第78話 竜宮城ホテル
竜宮城ホテルへ到着した八人。
美しい真珠の灯りに包まれたその場所で、リリアだけが結界に感知されてしまいます。
人魚の反応があるのに、体は人間。
リリアは竜宮城の長老の前で、自分がしてきたこと、そしてマーメイドラウンジで起きていることを話し始めます。
海底移動艇が、竜宮城ホテルの門の前で静かに止まった。
真珠色の光に包まれた門の向こうには、珊瑚の柱、貝殻を重ねたような屋根、海藻のカーテンのように揺れる飾りが見える。
欲望区で見たマーメイドエリアとは違う。
ここには、本物の竜宮城の空気があった。
「……すごい」
レイナが小さくつぶやいた。
「欲望区のマーメイドエリアもきれいだと思ってたけど……本物は、全然違うね」
翔も、門の奥を見つめた。
「ああ。来てよかったな」
八人は海底移動艇を降り、竜宮城ホテルの入口へ向かった。
入口では、桃色の髪の人魚と、青い髪の人魚が待っていた。
「海底廃宮調査ミッションの達成者ですね」
桃色の髪の人魚が、かすみたちの入場券と宿泊許可証を確認する。
「確認しました。皆さまは、竜宮城ホテルへの入場と宿泊が許可されています」
その直後、入口に並んでいた真珠の灯りが、一斉に青白く光った。
リリアの足元に、水紋のような魔法陣が浮かび上がる。
青い髪の人魚が、すぐにリリアを見る。
「お待ちください」
桃色の髪の人魚も表情を変えた。
「人魚の反応があります。ですが、体は人間……?」
リリアは、息をのんだ。
誠司が一歩前へ出る。
「リリアさんは不審者ではありません」
青い髪の人魚が、誠司を見る。
「あなたは?」
「誠司です。リリアさんの事情を知っています」
誠司は、落ち着こうとしながら言葉を続けた。
「リリアさんは元人魚です。でも今は、人間の美波さんと体を交換しています。美波さんは今、リリアさんの人魚の体で、欲望区のマーメイドラウンジの水槽にいます」
「マーメイドラウンジ……」
桃色の髪の人魚が、小さくその名を繰り返した。
誠司は続けた。
「美波さんに体を返せば、リリアさんは人魚に戻ります。そうなれば、マーメイドラウンジの水槽に戻ることになります」
リリアは、胸の前で手を握りしめた。
「だから、その前に最後に一度、竜宮城を見ておきたいと思ったんです。それから、ミレナさんや他の人魚たちが欲望区でどうなっているのかを、竜宮城の人たちに伝えるために来ました」
案内役の人魚たちは、すぐには答えなかった。
人魚の反応がある。
けれど、体は人間。
そのうえ、欲望区とマーメイドラウンジの名が出ている。
案内役だけで判断できる話ではなかった。
青い髪の人魚が、胸元の貝殻飾りにそっと手を当てた。
「竜宮城ホテル受付より、長老へ連絡を取ります。元人魚の反応を持つ人間の女性が来訪しています。本人は、体交換と欲望区の人魚について説明を希望しています」
貝殻が淡く光り、水の中に小さな波紋が広がった。
やがて、貝殻の奥から落ち着いた声が響いた。
『詳しい話を聞きましょう』
案内役の人魚たちは、同時に姿勢を正した。
貝殻から、さらに声が続く。
『その御一行様を、全員応接室へ連れてきてください』
「承知いたしました」
通信の光が静かに消える。
青い髪の人魚は、改めて八人へ向き直った。
「長老より、応接室へお通しするよう指示がありました」
誠司が、そっとリリアの隣に立つ。
「大丈夫です。俺も一緒に話します」
リリアは小さくうなずいた。
「はい」
桃色の髪の人魚が、ホテルの奥へ続く道を示した。
「こちらへどうぞ。皆さま全員、応接室へご案内いたします」
八人は、案内役の人魚に連れられて竜宮城ホテルの中へ入った。
白い貝殻の床。
水晶の噴水。
真珠の灯り。
壁には珊瑚の模様が刻まれ、天井には淡い青の光がゆらゆらと揺れている。
応接室は、ホテルの奥にあった。
白い貝殻と磨かれた石で作られた、静かな部屋だった。
中央には、大きな丸いテーブルがある。
周囲の壁には珊瑚の模様が刻まれ、真珠の灯りがやわらかく揺れていた。
