第79話 姿が違っても
竜宮城ホテルで一夜を過ごすことになった八人。
リリアの家族がホテルへ呼ばれ、リリアは人間の姿のまま再会することになります。
その頃、かすみたちは別室で、マーメイドラウンジの問題について話し合いを始めます。
竜宮城ホテルの朝は、静かだった。
真珠の灯りはまだ淡く揺れ、窓の外には青い海の光が広がっている。
誠司とリリアは、同じ部屋で朝を迎えていた。
長く眠れたわけではなかった。
それでも、互いのそばにいられた時間は、二人にとって大切なものだった。
リリアは、誠司の隣で静かに手を重ねていた。
美波に体を返せば、人魚の体に戻る。
そうなれば、マーメイドラウンジの水槽に戻ることになる。
その現実は変わらない。
けれど、今はまだ、誠司の温もりがそばにあった。
その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
誠司が顔を上げる。
「はい」
扉の向こうから、桃色の髪の人魚の声が聞こえた。
「失礼いたします。リリア様のご家族が到着されました」
リリアの手が、誠司の手を少しだけ強く握った。
誠司は、その手を握り返した。
「一緒に行きましょう」
リリアは小さくうなずいた。
「はい」
二人は身支度を整え、案内役の人魚に連れられて部屋を出た。
廊下には、真珠の灯りが並んでいた。
白い貝殻の床に、水の光が揺れている。
リリアは一歩ずつ歩いた。
その足取りは、いつもより少しだけ重かった。
やがて、小さな応接室の前で案内役の人魚が止まった。
「こちらです」
扉が開かれる。
中には、三人の人魚がいた。
年配の優しそうなお母さんと思われる人魚。
落ち着いた感じのお父さんと思われる人魚。
そして、リリアより若く見える妹と思われる人魚。
三人とも、扉が開いた瞬間にこちらを見た。
リリアは、動けなくなった。
「……お父様。お母様。ミリア」
その声を聞いた瞬間、年配の優しそうなお母さんと思われる人魚が口元を押さえた。
「リリア……?」
リリアは、震える声で言った。
「ただいま……帰りました」
人魚の家族は、人間の姿をしたリリアを見つめていた。
姿は違う。
髪も、尾びれも、海の中で泳いでいた頃のリリアとは違う。
けれど、声はリリアだった。
呼び方も、話し方も、家族を見る時の表情も。
母の瞳に涙が浮かんだ。
「本当に……リリアなのね」
リリアは、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
応接室の中に、静かな水音だけが響いた。
「勝手に竜宮城を出て、人間について行きました。ずっと帰れませんでした。こんな姿で戻ってきて……本当に、ごめんなさい」
「リリア」
母は、思わず近づこうとした。
けれど、隣にいた父がそっと止めた。
長老から伝えられていたのだろう。
今のリリアは人間の体。
人魚が触れれば、珊瑚になる危険がある。
母は、震える手を胸の前で止めた。
「抱きしめてあげることもできないのね」
その声に、リリアの顔が歪んだ。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
父が静かに言った。
その声は厳しくもあり、震えてもいた。
「無事に帰ってきた。それだけでいい」
リリアは顔を上げた。
「でも、私は……」
「罪がないとは言わない」
父は、リリアをまっすぐ見た。
「けれど、お前が戻ってきて話したことは、長老から聞いた。ミレナ様のことも、他の人魚たちのことも」
母は、涙をこらえながら言った。
「ずっと心配していたのよ」
妹のミリアも、泣きそうな顔でリリアを見ていた。
「お姉様……本当にお姉様なの?」
リリアは、小さくうなずいた。
「そうよ。ミリア」
「でも、触れないんですよね」
「今は……」
ミリアは唇を噛んだ。
「抱きつきたいのに」
その言葉に、リリアの涙がこぼれた。
本当は、自分も抱きしめたかった。
家族の腕の中で泣きたかった。
けれど、それはできない。
触れたら、家族を珊瑚にしてしまう。
リリアは、涙を拭った。
「紹介したい人がいます」
リリアは、隣に立つ誠司を見た。
誠司は、すぐに姿勢を正した。
「この方が、誠司さんです」
リリアの声は、まだ震えていた。
「私が人間になってから、好きになった人です」
応接室の空気が、静かに変わった。
父と母は、誠司を見る。
誠司は深く頭を下げた。
「誠司です」
少し間を置いて、誠司は続けた。
「リリアさんを大切に思っています」
リリアの家族は、何も言わずに誠司を見ていた。
誠司は顔を上げた。
「リリアさんが人魚に戻れば、マーメイドラウンジに戻ることになります。それでも、俺はリリアさんと離れたくありません」
リリアの母が、静かに息をのんだ。
「人間のあなたが、人魚のリリアと?」
「はい」
誠司は迷わず答えた。
