第86話 王子さまに出会える岩場
ワタルは優を連れて、秘密の岩場へ向かいます。
そこは、人魚たちの間で「人間の王子さまに出会える場所」と噂されている岩場でした。
そこでワタルを待っていたのは、キラリという名の人魚でした。
その頃、ワタルは優を船に乗せていた。
船は港から離れ、岩に囲まれた海へ進んでいく。
優は船の上で、落ち着かないまま周囲を見回していた。
高い崖が海を囲んでいる。
その向こうには、古い城のような建物が見えた。
海風にさらされ、少し崩れた石造りの城。
今は誰も住んでいないように見えるのに、不思議と人を引き寄せるような雰囲気があった。
「こんな場所があったんですね」
優がつぶやくと、ワタルは船を操縦しながら笑った。
「ああ。人魚たちの間じゃ、ちょっとした噂の場所なんだよ」
「噂?」
「人間の王子さまに出会える岩場、だってさ」
「人間の王子さま……」
優はその言葉を繰り返した。
ワタルは軽い口調で続ける。
「そういう夢見がちな話が好きなんだよ、あいつらは」
優は何も言えなかった。
その言い方が、少し引っかかった。
けれど、ワタルがあまりにも普通に笑っているので、うまく言葉にできなかった。
船が崖の奥へ入っていくと、視界が開けた。
外からは見えにくい、小さな入り江だった。
波は穏やかで、岩場には白いしぶきが静かに当たっている。
その岩場の上に、一人の人魚が座っていた。
オレンジ色の髪が、海風に揺れている。
尾びれは夕日のような色をしていて、光を受けるたびに淡くきらめいていた。
その人魚は、船に気づくとぱっと顔を上げた。
「ワタル!」
嬉しそうな声が、入り江に響く。
人魚は身を乗り出すようにして、ワタルを見た。
「やっと来てくれたのね」
ワタルは慣れた様子で船を岩場へ近づける。
「悪かったな、キラリ。ちょっと忙しくてさ」
岩場に座っていた人魚は、キラリという名前らしい。
キラリはワタルだけを見ていた。
けれど、すぐに船に乗っている優に気づく。
「あら、今日はワタル一人じゃないの?」
キラリは優を見た。
「そちらは?」
ワタルは軽く笑った。
「俺のだちさ」
優は反射的に頭を下げた。
「お邪魔してすみません……」
キラリは少し頬を膨らませた。
「邪魔よ。ワタルと二人きりが良かったのに……」
「す、すみません……」
優は小さくなるしかなかった。
ワタルは気にした様子もなく笑う。
「まあ、そう言うなよ。こいつ、ちょっと用があって一緒に来ただけだから」
「本当に?」
キラリは不満そうに優を見たあと、すぐにワタルへ視線を戻した。
「ワタル、最近来てくれなかったね」
その声は、少し拗ねていた。
「私、ずっとワタルが来るのを待っていたのよ」
「悪かったって」
ワタルは優しい声で言った。
「でも、今日は来ただろ」
「うん」
キラリは嬉しそうにうなずいた。
そして、少しだけ寂しそうな顔になる。
「ねえ、ワタル」
「何だ?」
「もう、ここでワタルを待っているのはつらいわ」
優は、その言葉に胸がざわついた。
キラリは岩場から少し身を乗り出す。
「今日は、ワタルについて行きたい」
「私を人間の世界に連れて行って」
ワタルはキラリを見る。
「人間の世界に?」
「うん」
キラリは頬を染めた。
「私は、人間と体を交換して、ワタルと一緒にいたいの」
優は息をのんだ。
体を交換。
その言葉が、頭の中で重く響く。
キラリは何も疑っていない顔で続けた。
「このままだと、ワタルに触れたら、ワタルがサンゴになっちゃうでしょう?」
「だから……ワタルと触れ合いたいの」
ワタルは少し間を置いてから、笑った。
「じゃあ、連れて行ってあげるよ」
キラリの瞳が明るくなる。
「えっ、本当に?」
「ああ」
ワタルは軽い口調で答えた。
「人間と体を交換できる場所に連れて行ってやる」
「本当にそんな場所があるの?」
「あるさ。俺の知り合いにも、そこで人間と体を交換して、人間になれたやつがいる」