八人は案内された席に座り、長老が来るのを待った。
誰も大きな声では話さなかった。
リリアは膝の上で手を握りしめている。
誠司は、その隣でまっすぐ前を見ていた。
しばらくして、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、年老いた人魚だった。
長い白銀の髪。
深い海の色をした瞳。
尾びれは淡い真珠色で、身にまとった衣装には、珊瑚と小さな貝殻が丁寧に飾られている。
その姿は穏やかだった。
けれど、部屋の空気が自然と引き締まるような重みがあった。
桃色の髪の人魚と青い髪の人魚が、深く頭を下げる。
「長老」
年老いた人魚は静かにうなずき、八人を見た。
その視線が、最後にリリアで止まる。
リリアの肩が、わずかに震えた。
長老は責めるような声ではなく、低く穏やかな声で言った。
「詳しい話を聞かせておくれ」
案内役の人魚が、一歩前へ出た。
「長老。この御一行様を受付でお迎えした際、こちらにおられるリリア様だけが、結界に感知されました」
長老は、静かにリリアを見る。
案内役の人魚は続けた。
「事情をお聞きしたところ、この竜宮城に住んでいた人魚だと伺いました」
「なるほど」
長老は、深い海のような瞳でリリアを見つめた。
「そちらのリリアさんですね」
リリアの肩が、小さく震えた。
長老の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には逃げ場のない重みがあった。
「リリアさん。話を聞かせていただけますか」
リリアは、膝の上で手を握りしめた。
少しの間、声が出なかった。
誠司が、代わりに説明しようと口を開きかける。
けれど、リリアは小さく首を振った。
「私が話します」
誠司は、言葉を飲み込んだ。
リリアは長老を見つめた。
「私は、この竜宮城に住んでいました」
リリアの声は小さかった。
それでも、応接室の中にはっきりと響いた。
「ある時、竜宮城を少し出て、海を泳いで探検していました。その時、人間の若い漁師に出会いました」
リリアは、苦しそうに息を吸った。
「その人は、格好よくて、たくましく見えました。私は、一目で好きになってしまいました」
長老は何も言わなかった。
桃色の髪の人魚も、青い髪の人魚も、黙って聞いていた。
「彼に、ついておいでと言われました。私はその言葉を信じて、彼の船にあった水槽へ入りました」
リリアの手に力が入る。
「その後、船の水槽から車の水槽へ移され、欲望区へ運ばれました。着いたところは、マーメイドラウンジでした」
「彼は、迎えに行くから待っていてと言いました。だから私は、マーメイドラウンジの水槽で、その人が迎えに来るのを待っていました」
リリアの声が、少し震えた。
「でも、いくら待っても、彼は迎えに来ませんでした」
応接室の中に、静かな沈黙が落ちた。
「がっかりしていた時、他の人魚たちから話を聞きました。そこには、私と同じように、人間に恋をしたり、甘い言葉を信じたりして連れて来られた人魚がいました」
リリアは、少しだけうつむいた。
「みんな、迎えに来ると言われていました。でも、どの人魚にもお迎えは来ませんでした」
長老の表情が、わずかに重くなった。
「その話を聞いて、私はやっと気づきました。私は騙されたのだと。もう、あの人は迎えに来ないのだと」
リリアは、胸の前で手を握った。
「でも、水槽から出ることはできませんでした。そこで生きるには、人間のお客様に接客をするしかありませんでした」
言葉を切り、リリアは続けた。
「最初はつらかったです。でも、生きていくために、一生懸命働きました。たくさん指名をいただけるようになり、マーメイドラウンジでの営業成績が一位になりました」
長老は、静かに聞いていた。
かすみたちも、言葉を挟まなかった。
「でも、私は水槽から出られませんでした」
リリアの声が、少しだけ低くなる。
「自由に外を歩ける人間が、羨ましかったんです」
長老は、静かに視線を落とした。
リリアは続けた。
