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第83話 さよならは言わない

美波に体を返す日。


リリアは誠司に見送られながら、マーメイドラウンジへ向かいます。


さよならではなく、また会うために。

朝。


リリアと誠司は、手を握ったまま目を覚ました。


リリアは、誠司の手を見つめた。


この手を離せば、もうこの部屋を出ていかなければならない。


そう思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「……朝ですね」


リリアが小さく言った。


誠司は、握っていた手に少しだけ力を込めた。


「はい」


今日は、美波に体を返す日だった。


リリアはベッドから起き上がると、マーメイドラウンジへ行く支度を始めた。


服を選び、髪を整え、部屋の中をもう一度見回す。


昨日、誠司と一緒に片づけた部屋。


服も、髪飾りも、生活の跡も、きれいに整えられている。


リリアは棚の上に置いていた鍵を手に取った。


そして、誠司の前に立つ。


「この部屋の鍵です」


リリアは、手のひらに乗せた鍵を差し出した。


「よろしくお願いします」


誠司は、その鍵を受け取った。


「はい」


誠司は静かにうなずいた。


二人は黙ってマンションを出た。


外の空気は、思っていたよりも冷たかった。


リリアは、誠司の腕にそっと自分の腕を絡めた。


誠司は何も言わず、そのまま歩き出した。


一歩ずつ。


一歩ずつ。


二人はマーメイドラウンジへ向かった。


建物が見えてくると、リリアの足がわずかに遅くなった。


誠司も歩く速度を落とした。


「大丈夫ですか?」


「……大丈夫です」


リリアはそう答えた。


けれど、本当は大丈夫ではなかった。


それでも、行かなければならない。


美波に体を返すと決めたのは、自分なのだから。


従業員入口の前まで来ると、リリアは足を止めた。


ここから先へ、誠司は入れない。


二人は向き合った。


言葉より先に、リリアは誠司の胸へ飛び込んだ。


誠司は、その身体を強く抱きしめた。


離れたくなかった。


このまま時間が止まればいいと思った。


リリアは、誠司の胸から少しだけ顔を上げた。


誠司はリリアを見つめ、そっと唇を重ねた。


一度離れて、また重なる。


短く、何度も。


そのたびに、別れの時間が近づいていることを思い知らされるようだった。


最後の口づけだけは、少し長かった。


離れたくない気持ちを、言葉の代わりに伝えるように。


やがて唇が離れると、リリアは誠司から身を離した。


そして、涙をこらえながら笑った。


「行ってくるね」


「さよならは言わない」


「じゃあ、またね」


誠司は、唇を噛みしめながらうなずいた。


「……また」


リリアは従業員入口の扉に手をかけた。


振り返れば、きっと動けなくなる。


そう思いながらも、最後にもう一度だけ誠司を見た。


誠司は、そこに立っていた。


涙をこらえながら、リリアを見送っていた。


リリアは扉を開け、中へ入った。


扉が閉まる。


その瞬間、リリアの目から涙がこぼれた。


外では泣かないつもりだった。


誠司の前では、ちゃんと笑って行くつもりだった。


けれど、一人になった途端、こらえていたものがあふれてしまった。


リリアは涙を拭き、美波のいる水槽へ向かった。


美波は辛そうな顔をして、水槽近くのベンチに座っていた。


「美波さん」


リリアは静かに声をかけた。


「私、誠司さんから聞きました。元の人間に戻りたがっていると」


美波は顔を上げた。


リリアは、美波を見つめた。


「私たち、元通りの身体に戻りましょう」


美波は驚いた顔をした。


「本当に?」


声が震えていた。


「本当に、元通りになれるの?」


「はい」


リリアはうなずいた。


美波は、すぐには喜べなかった。


不安そうにリリアを見る。


「でも、元に戻ると……人魚は水槽に閉じ込められて出られないよ」


「それでもいいの?」


リリアは少しだけ目を伏せた。


「それは、私も嫌です」


正直な気持ちだった。


水槽に戻りたいわけではない。


誠司と離れたいわけでもない。


それでも、リリアは顔を上げた。


「でも、受け入れようと思います」


美波は黙っていた。


「いつか外に出られる日を信じて、人魚に戻ります」


リリアの声は静かだった。


けれど、迷いはなかった。


美波は、人間に戻れると聞いて少しほっとしたように見えた。


それでも、不安はまだ消えていない。


「私は……人間に戻りたいです」


美波は小さく言った。


「リリアさんが良ければ、また元の身体に戻りたいです」


リリアはうなずいた。


「分かりました。戻りましょう」


二人は、それぞれ端末を手に取った。


「元の姿に戻る」を押す。


その文字が画面に表示されている。


「押しましょう」


リリアが言った。


美波も、震える手で端末を持った。


二人は同時に、その項目を押した。


次の瞬間、二人の意識がふっと遠のいた。


ほんの一瞬だった。


リリアの身体から光があふれる。


美波の身体からも光があふれる。


その光は高速で交差し、それぞれの元の身体へ吸い込まれていった。


すべては、一瞬の出来事だった。


気づいた時、リリアは水槽近くのベンチに座っていた。


脚はない。


代わりに、懐かしい尾びれがあった。


リリアは、元の人魚の姿に戻っていた。


美波は、人間の身体に戻っていた。


美波は自分の手を見つめていた。


足元を見て、服を見て、息を呑む。


「戻った……」


美波の声は震えていた。


「私、人間に戻れた……」


リリアは美波を見た。


自分の身体に戻れたことに、ある意味ではほっとしていた。


けれど同時に、胸が痛んだ。


これでもう、誠司とは触れ合えない。


美波は、リリアへ深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


美波は涙を浮かべながら言った。


「私は人間の姿で、もう一度頑張ってみます」


リリアは静かにうなずいた。


「美波さん、マーメイドラウンジのマネージャーに、中身が入れ替わったことを報告してください」


「マネージャーに?」


「はい」


リリアは続けた。


「きっと仕事内容も、お互い元に戻ったことで分からないと思うので」


美波はうなずいた。


「はい。分かりました。マネージャーに報告します」


美波はもう一度リリアに頭を下げると、事務所の方へ向かって歩いていった。


リリアは水槽へ戻った。


少し落ち込んだが、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。


私のようにならないように。


まずは、ミレナさんに話さなきゃ。


リリアは水槽の中で、ミレナの方へ向かった。


「ミレナさん」


「私は、人魚に戻ったリリアです」


「大事なお話があります」


読んでくださりありがとうございます。


リリアは美波に体を返し、元の人魚の姿へ戻りました。


誠司と離れることになっても、リリアは水槽の中で、自分にできることを始めようとしています。

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