれば迎えに来るって言われました。人間になれば、一緒にいられるって……」
警察官は記録を続ける。
「人生交換をしたことはありますか」
ミレナは首を振った。
「ありません」
少し間を置いて、ミレナは続けた。
「でも、しようとしていました。ワタルが迎えに来ないなら、自分から探しに行こうと思って……」
「それをやめたのは、なぜですか」
「リリアに止められました」
ミレナは水面に視線を落とした。
「人生交換は、誰かの人生を奪うことになるって言われました」
警察官は、静かに次の質問をした。
「今後、あなたはどうしたいですか」
ミレナはすぐには答えられなかった。
ワタルを待っていた時間。
信じていた言葉。
迎えに来るという約束。
そのすべてが、まだミレナの中から消えていなかった。
「……まだ、分かりません」
ミレナは小さく言った。
「人生交換は、もうしません。でも……気持ちの整理が、まだできていません」
警察官は、その言葉も記録した。
次に呼ばれたのは、キラリだった。
「キラリさん。こちらでお話を聞かせてください」
キラリは戸惑いながら、水槽のふちへ近づいた。
まだ、自分が何に巻き込まれているのか分かっていないようだった。
警察官は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「あなたは、誰にここへ連れてこられましたか」
「ワタルです」
キラリはすぐに答えた。
「ワタルが、人間の世界に連れて行ってくれるって言ったの」
警察官は記録を取る。
「ここへ来れば、どうなると聞いていましたか」
「ここで待っていたら、ワタルが迎えに来るって」
キラリは不安そうに周りを見た。
「それに、人間と体を交換できるって聞いたの。人間になれば、ワタルと一緒にいられるって」
「人生交換をしたことはありますか」
キラリは首を振った。
「まだしていません」
「ワタルから、他に何か言われましたか」
キラリは少しだけ頬を赤くした。
「愛してるって言われました」
その言葉を口にしたあと、キラリの表情が揺れた。
リリアも、ミレナも、同じような言葉を聞いていた。
迎えに来る。
人間になれば一緒にいられる。
愛してる。
それが自分だけに向けられた言葉ではなかったのだと、キラリは少しずつ知り始めていた。
警察官は静かに尋ねる。
「今後、あなたはどうしたいですか」
キラリは答えられなかった。
「分からない……」
小さな声だった。
「ワタルは、警察っていう人たちに連れて行かれたの。悪いことをしたからって言われたけど、ワタルは悪いことなんてしていないと思うの」
キラリの声が震える。
「でも、リリアもミレナも、私と同じようなことを言われていて……もう、何が本当なのか分からない」
警察官は、キラリの言葉をそのまま記録した。
リリアは、竜宮城へ帰りたいと話した。
ミレナは、まだ気持ちの整理ができていないと話した。
キラリも、何が本当なのか分からないままだった。
三人の状況は少しずつ違っていた。
けれど、ワタルの手口は似ていた。
迎えに来る。
人間になれば一緒にいられる。
愛してる。
その言葉で、人魚たちはワタルを信じていた。
事情聴取は、他の人魚たちにも続けられた。
人間から人魚になった者たちは、全員が人間に戻りたいと話した。
水槽の中で暮らすことに憧れていた者もいた。
けれど、実際には自由に外へ出られず、客から見られ続ける毎日だった。
一方で、人間の姿になってラウンジで働いていた元人魚たちは、マーメイドラウンジを出て竜宮城へ帰れるのなら、人魚に戻ってもいいと話した。
人間になりたかった者。
人魚に憧れていた者。
人魚に戻ってでも、竜宮城へ帰りたい者。
望みは、それぞれ違っていた。
けれど、不満は同じだった。
この場所には、自由がなかった。
ただし、すべてがすぐに解決するわけではなかった。
人間から人魚になった者が元に戻るには、自分の体を持っていった相手を探す必要がある。
けれど、人間の姿になってラウンジで働いていた元人魚の中には、すでに行方が分からなくなっている者もいた。
誰と人生交換をしたのか。
その相手は今どこにいるのか。
警察は、契約記録や従業員名簿、紹介記録を確認しながら、行方不明になった元人魚たちの所在も調べることになった。
マーメイドラウンジの水槽の中にいた声は、ようやく外へ届き始めていた。
その頃、警察署では、玲司と詩乃への確認が続いていた。
警察官は、机の上に並べた資料を見ながら言った。
「マーメイドラウンジの運営資料、紹介契約、紹介料の流れ、人魚本人の同意確認の記録。その他、関係する資料があれば、すべて提出してください」
玲司は低い声で答えた。
「分かりました。こちらで保管している資料は、すべて提出します」
警察官は続けた。
「従業員の名簿も、すべて提出してください。受付、ラウンジスタッフ、搬入口に関わった者、紹介者と連絡を取っていた者。関係者は全員確認します」
「分かりました。名簿と勤務記録も提出します」
詩乃も続けた。
「私の方で把握しているスタッフの記録も、すべて出します」
警察官は静かにうなずいた。
「この仕組みを作ったCEOについても確認します」
玲司と詩乃の表情が硬くなる。
警察官は二人を見た。
「CEOは、今どこにいるのですか」
玲司はすぐには答えられなかった。
詩乃も、目を伏せる。
少しの沈黙のあと、玲司が口を開いた。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。私たちも、直接会ったことはありません」
詩乃が続けた。
「指示や承認は、専用の連絡経路を通して届いていました」
警察官の声は静かだった。
「最高責任者の居場所も分からないということですか」
玲司は何も言い返せなかった。
警察官は短く言った。
「困りますね。いつもの手段で連絡を取ってください」
玲司は端末を取り出した。
「分かりました」
玲司は、専用端末からCEOへ連絡を送った。
詩乃も、その画面を見つめる。
いつもなら、しばらくすれば短い返答が届く。
承認。
却下。
継続。
待機。
感情のない言葉だけが、画面に表示される。
それだけで、次に何をすればいいのか分かった。
顔を見たことはない。
声を聞いたこともない。
けれど、その端末から届く言葉に従って、マーメイドエリアは動いてきた。
玲司は、画面を見つめ続けた。
しかし、返事はなかった。
もう一度、連絡を送る。
それでも、画面は変わらなかった。
詩乃も、別の連絡経路を確認する。
何も届いていない。
玲司は、端末を握ったまま小さく言った。
「……連絡が取れません」
警察官は、端末の画面を見た。
「その端末も確認します」
玲司は黙ってうなずいた。
詩乃の顔色も変わっていた。
今まで、顔を見せなかったCEO。
声も聞かせず、端末越しに指示だけを出していた最高責任者。
その人物には、今、連絡がつかなくなっていた。
マーメイドラウンジには、自由を奪われた人魚たちがいた。
人間に戻りたい者。
人魚に戻りたい者。
竜宮城へ帰りたい者。
まだ何を信じればいいのか分からない者。
その声は、ようやく外へ届き始めた。
けれど、この仕組みを作った人物だけは、まだ姿を見せていなかった。
マーメイドラウンジにいた人魚たちの希望が、少しずつ明らかになりました。
人間に戻りたい者。
竜宮城へ帰りたい者。
そして、まだ気持ちの整理ができない者。
一方で、この仕組みを作ったCEOには連絡が取れなくなっていました。