「その一方で、美波さんという人間の女の子がいました。美波さんもマーメイドラウンジで働いていましたが、接客がうまくいかず、成績も悪くて悩んでいました」
「美波さんは、人魚になれば人気が出ると思ったのだと思います。人魚なら指名も増える。嫌なお客様に触られなくても済む。人魚になれば、今よりうまくいくのではないかと」
リリアは、自分の手を見つめた。
「私は人間になりたかった。美波さんは人魚になりたかった。だから、私たちはお互いの願いが一致して、体を交換しました」
応接室の空気が、静かに揺れた。
「私は人間になって、外に出られるようになりました。自分の足で歩けるようになりました。でも、美波さんは違いました」
リリアは、苦しそうに言葉を続けた。
「美波さんは、もともと人間です。人魚の体をうまく使うことができませんでした。泳ぐことも、接客することもぎこちなくて、結局、体を変えても成績は悪いままでした」
リリアの声が震えた。
「しかも、水槽の外には出られません。美波さんは、元の人間に戻りたいと思うようになりました」
応接室の空気が、さらに重くなった。
「人間になった私は、こちらにいる誠司さんに恋をしました」
リリアは、少しだけ誠司の方を見た。
誠司は、黙ってリリアを見守っていた。
「欲望区のマーメイドラウンジに来るお客様とは違って、誠司さんは誠実でした。真面目で、優しくて……だから、好きになってしまいました」
リリアは、唇を噛んだ。
「私は、誠司さんに両想いの彼女がいると知らずに、積極的に近づきました」
かすみの指先が、膝の上で小さく動いた。
その話は、もう知っている。
リリアが悪意だけで近づいたわけではないことも、今なら分かっている。
それでも、胸の奥に残っていた古い痛みが、少しだけ浮かび上がった。
誠司が自分に向けていた気持ち。
リリアと誠司の間に起きたこと。
あの頃の戸惑いや苦しさが、一瞬だけ胸を締めつける。
その時、隣に座っていた煌成が、静かにかすみの手を握った。
何も言わなかった。
ただ、そこにいると伝えるように。
かすみは、ゆっくり息を吸った。
そして、煌成の手を握り返した。
今の自分は、一人ではない。
リリアは続けた。
「誠司さんは、竜宮城で行方不明になったミレナさんや、他の人魚たちのことを調べるために、マーメイドラウンジへ来ていました」
リリアの声は、細くなった。
「それなのに私は、マーメイドラウンジのことを教えるからと言って、誠司さんを引き止めました。調査のために来ていた誠司さんを、自分の気持ちのために利用してしまいました」
誠司が、思わず口を開きかける。
けれど、リリアは首を振った。
「私が言わなければいけないんです」
誠司は、唇を結んだ。
リリアは長老を見た。
「私は、誠司さんに一線を越えさせてしまいました」
応接室の空気が、静かに張りつめた。
レイナと翔は、何も言わなかった。
二人は、海底移動艇の中でリリアから話を聞いている。
だから、驚くことはなかった。
ただ、竜宮城の長老の前で、リリアが自分の過ちをもう一度言葉にしていることの重さを感じていた。
リリアは、深く息を吸った。
「でも、誠司さんには両想いの彼女がいました。私は、なかなか振り向いてもらえませんでした」
リリアは、膝の上で手を握りしめる。
「そのうち、私は人間でいる意味が分からなくなっていきました。美波さんにも悪いと思いました。私は、人間の体を借りたまま、自分の願いばかりを追いかけていたのだと思います」
リリアの声が震える。
「だから、美波さんに体を返そうと決めました」
長老は、静かにリリアを見つめていた。
リリアは、さらに深く頭を下げた。
「私は竜宮城の掟を破りました。人間の漁師に恋をして、信じてついて行きました。その結果、マーメイドラウンジに連れて行かれ、美波さんと体を交換し、今も本来の体を返せずにいます」
リリアの手が震えていた。
「美波さんに体を返せば、私は人魚の体に戻ります。そうなれば、またマーメイドラウンジの水槽に入ることになります」