ワタルは船を岩場の近くまで寄せる。
「お前もやってみるか?」
キラリは迷わずうなずいた。
「もちろん」
優は端末へ手を伸ばしかけた。
今すぐ、誰かに知らせなければいけない。
けれど、ワタルがすぐそばにいる。
船の上は狭い。
少しでも不自然な動きをすれば、気づかれる。
優は手を止めた。
その時、キラリがふと優の方を見た。
「ねえ、優さんは好きな人いないの?」
急に話を振られて、優は戸惑った。
「ぼ、僕ですか?」
「そう。ワタルのお友達なんでしょう?」
優は困ったように答えた。
「僕、人間の女の人が苦手です……」
キラリは不思議そうに首をかしげた。
「あら、ワタルと一緒じゃない?」
「え?」
「ワタルも、人魚の方が好きだって言ってくれたもの」
優は返す言葉を失った。
ワタルは何も言わず、ただ笑っている。
優は視線を泳がせながら、小さく言った。
「僕は……魚が好きなんです」
「え、本当?」
キラリの顔が明るくなった。
「じゃあ、私たちと相性いいじゃない。私たち、人間と魚の間みたいな存在だもの」
「いや、そういう意味では……」
優が慌てて否定しかけると、キラリは楽しそうに笑った。
「あなたも、さっき私が座っていた岩場に行くといいわよ」
「岩場ですか?」
「ええ。あそこはね、人魚の中で、人間の王子さまに出会えるスポットって噂なの」
キラリは、うっとりとした顔でワタルを見た。
「そして私は、そこでワタルに出会えたわ」
優の胸が冷たくなった。
ただの偶然ではない。
ここに人魚が集まる理由がある。
人間の世界に憧れる人魚。
恋をしたい人魚。
誰かに選ばれたい人魚。
そういう気持ちが、噂になって広がっている。
そしてワタルは、その岩場に来る。
優は、すぐにでも誰かへ知らせたかった。
けれど、ワタルは目の前にいる。
キラリはワタルを信じきっている。
今ここで何かを言えば、何が起きるか分からない。
優は何もできなかった。
ワタルは船べりから、丈夫な網を下ろした。
「優、そっち持ってろ」
「え、僕ですか?」
「網がずれたら危ないだろ。キラリが落ちたらどうするんだよ」
そう言われて、優は断れなかった。
キラリは岩場から身を滑らせるようにして海へ入り、網につかまる。
水しぶきが上がった。
優は網の端を両手で押さえた。
ワタルは反対側を支えている。
キラリは腕の力で、少しずつ船へ上がってきた。
人魚に触れれば、人間はサンゴになってしまう。
だからワタルは、キラリに直接触れない。
優も、網を支えることしかできなかった。
端末を出す余裕なんてなかった。
船に上がったキラリは、用意された水槽を見た。
「この中に入るの?」
「ああ。港まで少しだけな」
ワタルは優しい声で言う。
「人間の世界へ行くには、こうした方が安全なんだ」
「そうなのね」
キラリは何も疑わず、水槽へ入った。
水が揺れる。
キラリは水槽の中からワタルを見上げた。
「ワタル、本当に一緒にいられるのよね?」
「ああ」
ワタルは笑った。
「もうすぐだ」
優はその笑顔を見て、胸の奥が重くなった。
船は入り江を出て、港へ向かった。
港に着くと、そこには、いけす付きのトラックが一台だけ停まっていた。
荷台には小型のクレーンが付いている。
運転手はワタルを見ると、何も聞かずにクレーンを動かし始めた。
慣れている。
優はそう思った。
ワタルも当たり前のように、水槽を固定し始める。
キラリは水槽の中で、少し不安そうに周囲を見ていた。
「ワタル、ここは?」
「大丈夫だ。すぐ着く」
ワタルはそう言ってから、優を振り返った。
「優、ちょっとこっち手伝って」
「え、また僕ですか?」
「水槽が揺れないように押さえてろ。落としたらキラリが危ないだろ」
そう言われて、優はまた断れなかった。
キラリが不安そうにこちらを見ている。
クレーンのフックが水槽にかけられた。
水槽がゆっくりと持ち上がる。
水が大きく揺れ、キラリが水槽の中で体を支えた。
