第68話 戻れない体
人魚のエリーから、リリアと体を交換したと告げられた誠司。
詳しいことを聞けないまま面会時間が終わり、誠司はリリア本人へ真相を確かめに向かいます。
誠司は、一瞬その場から動けなかった。
何かを言おうとしても、声が出なかった。
私とリリア、体を交換しました。
エリーの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
どうして体を交換したのか。
いつ交換したのか。
元へ戻る方法はあるのか。
聞かなければならないことはいくつもあるはずなのに、次に何を聞けばいいのか分からなくなっていた。
誠司が言葉を探していると、スタッフが近づいてきた。
「お時間です」
「え……」
誠司が顔を上げる。
「本日の面会時間は、こちらで終了となります」
誠司は、もう一度エリーを見た。
エリーは涙の浮かんだ目で、誠司を見つめている。
「待ってください。もう少しだけ……」
「申し訳ありません。次のお客様の準備がありますので」
これ以上、その場に残ることはできなかった。
誠司はエリーへ何も返せないまま、スタッフに促されて接客コーナーをあとにした。
ラウンジを出てから、誠司は後悔した。
もっと聞けばよかった。
なぜ交換したのか。
いつから元へ戻りたいと思っていたのか。
どうすれば体を戻せるのか。
けれど、もう一度面会を申し込むだけの金は残っていなかった。
高額な料金を支払ったばかりで、端末に表示された残金はほとんどない。
誠司は立ち止まり、しばらく考えた。
エリーの話が本当なら、確かめられる相手は一人しかいない。
リリア。
今日は体調不良で休んでいる。
前日に自分を朝まで介抱したせいで体調を崩したのなら、見舞いにも行かなければならない。
そして、エリーから預かった言葉を伝える必要がある。
誠司は、リリアの住むマンションへ向かった。
以前、店の外で会った帰りに、ここまで一緒に来たことがある。
その時は、部屋へ入る前にリリアから帰るように言われていた。
マンションへ向かう途中、誠司は水と食べやすそうなものを買った。
建物の前へ着くと、一度立ち止まる。
体調を崩して休んでいる相手の部屋へ、突然訪ねていいのだろうか。
けれど、エリーの言葉を聞いたまま帰ることもできなかった。
誠司はマンションへ入り、リリアの部屋の呼び出しボタンを押した。
しばらく待っても、返事はない。
もう一度押そうとした時、扉の向こうから小さな物音が聞こえた。
やがて、ゆっくりと扉が開く。
「……誠司さん?」
リリアは驚いたように、誠司を見た。
いつものように髪は整えられておらず、顔にも疲れが残っている。
「急にすみません。体調が悪いと聞いたので」
誠司は、持ってきた袋を少し持ち上げた。
「昨日、僕を朝まで介抱したせいではないですか?」
「違います」
リリアはすぐに答えた。
「少し疲れただけです。今日は休めば大丈夫ですから」
「でも……」
「誠司さんのせいではありません」
そう言ったものの、リリアの声には力がなかった。
「少しだけ、入ってもいいですか?」
リリアは迷うように誠司を見た。
それから、静かに扉を開けた。
「どうぞ」
部屋の中は静かだった。
誠司は袋をテーブルの上へ置いた。
「水と、食べられそうなものを買ってきました」
「ありがとうございます」
リリアはソファへ座った。
誠司も少し離れた場所へ腰を下ろす。
体調を気遣うために来た。
それは嘘ではない。
けれど、もう一つ聞かなければならないことがある。
エリーの涙。
囁くような声。
私の体を返して。
誠司は膝の上で手を握った。
「リリアさん」
「はい」
「今日、マーメイドラウンジへ行きました」
リリアの表情が、わずかに変わった。
「私に会いに?」
「昨日のことを謝りたくて。でも、体調不良で休みだと聞きました」
「そうだったんですね」
「帰ろうとした時、本物の人魚との面会にキャンセルが出たと言われました」
リリアは黙ったまま、誠司を見ている。
「エリーという人魚でした」
その名前を聞いた瞬間、リリアの指がわずかに動いた。
「知っているんですね」
リリアは、すぐには答えなかった。
「エリーさんから、伝言を頼まれました」
誠司は、エリーの言葉を思い出しながら続けた。
「私の体を返してほしい、と」
リリアの表情が固まった。
部屋の中が静まり返る。
「それから、こう言っていました」
誠司はリリアを見た。
「私とリリアは、体を交換しました、と」
リリアは視線を落とした。