一度、言葉が止まった。
けれど、リリアは逃げなかった。
「二度と、この故郷へ帰れなくなる。その覚悟で来ました」
長老の瞳が、静かに揺れた。
「私は、美波さんに体を返せば、もう竜宮城へ来ることはできなくなります」
リリアは、静かに息を吸った。
「だから最後に一度、竜宮城を見ておきたいと思いました。それから、その前に、ミレナさんや他の人魚たちが欲望区でどうなっているのかを、竜宮城の皆さまに伝えておかなければいけないと思い、ここへ来ました」
リリアは、深く頭を下げた。
「許されるとは思っていません。でも、どうか話を聞いてください」
長老は、しばらく黙ってリリアを見つめていた。
応接室の中に、静かな水音だけが響く。
やがて、長老はゆっくりと言った。
「顔を上げなさい」
リリアは、震えるように顔を上げた。
長老の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には、長く竜宮城を守ってきた者の重みがあった。
「あなたの罪は軽くありません」
リリアの肩が、わずかに沈む。
「けれど、戻ってきて話したことには意味があります」
リリアは、長老を見つめた。
長老は続けた。
「姿ちがえどよく帰ってきてくれた」
その言葉に、リリアの胸が大きく揺れた。
「そして詳しく話を聞かせてくれてありがとう」
リリアは、唇を震わせた。
責められると思っていた。
追い返されるかもしれないと思っていた。
それなのに、長老は帰ってきたことを受け止めてくれた。
「その問題はどうするか考える」
長老は、静かに言った。
「今は故郷に帰ってきたのだから、竜宮城でゆっくり休んでいきなさい」
リリアは、言葉を失った。
胸の奥に押し込めていたものが、少しずつほどけていく。
その時、長老は少し声をやわらげた。
「それと、リリアのご家族にも連絡していいかい?」
リリアの体が、ぴくりと動いた。
「家族に……」
「きっとご家族も心配なさっていたと思う」
リリアは、膝の上で手を握りしめた。
会いたい。
本当は、ずっと会いたかった。
けれど。
「家族には……会いたいです」
リリアの声は小さかった。
「でも、こんな姿で家族に合わせる顔がありません」
人魚として出て行った。
掟を破って、人間について行った。
そして今は、人間の体で帰ってきた。
どんな顔をして、家族に会えばいいのか分からなかった。
長老は、静かに首を横に振った。
「確かに、見かけは人間です」
リリアは息を止めた。
「けれど、中身も魂も、あなたは人魚です」
長老の声は、深く、やさしかった。
「話せば、きっと分かってくれる」
リリアの目元に、涙がにじんだ。
長老は、八人をゆっくりと見渡した。
「もし人魚に戻れたら、竜宮城に帰る方法をここにいる者たちと考えよう」
誠司が、静かにうなずいた。
かすみも、煌成も、レイナも翔も、その言葉を受け止めるように黙っていた。
長老は、さらに続けた。
「そして、他の人魚も帰れるようにしてあげなければ……」
その言葉に、リリアの表情が変わった。
「それが……」
長老がリリアを見る。
リリアは、言いにくそうに唇を結んだ。
「今、マーメイドラウンジにいる人魚は、私みたいに、ほとんどの人魚が人間と体を交換しています」
応接室の空気が、変わった。
案内役の人魚たちも、言葉を失っていた。
リリアは続けた。
「人魚から人間になって、マーメイドラウンジに残っている元人魚もいます。でも、人間になって、マーメイドラウンジや欲望区から出て行って、どこにいるか分からない元人魚もたくさんいます」
長老の表情が重くなった。
「さらに、人魚と人間が体を交換して、その人間が水槽生活を嫌がって、別の人間と交換した例もあります」
リリアの声が、さらに沈む。
「交換が何回も続いている人魚の体もあって、元に戻すのはかなり難しい状態の人魚もいます」
応接室に、重い沈黙が落ちた。
リリアは、長老を見つめた。
「今、マーメイドラウンジに残っている純粋な人魚は、ミレナだけです」
