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第84話 人生交換はやめて

人魚の姿に戻ったリリアは、水槽の中でミレナに声をかけます。


ワタルを信じ、迎えを待ち続けているミレナ。


リリアは、自分と同じ後悔をさせないために、真実を話そうとします。

「大事なお話って、何?」


ミレナは不思議そうにリリアを見た。


水槽の中で揺れる髪は美しく、姿だけを見れば大人びた人魚に見える。


けれど、その声にはまだ幼さが残っていた。


世間を知らないまま、竜宮城の外へ出てしまったお姫様。


リリアは、目の前にいるミレナを見ながら、少し前の自分を思い出していた。


「もしかして、ワタルのこと?」


「ワタル……?」


その名前を聞いた瞬間、リリアの胸が冷たくなる。


ミレナは、頬を少し染めた。


「うん。私の好きになった漁師さん。ワタルっていうの」


リリアは息を止めた。


やっぱり、同じ人だ。


「ワタルは、ここで待っていたら迎えに来るって言ってくれたの。だから私、ずっと待っているの」


ミレナは少しだけ寂しそうに笑った。


「でも、なかなか来てくれなくて。人魚だから、ここから出られないでしょう?」


「……はい」


「だから最近、人間になりたいなって思い始めたの」


リリアは、静かにミレナを見つめた。


「人間の体と人魚の体を交換できるって聞いたの。私も希望を出しているのよ」


その言葉を聞いた瞬間、リリアは強く尾びれを動かした。


水が揺れる。


「ミレナさん。落ち着いて聞いてください」


「何?」


「私も、ミレナさんと同じです」


「同じ?」


「私も、漁師のワタルに恋をしました」


ミレナの表情が止まった。


「……え?」


「私もワタルを信じて、ついて行きました。そして、このラウンジに来ました」


水槽の中の音が、遠くなる。


「でも、ワタルは迎えに来ませんでした」


「嘘だわ」


ミレナはすぐに首を振った。


「私、そんなの信じない」


「ミレナさん」


「あなたもワタルのことが好きになったのでしょう?」


ミレナの声が少し強くなった。


「だったら、ライバルですね」


「違います」


「私に諦めさせようとしているんじゃないの? あなたもワタルが好きだから」


リリアは、胸の奥が痛くなるのを感じた。


ミレナは本気でそう思っている。


ワタルを疑うより、リリアを疑う方が楽なのだ。


きっと、自分もそうだった。


信じたい相手を守るためなら、都合の悪い言葉を遠ざけてしまう。


「私は、もうワタルが嫌いです」


リリアははっきりと言った。


ミレナの瞳が揺れる。


「どうして……」


「私だけじゃなく、他の人魚もだましているからです」


リリアは言葉を止めなかった。


「ここにいる人魚に聞けば分かります。みんな、ワタルに連れて来られて、迎えに来ると言われて、待っていました」


「そんなの……」


「でも、ワタルは来ませんでした」


ミレナは黙った。


リリアは、周りの水槽を見た。


そこにいる人魚たちは、本物の人魚ではない。


人魚に憧れて、人魚の華やかさや人気に憧れて、人生を交換してしまった元人間たち。


そして、本来の人魚たちは外へ出たまま戻らなかった。


その仕組みを、リリアはもう知っている。


「ここにいる人魚は、みんな元人間です」


「……元人間?」


「はい。人魚になりたくて交換した人たちです。でも、実際には水槽から出られず、後悔している人もいます」


ミレナは小さく息を飲んだ。


「私はワタルを探すために、人間と体を交換しました」


リリアの胸に、美波の顔が浮かぶ。


水槽の中で苦しんでいた、美波の姿。


「でも、私と体を交換した美波さんは、人魚になって苦しんでいました」


「美波さん……」


「はい。マーメイドラウンジで働いていた、人間の女性です」


リリアは少しだけ目を伏せた。


「私も、人間になった時は自由になれたと思いました。ワタルを探しに行けると思いました。でも、自分の体ではないのは違いました」


水が静かに揺れる。


「そして、誰かを苦しめてまで人間になるのは違うと思ったんです」


ミレナは何も言わない。


「だから私は、元の人魚に戻りました」


「でも……」


ミレナは小さな声で言った。


「あなたは人間になっていたのでしょう?」


「はい」


「だったら、分かるでしょう? 人間になれば、ワタルと触れ合えるの」


その声は、泣きそうだった。


「ワタルは私のことを好きだと言ってくれた。私を求めてくれたの」


リリアは静かに聞いていた。


「ワタルの目は、どこか寂しそうだった。私が癒してあげたいと思ったの」


ミレナはリリアを見つめる。


「リリアも、そうだったのでしょう?」


リリアはすぐには答えられなかった。


その気持ちは分かる。


分かってしまう。


自分だけが特別だと思いたかった。


自分だけは本当に愛されていると思いたかった。


「……分かります」


リリアは小さく答えた。


「私も、そう思っていました」


ミレナの瞳が少しだけ揺れた。


「でも、今の私の好きな人はワタルではありません」


「じゃあ、誰?」


「誠司さんです」


その名前を口にすると、胸の奥が静かに温かくなった。