「触れることができなくなることも分かっています。でも、リリアさんを好きな気持ちは変わりません」
リリアは、誠司の横顔を見つめた。
父は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言った。
「人魚と人間の恋は、簡単なものではない」
「分かっています」
「掟もある。触れれば珊瑚になる危険もある」
「それでも、道を探したいです」
誠司の声は静かだった。
けれど、まっすぐだった。
リリアの父は、長く誠司を見つめた。
「リリアを泣かせたら、許さない」
その言葉に、リリアが驚いて父を見る。
誠司は、深く頭を下げた。
「はい」
母は、涙を拭いながら小さく微笑んだ。
「リリアが選んだ人なのね」
リリアは、涙をこらえながらうなずいた。
「はい」
母は、触れられない距離でリリアを見つめた。
「姿が違っても、あなたはリリアよ」
リリアの胸が、大きく震えた。
「お母様……」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
リリアは、声を出して泣きそうになった。
けれど、触れられない。
抱きしめられない。
その距離が、今のリリアの現実だった。
それでも、家族はリリアをリリアだと分かってくれた。
人間の姿でも。
罪を抱えて戻ってきても。
リリアは、涙をこらえながら、家族の前に立っていた。
その頃、かすみたちは別室に集まっていた。
誠司とリリアは家族と会っている。
だから今のうちに、これからのことを話し合うことになった。
部屋には、かすみ、煌成、レイナ、翔、早希、大地がいた。
大きな丸いテーブルの上には、温かい飲み物と軽い食事が用意されている。
けれど、誰も明るい気持ちで食事をすることはできなかった。
最初に口を開いたのは、かすみだった。
「リリアさんを人魚に戻して終わり、ではないですよね」
煌成がうなずいた。
「むしろ、そこからが本当の問題だと思う」
早希は、真剣な顔で言った。
「リリアさんが人魚に戻れば、マーメイドラウンジの水槽に戻ることになります。そこを変えないと、何も解決しません」
大地も腕を組んだ。
「ミレナさんも助けないといけない。しかも、他の人魚たちは体交換が何度も続いている可能性があるんだろ」
レイナは、テーブルの上に置かれたカップを見つめていた。
翔も黙っている。
煌成は、静かに言った。
「まず必要なのは、証拠だね」
かすみが煌成を見る。
「証拠……」
「漁師が人魚をどうやって連れ出したのか。誰に、いくらで売ったのか。マーメイドラウンジ側がそれを知って受け入れていたのか」
煌成の声は冷静だった。
「優さんが港で漁師について調べている。まずは、優さんから情報を得る必要がある」
早希がうなずいた。
「漁師情報ですね」
「そうだね」
煌成は続けた。
「人魚本人の自由な意思ではなく、漁師が甘い言葉で連れ出し、水槽で運び、マーメイドラウンジへ高額で引き渡している。もしそれが事実なら、これはかなり重大な問題だ」
翔が低い声で言った。
「人魚を売ってるってことだよな」
「そう見ていいと思う」
煌成は、表情を曇らせた。
「ただで連れてきた人魚を、高額で売る。そして、その後も人魚は水槽に閉じ込められ、接客をさせられる。得たお金が人魚本人に入るわけでもない」
かすみは、胸の奥が重くなるのを感じた。
「それって……人身売買みたいなものですよね」
「近いと思う」
煌成は静かに答えた。
「いくら欲望区でも、これは違法だと思う。表に出れば、マーメイドラウンジは営業停止になる可能性が高い」
レイナの手が、かすかに動いた。
翔も表情を重くする。
煌成は続けた。
「営業停止だけでは済まないかもしれない。経営者、仲介した者、人魚を連れてきた漁師。関わった者たちの責任が問われるはずだ」
大地が言った。
「でも、いきなり潰せばいいって話でもないよな。中にいる人魚たちがどうなるか分からない」
「そうだね」
煌成はうなずいた。
「だから、証拠を掴んだ上で交渉する必要がある」
かすみは、少し考えてから聞いた。
「示談、ですか?」
「まずはね」
煌成は答えた。
「人魚を解放すること。ミレナを竜宮城へ返すこと。体交換の整理に協力すること。今後は本人の意思、休暇、里帰りを含めた形に変えること。そこまで飲むなら、示談で終わらせる道もある」
早希が静かに言った。
「飲まなかったら?」
「その時は、処罰してもらうしかない」
煌成の声が少し低くなった。
「営業停止、責任者の処分、漁師や仲介者の追及。欲望区でも、これは見逃されていい問題ではない」
レイナは、何も言えなかった。
翔も黙っていた。
二人にとって、マーメイドラウンジは遠い場所ではない。
玲司と詩乃に雇われている。
そして玲司と詩乃は、マーメイドラウンジの経営にも関わっている。
もし目玉である人魚たちがいなくなれば、マーメイドラウンジの価値は下がる。