その名を聞いた瞬間、長老の表情がはっきりと変わった。
桃色の髪の人魚も、青い髪の人魚も、言葉を失う。
ミレナは、ただの人魚ではない。
竜宮城では、お姫様のように大切にされてきた存在だった。
歌に優れ、海に祝福された人魚。
多くの者が、いつか竜宮城へ戻ってくることを願い続けていた。
長老は、低い声でその名を繰り返した。
「ミレナが……まだ人魚のまま、欲望区の水槽にいるのですか」
リリアは、苦しそうにうなずいた。
「はい。でも、安全とは言えません」
リリアは、胸の前で手を握りしめた。
「ミレナも、私や他の人魚たちのように、人間と体を交換してしまうのは時間の問題かもしれません」
応接室に、さらに重い沈黙が落ちた。
ミレナが体を交換してしまえば、竜宮城は彼女を見つける手がかりさえ失うかもしれない。
長老は、深く息を吐いた。
「……それは、竜宮城にとっても重大なことです」
リリアは、言い終えたあとも頭を下げたままだった。
それでも、まだ言わなければならないことがあった。
「それから……こんな身でお願いできる立場ではありませんが」
リリアの声が、震えた。
誠司が、はっとしてリリアを見る。
リリアは、長老を見つめた。
「もし私が人魚に戻れたら、そこにいる誠司さんが珊瑚にならずに済むようにしてほしいのです」
応接室の空気が、静かに張りつめた。
人魚と人間の接触。
そして、人魚と人間の恋。
それは、竜宮城の掟に深く関わる願いだった。
リリアは、胸の前で手を握りしめた。
「私は誠司さんを愛しています。人魚に戻っても、その気持ちは変わりません」
誠司は、言葉を失ったままリリアを見ていた。
「だから……誠司さんが珊瑚にならずに、私に触れられるように。私たちが、愛し合えるようにしてほしいのです」
長老は、すぐには答えなかった。
静かな沈黙が落ちる。
やがて、長老は低く言った。
「それは、長く禁じられてきた願いです」
リリアは、唇を結んだ。
「分かっています」
「けれど」
長老は、誠司を見た。
そして、もう一度リリアを見る。
「あなたがその願いを口にするほどの覚悟で戻ってきたことは、分かりました」
リリアの胸が、静かに震えた。
「すぐに答えは出せません。けれど、道がないか、考えましょう」
長老は、静かに息を吐いた。
「この件は、すぐに答えを出せるものではありません」
リリアは、胸の前で手を握りしめたまま、長老を見つめていた。
長老は、八人をゆっくりと見渡した。
「考える時間が必要です。みなさんは、竜宮城ホテルで体を休めてください」
その言葉に、張りつめていた空気が少しだけやわらいだ。
「リリアさんのご家族には、竜宮城ホテルへ来るように連絡します」
リリアの体が、小さく震えた。
「家族が……ここに……」
「会うかどうかは、あなたの気持ちも大切にします。けれど、まずは無事を知らせてあげなければなりません」
長老は、穏やかな声で続けた。
「リリアさんは今、人間の体です」
案内役の人魚たちも、静かにうなずいた。
「ご家族であっても、くれぐれも触れないように伝えます」
リリアは息をのんだ。
長老の声が、少し重くなる。
「不用意に触れれば、珊瑚になる危険があります」
応接室に、再び静かな緊張が戻った。
家族に会えるかもしれない。
けれど、抱きしめてもらうことはできない。
手を取ることもできない。
リリアは、その現実を胸の奥で受け止めた。
「……はい」
小さく答えるリリアの隣で、誠司が黙って寄り添っていた。
長老は、案内役の人魚へ視線を向けた。
「皆さまを客室へご案内しなさい。食事と休息の準備も」
「承知いたしました」
桃色の髪の人魚と青い髪の人魚が、深く頭を下げた。
案内役の人魚が、客室の準備について確認しようとした時だった。
誠司が、少しだけ迷ってから口を開いた。
「すみません。リリアさんと、同じ部屋にしていただくことはできますか」
リリアが驚いたように誠司を見る。
誠司は、長老へ向き直った。
「美波さんに体を返せば、リリアさんは人魚に戻ります。そうなれば、マーメイドラウンジの水槽に戻ることになります」