否定はしなかった。
「本当なんですか?」
しばらくして、リリアが小さく息を吐いた。
「……本当です」
誠司は言葉を失った。
リリアは、自分の手を見つめながら続けた。
「私は、もともと人魚でした」
「人魚……」
「海で暮らしていた頃、一人の漁師に恋をしたんです」
リリアは、遠い記憶をたどるように話し始めた。
漁師の船には、生きた魚を入れておくためのいけすがあった。
リリアは、その中へ入って船に乗った。
港へ着くと、漁師から仲間の魚を運ぶ車へ乗るように言われた。
「車で行った先で待っていてください。あとから迎えに行きますから、と言われました」
「その言葉を信じたんですね」
「はい」
リリアは、漁師の仲間が運転する車に乗った。
けれど、着いた先はマーメイドラウンジだった。
「そこで待っていれば、あの人が迎えに来てくれると思っていました」
新しい客が来るたびに、リリアは漁師ではないかと顔を確かめた。
何日も、何か月も待ち続けた。
「でも、その人は来ませんでした」
「ずっと待っていたんですね」
「はい」
やがてリリアは、ラウンジにいるほかの人魚たちのことを知った。
「あそこにいる人魚は、みんな同じ漁師に連れてこられていたんです」
誠司の表情が変わる。
「全員ですか?」
「はい。迎えに来ると言われた子もいました。人間の世界へ連れていってあげると言われた子もいました」
けれど、漁師は誰のところにも戻ってこなかった。
そこでリリアは気づいた。
いくら待っても、迎えには来ない。
最初から、マーメイドラウンジへ運ぶために連れてこられたのだと。
「私は、このまま水槽の中で一生を終えるのは嫌でした」
人魚はラウンジで人気があった。
客から指名され、高い給料も支払われる。
華やかな水槽の中を泳ぐ姿を見て、ラウンジで働く人間の中には、人魚に憧れる者もいた。
「人間の店員の中には、客に触れられたくないから、人魚の方がいいと思う子もいました」
人魚に触れた人間は、珊瑚になってしまう。
人魚なら、客から触れられずに接客できる。
人気も出て、給料も高い。
最初は、それで満足する。
けれど、人魚になって初めて、水槽から出られない生活だと気づく。
好きな場所へ行くこともできない。
仕事を終えても、人間のように外へ帰れない。
「その生活が嫌になって、新しく人魚になりたい人を探し、また体を交換する人もいました」
「一度だけではないんですか?」
「はい。同じ人魚の体でも、中身が何度も入れ替わっていることがあります」
外見は同じ人魚のまま。
けれど、その中にいる人物は何度も変わっていく。
何回交換されたのか、誰にも分からなくなった人魚もいた。
「私も、人魚になりたい人が現れるのを待ちました」
そして現れたのが、エリーだった。
「エリーは、もともとマーメイドラウンジで人間の店員として働いていました。本当の名前は、美波です」
「美波……」
「でも、接客がうまくいかず、成績もよくありませんでした」
一方、当時のリリアは、人魚の中で人気ナンバーワンだった。
泳ぎ方も美しく、客との会話にも慣れていた。
多くの客から指名され、毎日のように水槽の前には人が集まった。
「美波は、私の人魚の体が欲しいと言いました」
「その体になれば、自分も人気者になれると思ったんですか?」
「はい」
美波は、人魚の姿になれば注目され、成績も上がると信じていた。
リリアは、人間の体になれば水槽の外へ出られる。
自由に好きな場所へ行き、誰かと触れ合いながら恋をすることもできる。
「その頃には、もう漁師を探そうとは思っていませんでした」
長い間待ち続けても、漁師は迎えに来なかった。
ほかの人魚たちも同じように連れてこられたと知り、信じていた言葉が嘘だったことも分かっていた。
「私はただ、人間になって自由に歩きたかったんです。自分の好きな場所へ行って、誰かと恋をしてみたかった」
人魚は、人間と触れ合うことができない。
近くで話すことはできても、手をつなぐことも、抱きしめてもらうこともできない。
「触れられる恋をしてみたいと思いました」
リリアと美波は、それぞれが望んでいるものを手に入れられると思い、体を交換した。
「交換したあと、私は美波の人間の体で接客を始めました」
「成績はどうなったんですか?」
「人間の店員になってからも、私は人気ナンバーワンになりました」
人魚の姿ではなくなっても、リリアの人気は変わらなかった。
客との会話。
相手を楽しませる接客。
自然に人を引きつける振る舞い。