「誠司さんは、マーメイドラウンジに来たお客様です。とても誠実な人です」


「リリアは、その誠司さんという人が今好きなの?」


「はい」


「じゃあ、私とライバルではないのね?」


「そうです」


ミレナは少しだけ安心したように見えた。


けれど、すぐに顔を上げる。


「だとしても、私はワタルを諦めない」


リリアは、黙ってその言葉を受け止めた。


「ワタルは、私を迎えに来るって言ってくれたもの」


「ミレナさん」


「私は人間になりたいの。交換したら、人間になれるのでしょう?」


ミレナの声は、まだ夢を信じている人の声だった。


「確かに、人間の体にはなれます」


リリアは言った。


「でも、それは自分の体ではありません」


「……」


「その人の場所も、名前も、帰る家も、人生も背負うことになります」


ミレナの表情が少しだけこわばる。


「そして、その相手は人魚になります。水槽に閉じ込められて、自由に出られなくなります」


リリアはミレナの手を取った。


「これは、ただ体を交換するだけではありません」


水の中で、ミレナの指先が震えた。


「人生を交換することなんです」


ミレナは視線を落とした。


「だから、人生交換はやめてください」


その言葉は、水槽の中に静かに沈んでいった。


ミレナは唇を噛んだ。


不満そうだった。


まだ納得していない顔だった。


それでも、さっきまでのように強く言い返すことはなかった。


「でも、私……人間になりたい」


「本当に人間になりたいのなら、別の方法があります」


「別の方法?」


ミレナが顔を上げる。


「竜宮城の長老に聞きました。自分の体のまま、人間になる方法があるそうです」


「自分の体のまま……?」


「はい。仲間と海底神殿へ行って、ミッションをクリアして、海の神様にお願いすれば、人間にしてもらえるかもしれないと」


ミレナの瞳が大きく揺れた。


「そんな方法があるの?」


「あります。簡単ではないと思います。でも、誰かを苦しめて人間になるより、ずっといい」


リリアは手を離さなかった。


「だから、一緒に待ちましょう」


「待つ……」


「私の仲間たちが、今ワタルのことを調べてくれています。このラウンジのことも、きっと調べてくれます」


「本当に、迎えに来てくれるの?」


「はい」


リリアはうなずいた。


「竜宮城のみんなも、ミレナさんのことを心配していました」


ミレナの表情が揺れた。


「みんなが……?」


「はい」


リリアは少しだけ苦しくなった。


自分も、家族に心配をかけた。


帰れない場所に来て、帰りたいと言えなくなって、それでも誰かが心配してくれていた。


そのことに気づいたのは、ずっと後だった。


「私も、家族に心配をかけました」


リリアは静かに言った。


「だから、ミレナさんには私のようになってほしくないんです」


ミレナは何も言わなかった。


しばらく水の音だけが続いた。


やがてミレナは、少し不満げに視線を逸らした。


「……リリアの話を、全部信じたわけじゃないわ」


「はい」


「ワタルを諦めるとも言っていない」


「はい」


「でも……」


ミレナは小さく息を吐いた。


「人間との体交換の申請だけは、取り消す」


リリアは、胸の奥から少しだけ力が抜けるのを感じた。


間に合った。


完全に説得できたわけではない。


ミレナはまだワタルを信じている。


リリアのことも、きっと全部は信じていない。


それでも、人生交換だけは止められた。


「ありがとうございます」


「別に、あなたのためじゃないわ」


ミレナは少し拗ねたように言った。


「自分の体のまま人間になれる方法があるなら、そっちの方がいいと思っただけ」


「それでいいです」


リリアは小さく笑った。


「今は、それで十分です」


ミレナは黙ったまま、少し離れた水槽の方を見た。


そこには、元人間の人魚たちがいる。


華やかな姿をしているのに、自由ではない人たち。


ミレナが今、足を踏み入れようとしていた未来。


リリアは、その光景を見つめた。


とりあえず、間に合った。


でも、終わったわけではない。


ここには、もう人生を交換してしまった人たちがいる。


ミレナのように止めることができなかった人たちがいる。


その人たちは、どうすればいいのか。


リリアには、まだ分からない。


それでも、見ないふりはできなかった。


「まだ信じられないのは、私も分かります」


リリアはミレナに向かって言った。


「私も、そうだったから」


ミレナは何も答えない。


「でも、きっとつらいけど、現実が分かる日が来ます」


水槽の向こうで、光が揺れる。


リリアはその光を見つめながら、静かに思った。


自分だけ戻ってきて、終わりではない。


ここからが、始まりなのだと。


リリアはミレナに、自分と同じ後悔をしてほしくありませんでした。


ミレナはまだワタルを諦めたわけではありません。


それでも、人生交換の申請だけは取り消すことにします。


次は、すでに人生を交換してしまった人魚たちと、ラウンジの問題に向き合っていきます。

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