誠司の声は、静かだった。
けれど、その奥には必死な思いがあった。
「人間の姿で、こうして一緒にいられる時間は、もう長くはありません」
リリアは、胸の前で手を握りしめた。
その言葉は、リリア自身もずっと分かっていたことだった。
美波に体を返す。
それは正しいことだ。
けれど、その先に待っているのは、人魚の体に戻ること。
そして、マーメイドラウンジの水槽に戻る未来だった。
長老は、しばらく二人を見つめていた。
やがて、静かにうなずいた。
「分かりました」
リリアが息をのむ。
「リリアさんと誠司さんは、同じ客室を用意しましょう」
誠司は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
リリアも、震える声で言った。
「ありがとうございます……」
長老は、少しだけ声をやわらげた。
「残された時間をどう過ごすかは、あなたたちにとって大切なことなのでしょう」
リリアの目元が、静かに揺れた。
長老は案内役の人魚へ視線を向けた。
「二人には、静かに休める部屋を用意しなさい」
「承知いたしました」
桃色の髪の人魚が、深く頭を下げた。
リリアは、誠司の隣で小さく息を吐いた。
人魚に戻る前に。
マーメイドラウンジに戻る前に。
もう少しだけ、誠司のそばにいられる。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
案内役に連れられ、八人はそれぞれの客室へ向かった。
誠司とリリアに用意された部屋は、海を見渡せる静かな部屋だった。
窓の外には、青い海の闇が広がっている。
遠くには、竜宮城ホテルの真珠の灯りがゆっくりと揺れていた。
部屋の中には、白い貝殻の寝台と、珊瑚で作られた小さなテーブルがある。
人間用の部屋として整えられているのに、どこか海の気配があった。
扉が閉まると、部屋の中は静かになった。
リリアは、しばらく立ったまま動けなかった。
誠司も、すぐには言葉をかけなかった。
二人には、もう分かっていた。
美波に体を返せば、リリアは人魚に戻る。
そうなれば、誠司に触れられる時間は終わってしまう。
手をつなぐことも。
抱きしめ合うことも。
こうして同じ部屋で、互いの温もりを感じることも。
すべてが、残された時間の中にあった。
リリアは、ゆっくりと誠司へ近づいた。
そして、誠司の胸にそっと額を寄せた。
「もう少しだけ……このままでいさせてください」
誠司は、何も言わずにリリアを抱きしめた。
離したくない気持ちだけが、静かに伝わってくる。
「ずっと、そばにいます」
その言葉に、リリアの肩が小さく震えた。
ずっと、という言葉が本当に叶うのかは分からない。
けれど今だけは、その言葉を信じたかった。
リリアは、誠司の服をそっと握った。
人間の体で感じる温もり。
人間の腕に包まれる安心感。
それがもうすぐ失われると思うと、胸が痛くなる。
それでも、今は泣きたくなかった。
この時間を、悲しみだけで終わらせたくなかった。
誠司のそばにいられる今を、ちゃんと覚えていたかった。
人魚に戻る前に。
美波に体を返す前に。
そして、マーメイドラウンジに戻る前に。
リリアは、誠司の腕の中で静かに目を閉じた。
この温もりを、忘れたくなかった。
人間の体で感じる、最後になるかもしれないぬくもり。
誠司も、リリアを抱きしめたまま何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、別れが近づいていることを認めてしまう気がした。
だから今は、ただそばにいた。
竜宮城ホテルの真珠の灯りが、静かに部屋を照らしている。
故郷へ帰ってきた夜。
けれどリリアに残された時間は、もうゆっくりとは流れてくれなかった。
読んでいただきありがとうございます。
竜宮城ホテルにたどり着いたリリアたち。
故郷へ帰ってきたはずなのに、リリアに残された時間は、静かに短くなっていきます。