リリアが持っていたものは、体が変わっても失われなかった。
「美波は、私の人魚の体を手に入れました。でも、思っていたようにはなりませんでした」
人魚の体をうまく動かすことができなかった。
尾びれの使い方が分からず、まっすぐ泳ぐことさえ難しい。
水の中で姿勢を保つことにも慣れず、接客中の動きもぎこちなくなった。
「会話や接客も、以前と同じようにうまくいかなかったんです」
人気ナンバーワンだった人魚の体を手に入れても、美波は人気者にはなれなかった。
今では、ラウンジにいる人魚の中で成績が一番低くなっている。
「美波は、人気は体だけで手に入るものではなかったと気づいたんだと思います」
誠司は、接客コーナーで見たエリーを思い出した。
不自然な泳ぎ方。
すぐに途切れた会話。
そして、涙を浮かべながら告げた言葉。
私の体を返して。
「人間の体になれば、自由に恋ができると思っていました」
リリアは、自分の手を見つめた。
「でも、ラウンジへ来るお客様は欲望の強い方が多くて、どこか女性にも慣れているような人ばかりでした」
店では人気ナンバーワンになった。
多くの客から指名され、好意を向けられることもあった。
けれど、その中の誰かを好きになることはできなかった。
「私が求めていた恋とは、違っていたんです」
リリアは顔を上げ、誠司を見た。
「そんな時、誠司さんが来ました」
誠司は何も言えなかった。
「誠実で、ほかのお客様とは違っていました。私を接客する店員としてだけではなく、一人の人間として見てくれた」
リリアの声が、少しずつ弱くなる。
「だから、誠司さんのことを好きになりました」
誠司は膝の上で手を握った。
「でも、最初は知りませんでした。誠司さんに、かすみさんという恋人がいたことを」
リリアは視線を落とした。
「二人が別れたあとも、誠司さんの心がまだかすみさんを追っていることも……」
前日の夜。
酔いつぶれた誠司が、何度もかすみの名前を呼んでいた。
そのことを、リリアは口にしなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、リリアが小さな声で言った。
「もう、人魚に戻ってもいいのかもしれません」
誠司は顔を上げた。
「エリーさんへ、体を返すということですか?」
「そうした方がいいのかもしれないと思うことはあります」
けれど、リリアの声には迷いが残っていた。
「本当は、この体を返したくないんです」
誠司は何も言わず、続きを待った。
「誠司さんに、もう少し近づきたいと思っています。人間のままなら、また会える。手をつなぐことも、触れることもできる」
声が少しずつ弱くなる。
「でも、美波が苦しんでいることも分かっています」
自分の人魚の体に入った美波は、うまく泳げず、接客もうまくいかず、水槽から出ることもできない。
「私の体を手に入れれば幸せになれると思っていたのに、今は元へ戻りたいと泣いている」
リリアは両手を握った。
「かわいそうだと思います。体を返した方がいいのかもしれないとも思います」
けれど、元の体へ戻れば、再び人魚になる。
自由に外を歩くこともできない。
誰かと手をつなぐことも、抱きしめてもらうこともできない。
そして、ラウンジから出る方法が見つからなければ、そのまま水槽の中で一生を終えることになる。
「美波に体を返したい気持ちもあります。でも、戻るのが怖いんです」
リリアは誠司を見た。
「誠司さんに会えなくなるのも、触れられなくなるのも嫌です」
その目には迷いが浮かんでいた。
「私、自分勝手ですよね」
誠司は、すぐには答えなかった。
リリアが人間のままでいたいと思う気持ちも、美波へ体を返さなければならないと悩む気持ちも、どちらも嘘ではなかった。
「人魚に戻ったとしても、人間のままでいるとしても、私はもう一度、竜宮城へ帰りたいんです」
「今の美波さんの姿でも?」
「はい。この姿でも構いません」
リリアは顔を上げた。
「もう一度、私が暮らしていた場所へ行きたいんです」
人魚へ戻るかどうかを決めるのは、そのあとでもいい。
けれど、人魚へ戻ったあとにラウンジの水槽から出られなくなり、そのまま一生を終えることだけは嫌だった。
「でも、どうすれば竜宮城へ帰れるのか分からないんです」
誠司は、しばらく黙ってリリアを見ていた。
「僕は……リリアさんのことが、少しずつ気になるようになりました」
リリアが驚いたように顔を上げる。
「誠司さん……?」