もし違法性が明らかになれば、店そのものが危うくなる。
レイナは、重い声で言った。
「私たち、今まで自分たちの利益ばかり考えていました」
かすみたちがレイナを見る。
「欲望区で生き抜くためには、それしかないと思っていました。上に行くこと。稼ぐこと。選ばれること。自分たちの価値を上げること」
翔も続けた。
「でも、今回は違う」
翔は、手を強く握った。
「初めて、本気で誰かを助けたいと思った」
レイナは、小さくうなずいた。
「でも、私たちは玲司さんと詩乃さんに雇われています。二人は、マーメイドラウンジにも関わっている」
レイナの声が揺れた。
「このまま人魚を水槽で働かせるのは良くない。でも、目玉の人魚がいなくなれば、マーメイドラウンジの価値は下がります」
翔は、苦しそうに息を吐いた。
「助けたいって思う。でも、俺たちは玲司さんたちに雇われてる。人魚を助けるってことは、今の仕事や立場にも関わってくるんだよな」
かすみは、二人を見つめた。
「でも、もう知ってしまいました」
レイナは顔を上げる。
かすみは続けた。
「知ったあとで、何も見なかったことにはできないと思います」
レイナは唇を結んだ。
翔も黙ってうなずいた。
煌成は、落ち着いた声で言った。
「マーメイドラウンジをただ潰せばいいわけではない。中で働く人間もいる。体交換をした人魚もいる。今さら元に戻すのが難しい人魚の体もある」
早希が続けた。
「本当に働きたい人魚だけが働ける形にするなら、条件が必要ですね」
「休暇、里帰り、契約期間、帰る場所の保証」
煌成が言った。
「そして、すぐ海へ帰れる場所にすること。本物の人魚に会える場所を残すとしても、水槽に閉じ込める形ではだめだ」
大地が言う。
「海の近くで、帰りたい時に帰れる場所か」
「そうだね」
煌成はうなずいた。
「本物の人魚に頼りきるのではなく、店の形そのものを変える必要がある」
レイナは、静かに聞いていた。
今まで自分たちは、欲望区で価値を上げることばかり考えていた。
けれど、価値の裏側に誰かの自由が奪われているのなら。
それは、もう見過ごしていいものではなかった。
かすみは、少し考えてから言った。
「長老側とも、改めて話す必要がありますね」
煌成もうなずく。
「そうだね。竜宮城側がどう動くのか、マーメイドラウンジ側とどう交渉するのか。それは、僕たちだけで決められる話ではない」
早希が言った。
「だからこそ、まずは証拠が必要なんですね」
「そういうことだね」
煌成は静かに答えた。
「証拠、交渉、責任追及、営業形態の変更。その全部を考えないといけない」
大地が息を吐いた。
「思ったより、ずっと大きい話だな」
「はい」
かすみは、静かにうなずいた。
「リリアさんと美波さんだけの問題ではありません」
ミレナ。
マーメイドラウンジに残る人魚たち。
人間になって欲望区へ出て行った元人魚たち。
何度も体を交換され、元に戻すことが難しくなった人魚の体。
そして、人魚を高額で売った漁師。
すべてがつながっている。
簡単に答えは出ない。
それでも、進まなければならない。
レイナは、ぽつりと言った。
「私たち、玲司さんと詩乃さんに話せるでしょうか」
翔は、すぐには答えなかった。
けれど、やがて静かに言った。
「話すしかないんじゃねえか」
レイナは翔を見る。
「今まで通り、何も知らないふりして仕事を続ける方が、もう無理だ」
翔の声は重かった。
けれど、逃げてはいなかった。
レイナは、ゆっくりうなずいた。
「そうだね」
かすみは、二人を見ていた。
レイナと翔は、欲望区で生きるために強くなろうとしてきた。
けれど今、二人は初めて、自分たちの利益とは違うものを見ようとしている。
誰かを助けたい。
その気持ちが、二人の中で静かに形を持ち始めていた。
「この話は、私たちだけでは決められませんね」
かすみが言った。
煌成もうなずく。
「長老たちとも、改めて話しましょう。優さんから漁師情報を聞く必要もある」
早希は、真剣な表情で言った。
「明日から、動き方を決めた方がいいですね」
大地も続ける。
「証拠を集める組と、竜宮城側と話す組に分かれることになるかもしれないな」
レイナと翔も、静かにうなずいた。
竜宮城ホテルの夜は、深く静かだった。
リリアは家族と再会し、誠司を紹介している。
その一方で、仲間たちは別室で、これから向き合う問題の大きさを知った。
まだ答えは出ていない。
けれど、誰ももう、知らないふりをするつもりはなかった。
話し合いは、夜遅くまで続いた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、リリアと家族の再会、そして仲間たちがマーメイドラウンジの問題に向き合い始める回でした。
答えはまだ出ていません。
けれど、それぞれが少しずつ、次に進むための道を考え始めています。




