第85話 示談に向けて
マーメイドラウンジの問題に向き合うため、煌成たちは外側からも動き始めます。
翔とレイナの紹介で、煌成はマーメイドエリアの営業を大きく任されている玲司と詩乃に会うことになりました。
最初は穏やかなビジネスの話から始まりますが、やがて話題はマーメイドラウンジの人魚たちへ向かっていきます。
応接室には、翔とレイナの他に、二人の男女が座っていた。
白を基調にした上品なスーツ姿の男性と、淡い色の華やかな装いをした女性。
どちらも落ち着いた雰囲気をまとっている。
翔が先に口を開いた。
「こちらが玲司さんです。マーメイドエリアの営業を大きく任されている方です。男性客向けの営業を担当していて、マーメイドエリアやレオクラブなどの事業にも関わっています」
玲司は静かに会釈した。
「玲司です」
続いて、レイナが隣の女性へ視線を向ける。
「そして、こちらが詩乃さんです。詩乃さんも、マーメイドエリアの営業を大きく任されている方です。女性客向けの営業や、アリスクラブ、新しいサービスの開拓にも関わっています」
詩乃も柔らかく頭を下げた。
「詩乃です。よろしくお願いいたします」
煌成も軽く会釈する。
「三宮煌成です」
名乗ったあと、煌成はすぐに本題へ入らなかった。
いきなりマーメイドラウンジの問題を出すには、今回の件は重すぎる。
まずは、相手がどういう立場で、どこまで話を受け止められる人間なのかを見なければならない。
「私は元医師ですが、今は欲望区で、疲れた人の心と体を整えるための事業をしています」
玲司が少し興味を示した。
「医療系のサービスですか?」
「医療そのものではありません。ですが、欲望区に来る人たちは、刺激を求めているようでいて、どこか疲れている方も多い。そういう人が、少しでも自分を取り戻せる場所を作りたいと思っています」
「なるほど」
玲司はうなずいた。
「欲望区では、強い刺激を売るサービスが目立ちます。ですが、最近は逆に、癒やしや回復を求める層も増えていますからね」
詩乃も静かに口を開く。
「女性客向けのサービスでも、似た傾向はあります。満たされたいというより、休みたい。誰かに整えてほしい。そういう声は増えています」
「そうですね」
煌成は短く答えた。
「私も、欲望区のすべてを否定したいわけではありません。必要としている人がいることも分かっています」
そこで、煌成は一度言葉を切った。
応接室の空気が、少しだけ変わる。
玲司はそれに気づいたように、姿勢を正した。
「その煌成さんが、今回、私たちに何か話したいことがあると聞いています」
詩乃も、穏やかな表情のまま煌成を見た。
「マーメイドエリアに関わる話だと、レイナさんから聞いています」
煌成は、翔とレイナを一度見た。
二人は黙ってうなずく。
ここからは、ただの事業の話ではない。
煌成はゆっくりと口を開いた。
「はい。マーメイドラウンジにいる人魚たちのことで、お話があります」
玲司の表情がわずかに引き締まった。
詩乃も、手元に置いていたカップから指を離す。
「ここで働く、ある人魚から話を聞きました」
煌成の声は静かだった。
「その人魚は、ある漁師に連れられてマーメイドラウンジへ来ました。ここで待っていれば迎えに来ると言われていたそうです」
玲司の視線が少し動く。
「ある漁師、ですか」
「ワタルという名前です」
その名前を出した瞬間、玲司と詩乃の空気がわずかに変わった。
知らない名前ではない。
その反応だけで、煌成には十分だった。
「御社では、人魚がどのような経緯でマーメイドラウンジへ来ているのか、どこまで把握されていますか」
玲司はすぐには答えなかった。
少し間を置いてから、口を開く。
「契約上は、紹介という形になっています」
「紹介」
煌成はその言葉を繰り返した。
「はい。漁師や仲介者が人魚を紹介し、ラウンジ側が受け入れる。その際に紹介料が発生します」
「高額な紹介料ですね」
玲司の表情が固くなる。
「額については、通常の人材紹介よりも高く設定されています。希少性のある人魚を紹介するという扱いですので」
「ですが、本人がその仕組みを理解していなかった場合はどうなりますか」
玲司は黙った。
煌成は続ける。
「外の世界をよく知らない人魚に、迎えに来ると信じ込ませて連れてきた。そこに高額な紹介料が発生していた」
声は荒げない。
けれど、言葉はまっすぐだった。
「それは、ただの紹介とは言えません」
詩乃の表情から、少しずつ柔らかさが消えていく。
「その人魚は、今もその漁師を待っているのですか?」
「はい」
煌成は答えた。
「ただ、その人魚だけではありません。竜宮城に帰りたいと言っている人魚もいます」
「竜宮城に……」
詩乃の声が低くなる。
「本来、帰る場所がある人たちです。ここで働くことを、本当に望んでいたのか。帰れない状態で待たされていたのではないか。そこを確認する必要があります」
玲司は小さく息を吐いた。
「現場からは、本人同意の上で働いていると報告を受けています」
「本人同意という言葉だけでは、説明になりません」
煌成は静かに言った。
「その同意が、本当の意味での同意だったのか。そこを確認する必要があります」
応接室が静まり返った。
レイナは黙っている。
翔も口を挟まない。
これは、煌成が話すべきことだと分かっているからだった。
「さらに問題があります」
煌成は言った。