優は慌てて水槽の端を押さえる。
端末を出すどころではなかった。
今すぐ知らせなければいけない。
でも、両手は水槽を支えるのでふさがっている。
ワタルはすぐ横にいる。
トラックの運転手も、こちらを見ている。
優は何もできないまま、水槽がいけすトラックの荷台へ下ろされるのを手伝うしかなかった。
水槽は、いけすトラックの荷台へ収まった。
キラリは水の中からワタルを見た。
「これで、人間の世界へ行けるのね」
「ああ」
ワタルは荷台を確認しながら答えた。
「もう少しだ」
運転手が運転席に乗り込む。
ワタルは助手席へ向かった。
「優、お前も乗れ」
トラックの前席は三人乗りだった。
運転手が運転席。
ワタルが助手席。
優は、その間の真ん中の席に座らされた。
狭い。
片側には運転手。
もう片側にはワタル。
端末を出せば、すぐに見られる。
荷台には、キラリの入った水槽がある。
今すぐ誰かに知らせなければいけない。
そう思っているのに、優は何もできなかった。
トラックは港を出て、マーメイドラウンジへ向かった。
車内では、運転手もワタルもほとんど話さなかった。
エンジン音だけが続く。
優は膝の上で手を握りしめていた。
ワタルを少しだけ、友達のように思っていた。
魚が好きだという話をした時、ワタルは笑って聞いてくれた。
港のことも教えてくれた。
少しだけ、自分に近い人なのかもしれないと思った。
でも違った。
キラリを連れていくのは、止めなければいけない。
人魚を連れていくのはやめろと、言わなければいけない。
そう思っているのに、言えなかった。
トラックはマーメイドラウンジの裏側へ回った。
表の華やかな入口とは違う、搬入口だった。
人目につきにくい場所に、別の男が待っていた。
男はワタルを見ると、小さなケースを差し出した。
ワタルはトラックを降りる。
優も促されるまま、外へ出た。
荷台の水槽の中で、キラリが不安そうにワタルを見ている。
「ワタル、ここが人間になれる場所?」
「そうだ」
ワタルは振り返って笑った。
「もうすぐだ」
男がケースを開ける。
中には、金が入っていた。
優は息を止めた。
その瞬間だった。
「動くな」
低い声が響いた。
搬入口の周囲から、警察官たちが一斉に現れた。
ワタルの顔から笑みが消える。
トラックの運転手が振り返る。
金を持っていた男も、その場で固まった。
「人魚の違法取引に関わった疑いで、現行犯逮捕する」
警察官の声が響いた。
ワタルが押さえられる。
トラックの運転手も、金を渡していた男も、次々と取り押さえられていく。
キラリは水槽の中で、何が起きているのか分からないままワタルを見ていた。
「ワタル……?」
その声は、小さく震えていた。
優は、その場で動けなかった。
ワタルが捕まった。
トラックの運転手も、金を渡していた男も押さえられている。
優は何か言おうとした。
自分は、ただ調査していただけだった。
そう思いたかった。
けれど、違う。
キラリが船に上がる時、優は網を持った。
港で水槽を移す時も、クレーンで揺れる水槽を支えた。
止めなければいけなかったのに。
ワタルに、人魚を連れていくのはやめろと言わなければいけなかったのに。
それなのに、自分は何をしているんだろう。
ワタルを少しだけ、友達のように思っていた。
だからこそ、警察に捕まる前に止めたかった。
でも、遅かった。
何も言えないまま、ここまで来てしまった。
人に強く主張することが、優は苦手だった。
「その男も押さえろ」
警察官の声が飛ぶ。
優は、自分のことだとすぐには分からなかった。
次の瞬間、腕をつかまれる。
目の前で何が起きているのか、頭が追いつかない。
優は何も言えないまま、警察に連れて行かれた。
人魚たちの間で「人間の王子さまに出会える岩場」と噂されていた場所。
キラリはその噂を信じ、そこでワタルに出会いました。
けれど、夢のような出会いの先に待っていたのは、人魚の違法取引でした。




