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第71話 初めての漁

若い漁師と約束した優は、まだ暗い夜中の港へ向かいます。


初めて乗る漁船で、優が目にするものとは――。


辺りがまだ暗い夜中。


優は、昨日約束した船の前までやって来た。


港にはいくつもの船が並んでいたが、昼間と比べると人の姿は少なかった。


波が岸壁へぶつかる音に混じって、船の機械が動く音や、荷物を運ぶ音が聞こえている。


若い漁師はすでに船の上にいて、漁へ出る準備をしていた。


船の近くには、魚を入れるための箱や、氷の入った容器、網を扱うための道具が置かれている。


「おはようございます」


優が声をかけると、若い漁師が振り返った。


「本当に来たのか」


「はい。遅れたら置いていくと言われたので、早めに来ました」


若い漁師は港に設置された時計を見た。


「早めどころか、まだ出るまで少し時間があるぞ」


「早すぎましたか?」


「まあ、遅れてくるよりはいい」


若い漁師は、船のそばに置かれていた箱を指した。


「それを船に積んでくれ」


「分かりました」


優は箱を持ち上げ、若い漁師に言われた場所へ運んだ。


一つ運び終えると、すぐに次の荷物へ手を伸ばす。


その様子を見ていた若い漁師が言った。


「そんなに張り切ったら、漁へ出る前に疲れるぞ」


「大丈夫です。船に乗れると思うと、うれしくて」


「変わったやつだな」


若い漁師はそう言いながらも、優が運びやすいよう、残りの荷物を船の近くへ寄せた。


準備が終わると、若い漁師は優へ救命胴衣を渡した。


「これを着ろ」


「はい」


「今日は近くの海へ出る。前に入れておいた網を引き上げて、朝には戻る予定だ」


「朝には帰ってくるんですね」


「遠くまで行く漁ばかりじゃない」


若い漁師は船の中を確認してから、優を見た。


「船の上では勝手に動くな。網やロープを引き上げている時は、俺の言うことを聞け」


「分かりました」


「落ちるなよ。俺は人魚みたいに泳げないからな」


人魚という言葉に、優は一瞬だけ反応しそうになった。


しかし、今回は自分から人魚の話を出さないと決めている。


優は何も尋ねず、若い漁師の指示に従って船へ乗った。


やがて船が港を離れた。


街の明かりが少しずつ遠ざかり、周囲は暗い海に包まれていく。


昼間に見た海とは、まるで違っていた。


遠くまで続く暗い水面に、船の明かりだけが揺れている。


「夜の海を見るのは初めてか?」


若い漁師が尋ねた。


「はい。少し怖いですけど、きれいです」


「毎日見ていたら、珍しくもなくなる」


「僕は毎日見ても飽きないと思います」


「やっぱり変わってるな」


しばらく船を走らせたあと、若い漁師は速度を落とした。


海に浮かんでいる目印を見つけると、そこにつながっていたロープを船へ引き寄せる。


「ここに、前から網を入れていたんですか?」


「ああ。今から引き上げる」


船についている機械が動き始め、海の中から少しずつ網が上がってきた。


網には、銀色に光る魚が何匹もかかっていた。


「アジだ」


若い漁師は網から魚を外し、優へ渡した。


「これは、氷の入った箱へ入れてくれ」


「はい」


優は受け取ったアジを箱へ入れた。


次に上がってきた網には、平たい魚がかかっていた。


「カレイですね」


「魚屋で働いているだけあって、それくらいは分かるか」


「これは分かります」


その次には、赤みがかった体のメバルがかかっていた。


優は魚を受け取りながら、うれしそうに言った。


「メバルは煮つけにすると、おいしいですよね」


若い漁師が、網から魚を外す手を止めずに答えた。


「食べたことはある」


「アジなら塩焼きもいいですけど、南蛮漬けにしてもおいしいです。小さめのアジなら、骨まで食べやすくなります」


「随分詳しいな」


「魚屋のお客さんに、どうやって料理すればいいのか聞かれることがあるんです」


優は氷の上へ魚を並べながら続けた。


「だから、自分でも調べています。実際に作ってみて、おいしかった料理はお客さんにも教えているんです」


「魚を売るだけじゃないのか」


「買っても、どうやって食べればいいのか分からなかったら困るじゃないですか」


若い漁師は、網から小さなタイを外した。


まだ売り物にするには小さかったため、そのまま海へ戻す。


「その魚は、持って帰らないんですか?」


「小さすぎる。今獲っても大した金にならない。もっと大きくなってから獲った方がいい」


「そうなんですね」


優は海へ戻っていく魚を見送った。


網をすべて引き上げたが、獲れた魚は優が想像していたよりも少なかった。


アジが数匹。


カレイとメバルが一匹ずつ。


