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第82話 最後の夜

漁師の渡から、怪しい儲け話へ誘われた優。


少しずつ海の奥の秘密へ近づいていきます。


一方、リリアは美波に体を返す前の最後の夜を、誠司と自分の部屋で過ごすことになります。

翌日も、優は港へ向かった。


渡に誘われた怪しい儲け話。


それが何なのか、まだはっきりとは分からない。


けれど、誠司から聞いていたリリアの話に近づいている気がした。


だから優は、何も知らないふりをして、いつものように漁師の手伝いを続けていた。


渡は、以前よりも優に気を許しているようだった。


仕事がひと段落したあと、二人は港の端に並んで座った。


海風が吹き、波の音が静かに響いている。


渡はしばらく黙って海を見ていたが、不意に口を開いた。


「なあ、優」


「はい」


「お前は恋愛ってしたことあるか?」


優は少し困ったように笑った。


「前も言ったように、僕は人と接するのが苦手なので……恋愛したことはありません」


渡は、納得したように笑った。


「俺もだ」


優は渡を見た。


「そうなんですか?」


「ああ。やっぱり、お前と俺は気が合うな」


渡は海の方へ視線を向けた。


「愛だの、恋だの、しょうもない」


その声には、投げ捨てるような響きがあった。


「人間の女なんて、所詮は金だ。金を持ってない漁師なんか、最初から興味ない」


優は黙って聞いていた。


「俺は昔から家の手伝いをさせられてた。船に乗って、魚を運んで、家に帰っても魚の匂いが取れなかった」


渡は、唇の端を歪めた。


「学校じゃ、女子に魚臭いって言われたよ。どっか行ってってな」


優は、何も言わなかった。


渡は笑っていた。


けれど、その目は笑っていなかった。


「だから俺は、人間の女が嫌いだ」


潮の音だけが、少しの間、二人の間に流れた。


やがて渡は、声を落とした。


「でもな」


優は、顔を上げた。


「そんな俺が、不思議と海ではモテるんだよな」


「海で、ですか?」


優は、何も知らないふりで聞き返した。


渡はにやりと笑った。


「海のホストクラブじゃねえぞ」


「……そういう意味ではないんですね」


「ああ。でも、勝手に俺に恋をしてついてくるんだよ。困ったことにな」


優の胸の奥が、静かに冷えた。


けれど、表情には出さなかった。


「そんなこと、あるんですか?」


「あるんだよ。人間の女とは違って、あいつらは純粋だからな」


その言葉が、優の中に残った。


人間の女とは違って。


あいつら。


渡はまだ、はっきりとは言っていない。


けれど、話は少しずつ海の奥へ近づいている。


誠司から聞いていたリリアの話に、近づいている気がした。


優は何も知らないふりをして、うなずいた。


「……その秘密の場所、少し気になります」


渡は満足そうに笑った。


「だろ? 今度、連れていってやるよ」


優は小さくうなずいた。


「お願いします」


渡は立ち上がり、船の方へ歩いていった。


優はその背中を見つめた。


人魚。


渡はまだ、その名前を出していない。


けれど、確かにそこへ近づいている。


優は、胸の奥に生まれた不安を押し込めながら、静かに息を吐いた。


ここで引くわけにはいかない。


証拠に近づくためには、渡に疑われないまま進むしかなかった。



竜宮城の海を出たあと、誠司はリリアの部屋に来ていた。


そこは、リリアが人間として暮らしてきたマンションだった。


何度か来たことのある部屋なのに、その日はいつもと違って見えた。


「明日、美波さんに体を返します」


リリアは静かに言った。


誠司は、すぐには返事ができなかった。


分かっている。


美波の体は、美波へ返さなければならない。


それが正しいことだと分かっている。


けれど、分かっていることと、受け入れられることは同じではなかった。


「その前に、少しだけこの部屋を片づけなきゃ」


リリアは、無理に明るくするように微笑んだ。


「誠司さん、手伝ってくれますか?」


「はい」


誠司はうなずいた。


二人は、静かに部屋を片づけ始めた。


リリアの服。


髪飾り。


人間として暮らしていたリリアの時間が、部屋のあちこちに残っていた。


誠司は、クローゼットの前で手を止めた。


そこには、リリアの服がきれいに並んでいた。


この服を着たリリアと、街を歩いたことがある。


この髪飾りをつけたリリアが、嬉しそうに笑っていたことがある。


その全部が、明日から遠くなる。


そう思うと、胸の奥が苦しくなった。


「誠司さん」


リリアが、そっと声をかけた。


「はい」


「この部屋……誠司さんが住んでくれますか?」