「リリアさんが人魚へ戻るかどうかは、リリアさんが決めることです。僕が止めることではありません」
誠司は言葉を選びながら続けた。
「でも、人魚へ戻ったら、もう今までのようには会えなくなるかもしれない」
触れることもできなくなる。
手をつなぐことも、抱きしめることもできない。
「それは、僕にとって寂しいことなのかもしれません」
リリアは何も言わず、誠司を見つめていた。
誠司は、少し困ったように笑った。
「エリーさんは自分の体へ戻りたがっているのに、僕はリリアさんに人間のままでいてほしいと思い始めている」
誠司は膝の上で両手を握った。
「僕って、自分勝手ですよね……」
リリアは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに首を横へ振る。
「そう思ってくれることが、少しうれしいです」
二人の気持ちは、少しずつ互いへ向き始めていた。
けれど、美波は自分の体へ戻りたがっている。
リリアが元の体へ戻れば、再び人魚になる。
近づき始めたばかりの二人の間には、まだ越えなければならない問題が残っていた。
誠司は、しばらく考えたあと、リリアを見た。
「リリアさんのことも、エリーさんのことも、ミレナさんのことも、仲間に相談していいですか?」
「仲間に……?」
「はい。僕一人では、どうしたらいいのか分かりません」
誠司は端末を取り出し、残高を確認した。
「それに、僕はもう、ほとんど全財産をラウンジで使ってしまいました」
「そんなに使ったんですか?」
「また人魚に会いに行こうと思っても、お金がたまるまでは当分無理です」
誠司は端末を閉じた。
「でも、仲間なら、何かいい方法を考えてくれるかもしれません」
「私のことまで話すんですか?」
「勝手に話したくはありません。だから、先に聞いておこうと思いました」
リリアは、すぐには答えなかった。
しばらく考えたあと、小さくうなずく。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ただ、体を交換したことは、まだ広く知られたくありません」
「仲間だけに話します」
「お願いします」
誠司はうなずいた。
一人では、どうすればいいのか分からない。
けれど、仲間たちなら何か方法を考えてくれるかもしれない。
美波の体を元へ戻す方法。
リリアがもう一度、竜宮城へ行く方法。
そして、ミレナをラウンジから助け出す方法。
その時、リリアの端末が小さく光った。
画面には、新しい案内が表示されている。
『人魚のエリーと、もう一度体を交換しませんか?』
その下には、交換を申し込むためのボタンがあった。
これを押せば、美波へ人間の体を返し、自分は元の人魚の体へ戻ることができるのかもしれない。
リリアは画面を見つめた。
けれど、今はそのボタンを押すことができなかった。
続けて、別の案内が表示される。
『人間との恋を成就させませんか?』
リリアは、目の前にいる誠司を見た。
誠司との恋がかなうのなら、買ってしまいたい。
そう思う気持ちはあった。
けれど、欲望区のシステムによって作られた恋ではなく、自分の力で誠司との距離を縮めたかった。
リリアは、どちらのボタンも押さずに端末を閉じた。
ほぼ同時に、誠司の端末も光った。
『元カノを完全に忘れませんか?』
続けて、画面に新しい文字が現れる。
『今から始まる恋を応援します』
『目の前にある恋を、今すぐ燃え上がらせることができます』
誠司は画面を見つめた。
これを買えば、かすみへの未練をすべて消し、リリアへの気持ちだけを強くできるのかもしれない。
けれど、それでは本当に自分の気持ちでリリアを選んだことにはならない。
かすみへの思いも、自分がしてしまったことも、都合よく消してしまうべきものではなかった。
そして、リリアとの関係も、何かを買って急に進めるものではない。
誠司は何も購入せず、端末の画面を閉じた。
二人の間には、まだ多くの問題が残っている。
それでも、これから始まるかもしれない恋は、欲望区の力ではなく、自分たちの手で育てていきたかった。
エリーとの面会を終えた誠司は、リリア本人から体交換の真相を聞きました。
漁師を信じてマーメイドラウンジへ運ばれ、人魚として迎えを待ち続けていたリリア。
美波と体を交換して自由を手に入れましたが、今度は元の体へ戻るかどうかという選択に迷っています。
少しずつ互いを意識し始めた誠司とリリア。
二人は欲望区から届いた誘惑を選ばず、自分たちの力で気持ちを育てることを望みました。