「人間の身体と人魚の身体を交換した人もいます」
詩乃の瞳が揺れた。
「人生交換……ですか」
「はい」
煌成はうなずいた。
「人魚の体になった人間が、その後どうなっているか分からない。元に戻れず、困っている元人間の人魚もいるようです」
玲司が眉を動かした。
「それは、マーメイドラウンジ内で起きていることですか」
「少なくとも、ラウンジに関わる形で起きています」
煌成は言った。
「人魚になれば華やかになれる。注目される。特別になれる。そう信じて交換した人間が、実際には水槽から自由に出られず、後悔している」
詩乃は唇を結んだ。
「これは、単なる紹介料や営業契約の問題ではありません」
煌成は二人を見る。
「人魚の人生も、人間の人生も巻き込んでいます」
その言葉が、応接室に重く落ちた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて煌成は、静かに問いかけた。
「お二人は、現場の声を聞いたことがありますか」
玲司も詩乃も、すぐには答えなかった。
売上。
契約。
紹介数。
稼働率。
顧客満足度。
イベントごとの集客。
二人が見てきたものは、数字だった。
マーメイドエリアがどれだけ人を呼んだか。
レオクラブの売上がどれだけ伸びたか。
アリスクラブがどれだけ話題になったか。
新しいサービスがどれだけ利益を生んだか。
その数字の向こうにいる人たちが、何を思っていたのか。
そこまで直接聞きに行ったことはなかった。
先に答えたのは詩乃だった。
「……ありません」
声は小さかった。
「少なくとも、私は直接聞いていません」
玲司も目を伏せた。
「私もです。報告書と数字だけを見ていました」
煌成は責め立てなかった。
ただ、静かに言った。
「なら、今から聞いてください」
玲司が顔を上げる。
「水槽の中にいる人魚たちが、何を望んでいるのか。帰りたいのか。誰かを待っているのか。人生交換を後悔しているのか」
煌成は一つずつ言葉を置いていく。
「その声を、会社側の人間として聞くべきです」
玲司はゆっくりとうなずいた。
「事実確認をします」
その声は、先ほどより低かった。
「ワタルという漁師との契約、紹介料の流れ、紹介された人魚たちの記録。すべて確認します」
詩乃も続けた。
「現場にも入ります。水槽の中にいる人たちの声を、私たちが直接聞きます」
煌成は、二人の言葉を聞いてから、少しだけ視線を落とした。
「お願いします」
玲司は深く頭を下げた。
「ご指摘、ありがとうございます」
そこで言葉を切ったあと、玲司は自分の発言が軽すぎることに気づいたように、表情を変えた。
「いえ……これは、感謝で済ませる話ではありませんね」
詩乃も静かにうなずいた。
「私たちは、売上ばかりを見ていました。そこにいる人たちの人生を見ていなかった」
翔が小さく息を吐く。
レイナは、詩乃の言葉を黙って聞いていた。
煌成は何も言わない。
詩乃は、もう一度頭を下げた。
「改善に向けて動きます。ですが、その前にまず、傷ついた人たちをどう救うかを考えます」
玲司も続ける。
「示談の話も、会社側に上げます。賠償、営業改善、紹介制度の見直し、人生交換に関わった人たちへの対応。そのすべてを避けて通ることはできません」
「ありがとうございます」
煌成は静かに答えた。
「ただし、時間はあまりありません」
玲司が顔を上げる。
「というと?」
「まだ、ワタルを信じている人魚がいます。人生交換を考えている人魚もいるかもしれません」
詩乃の表情が強張った。
「考えている人魚が……」
「はい。だから、先に動かなければなりません。事実確認と同時に、これ以上同じことが起きないよう止める必要があります」
玲司はうなずいた。
「紹介契約を一時停止します」
「玲司さん」
詩乃が玲司を見る。
「少なくとも、マーメイドラウンジに関わる人魚の新規紹介は止めます。確認が終わるまで、紹介料の支払いも保留にする」
詩乃は少し考えたあと、うなずいた。
「私も同意します。新規営業の案件にも影響が出ると思いますが、それでも止めるべきです」
煌成は二人を見た。
これで、すべてが解決したわけではない。
むしろ、ここからが本番だった。
ワタルを調べる必要がある。
紹介料の流れを追う必要がある。
ラウンジの中にいる人魚たちの声を聞く必要がある。
人生交換で戻れなくなった人たちを、どう救うのかも考えなければならない。
それでも、最初の扉は開いた。
「では、次の段階に進みましょう」
煌成が言うと、玲司と詩乃は真剣な表情でうなずいた。
まずは、ワタルとの契約を確認する。
紹介料の流れを追う。
ラウンジの中にいる人魚たちの声を聞く。
そして、これ以上同じことが起きないよう、紹介制度を止める。
応接室の窓の外で、マーメイドエリアの光が揺れている。
華やかな水の街。
美しい水槽。
夢のようなラウンジ。
けれど、その下には、誰かの後悔が沈んでいる。
煌成は、その光を見つめながら思った。
ここからは、数字ではなく、人を見なければならない。
売上ではなく、声を聞かなければならない。
示談に向けた話し合いは、ようやく始まったばかりだった。
玲司と詩乃は、マーメイドエリアの営業を大きく任されている立場です。
けれど、今まで見ていたのは売上や数字ばかりで、現場の声までは届いていませんでした。
示談に向けて、まずは事実確認と営業改善が始まります。