誠司はリリアを見た。


「僕が、ここに?」


リリアは小さくうなずいた。


「この部屋、賃貸じゃないんです。人間として生きていくつもりで、買った部屋だから」


リリアは、部屋の中を見回した。


「私がいない間、空っぽにしておきたくないの」


声が少しだけ震えた。


「私が人間として過ごした時間まで、消えてしまいそうで」


誠司は何も言えなかった。


「誠司さんがよければ、この部屋に住んでもらえたら嬉しいです」


リリアは、誠司を見つめた。


「私がいない間、自由に使って大丈夫なので」


誠司は、ゆっくりとうなずいた。


「僕でよければ、住みます」


リリアの瞳が揺れた。


「本当に?」


「はい」


誠司は、部屋を見回した。


「リリアさんが帰ってくる場所を、僕が守ります」


リリアは泣きそうに笑った。


「ありがとうございます」


その笑顔を見た瞬間、誠司は胸が締めつけられた。


最初から、リリアを好きだったわけではない。


むしろ、最初は戸惑っていた。


リリアは一方的に近づいてきて、誠司の気持ちなどおかまいなしに笑いかけてきた。


迷惑だと思ったこともある。


どうして自分なのか分からなかった。


けれど、いつの間にか変わっていた。


今は、リリアが愛おしくて仕方ない。


失いたくない。


美波に体を返してほしくない。


そんなことを思ってはいけないのに。


正しくないと分かっているのに。


明日が来なければいいと、思ってしまう。


「リリアさん……」


誠司が名前を呼ぶと、リリアは静かに顔を上げた。


「今日は、本当に最後の夜だから」


リリアは小さく言った。


「泊まってほしいです」


誠司は、リリアを見つめた。


「はい」


短く答えると、リリアは安心したように微笑んだ。


しばらくして、リリアはもう一度口を開いた。


「お願いがあります」


「何ですか?」


「私がマーメイドラウンジの人魚に戻っても、高額なお金を払って会いに来ないでください」


誠司は息を止めた。


「でも……」


リリアは首を横に振った。


「もう、ミレナさんの調査でお金がなくなってしまったでしょう?」


「これ以上、マーメイドラウンジにお金を使ってほしくないの」


誠司は言葉を失った。


お金を払えば、人魚に戻ったリリアに会える。


水槽越しでも、姿を見ることはできる。


声をかけることもできるかもしれない。


けれど、それはリリアが望む形ではなかった。


「私、いつか人間になれたら……誠司さんと結婚したいの」


リリアの声は小さかった。


けれど、その願いは確かだった。


「マーメイドホテルみたいな豪華な場所じゃなくてもいいんです」


リリアは少しだけ頬を染めた。


「でも、かすみさんみたいにウェディングドレスを着て、誠司さんと結婚したい」


誠司の胸が、強く痛んだ。


「だから、そのお金はためておいてほしいの」


リリアは誠司を見つめた。


「私に会うためじゃなくて、私たちの未来のために」


誠司は、ゆっくりとうなずいた。


「分かりました」


声が少し震えた。


「リリアさんに会うために、マーメイドラウンジには行きません」


リリアの瞳が潤む。


誠司は続けた。


「迎えに行く時は、マーメイドラウンジの水槽から出して、竜宮城へ帰る時です」


リリアは、息を呑んだ。


「必ず迎えに行きます」


誠司はリリアを見つめた。


「だから、それまで待っていてください」


リリアは、こらえきれずに涙をこぼした。


「はい」


誠司は、そっとリリアを抱きしめた。


リリアも、誠司の背中に腕を回した。


明日になれば、この腕の中にいるリリアは、人間の姿ではいられなくなる。


同じ部屋で、同じ空気の中で、触れられる距離にいられる時間は、もうわずかだった。


誠司はリリアの髪に触れた。


そして、ゆっくりと唇を重ねた。


リリアは目を閉じて、そのぬくもりを受け止めた。


窓の外には、遠い夜空が広がっていた。


このまま二人で、あの空の向こうまで逃げられたらいいのに。


明日という現実が来る前に。


誠司はリリアを抱きしめ、リリアはその腕の中で目を閉じた。


言葉にすれば、きっと泣いてしまう。


夜の深さだけが、二人を遠い空へ連れていくようだった。


それでも、朝は来る。


そのことを知りながら、二人は最後の夜を過ごした。

読んでくださりありがとうございます。


優は渡の言葉から、少しずつ人魚に関わる何かへ近づいていきました。


そしてリリアと誠司は、明日を前に、最後の夜を過ごしました。


遠い夜空の下で交わした約束が、二人のこれからをつないでいきます。

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