ほかにも何匹か魚はかかっていたが、小さすぎるものは海へ戻していた。


「今日は、これだけなんですか?」


優が尋ねると、若い漁師は魚の入った箱を見た。


「毎日たくさん獲れるわけじゃない」


「そうなんですね」


「魚が少なくても、船を動かせば燃料を使う。氷もいるし、網が破れたら直さないといけない」


「売ったお金が全部残るわけではないんですね」


「ほとんど残らない日もある」


若い漁師はそう言うと、次の網を引き上げる場所へ船を進めた。


次の場所では、最初よりも多くのアジがかかっていた。


網の端には、少し大きなタイも一匹かかっている。


若い漁師はタイの状態を確かめると、氷の箱には入れず、船の中央へ運んだ。


そこにあった蓋を開けると、中には海水が入っていた。


優が思っていたよりも広い場所だった。


「そこにも魚を入れるんですか?」


「生きたまま持って帰った方が高く売れる魚もいる」


若い漁師はタイを海水の中へ入れた。


「船の中に、小さな水槽みたいな場所があるんですね」


「いけすだ。船によって大きさは違う」


タイは海水の中で向きを変え、ゆっくりと泳ぎ始めた。


優は珍しそうにその様子を見たあと、若い漁師へ尋ねた。


「自分で獲った魚は、食べたりしないんですか?」


「今は、ほとんど食べない」


「こんなに新鮮なのに、もったいないです」


「売れる魚は売った方がいい」


「売れなかった魚や、少し余った魚はどうするんですか?」


若い漁師は、しばらく答えなかった。


網に絡まっていた海藻を外しながら、静かに口を開く。


「昔は、漁で余った魚を母親が料理していた」


「お母さんが?」


「ああ。焼いたり、煮たりして食べさせてくれた」


若い漁師は網をたたみながら続けた。


「同じ魚ばかり続くと、母親がいろいろ料理を変えていた。煮つけにした次の日は揚げたり、細かくして汁に入れたりしてな」


「おいしそうですね」


「子どもの頃は、また魚かと思っていたけどな」


「今は料理しないんですか?」


「自分ではしない。面倒だからな」


「じゃあ、漁が終わったあとは何を食べるんですか?」


「市場の食堂で食べることが多い。漁のあとに開いている店がある」


「そこで魚を食べるんですか?」


「魚の時もあるし、違うものを食べる時もある」


優は少し考えたあと、笑った。


「自分で獲った魚より、市場の食堂で食べる方が多いんですね」


「漁師が全員、魚料理を作れると思うなよ」


「そうなんですね。僕は魚を獲る人なら、料理も詳しいのだと思っていました」


「お前の方が詳しいんじゃないか」


「料理はまだ勉強中です。でも、魚を獲ることも料理することも、どちらもできるようになりたいです」


若い漁師は優を見た。


「お前、魚屋より料理人になりたいのか?」


「どちらも好きです」


優は魚の入った箱を見ながら答えた。


「獲れた魚を、おいしく食べてもらえるところまでできたら、もっといいと思うんです」


若い漁師は何も答えなかった。


けれど、最初に港で話した時のような、迷惑そうな表情はしていなかった。


すべての網を引き上げ終えた頃には、空の端が少しずつ明るくなり始めていた。


船は港へ向かって進んでいる。


暗かった海の色が変わり、遠くの空に朝の光が広がっていく。


優は風を受けながら、その景色を眺めていた。


「やっぱり、海で働くっていいですね」


若い漁師は、魚の入った箱を見た。


「見ているだけならな」


「大変なのは分かりました。でも、僕はまた船に乗りたいです」


「一度乗っただけだろ」


「次は、もっと役に立てるようになりたいです」


若い漁師はすぐには答えなかった。


港が近づいてきた頃、ようやく口を開いた。


「魚屋が休みの日なら、また来てもいい」


「本当ですか?」


「今度は、最初から魚を箱へ分けてもらうからな」


「はい。魚の種類も、もっと覚えてきます」


「料理の仕方を覚えてきても、船の上では作れないぞ」


「それでも、お客さんに教えられます」


若い漁師は呆れたように息を吐いた。


けれど、その口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。


港へ戻る頃には、空はすっかり朝の色へ変わっていた。


優は魚の入った箱を運びながら、次に船へ乗れる日を楽しみにしていた。


まだ、人魚については何も聞いていない。


それでも、若い漁師へ近づくための最初の一歩を踏み出すことができた。


魚を獲るだけでなく、どうすればおいしく食べてもらえるかまで考える優。


そんな優の魚への思いが、若い漁師との距離を少しだけ縮めました。


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