第67話 私の体を返して
結婚式から二日後。
かすみと煌成は、同じマーメイドレジデンスで暮らすレイナと翔の部屋へ招かれます。
一方、体調を取り戻した誠司は、前日のお礼を伝えるため、リリアを訪ねてマーメイドラウンジへ向かいました。
結婚式から二日後。
かすみと煌成がレジデンスの部屋で過ごしていると、玄関の呼び出し音が鳴った。
かすみが扉を開けると、そこにはレイナが立っていた。
「こんにちは。少しは落ち着いた?」
「はい。昨日は荷物を片づけて、ゆっくり休みました」
「それならよかった」
レイナは、部屋の中に飾られた花へ目を向けた。
白、水色、薄紫の花々が、リビングを明るく彩っている。
「結婚式のお花、きれいに飾ったのね」
「せっかくいただいたので、しばらく楽しもうと思って」
「いいわね。部屋が一気に華やかになるもの」
少し話したあと、レイナが二人を見た。
「今日の夕食、もう決めている?」
「まだですけど……」
「それなら、うちで一緒に食べない? 翔もいるから」
かすみが煌成を見ると、煌成は穏やかにうなずいた。
「では、お言葉に甘えましょうか」
「ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいわよ。これから隣同士なんだから」
夕方になり、かすみと煌成はレイナと翔の部屋を訪れた。
テーブルには料理が並べられ、四人は向かい合って座った。
しばらくは結婚式のことや、レジデンスでの暮らしについて話していた。
食事が一段落した頃、レイナが箸を置いた。
「かすみに、ちゃんと謝っておきたいことがあるの」
「私にですか?」
「初期エリアを出ていったこと」
かすみは黙ってレイナを見る。
隣に座る翔も、真剣な表情になっていた。
「あの頃の私は、初期エリアに残っていても何も変わらないと思っていたの。欲望区へ行けば、もっと稼げるって」
レイナは自分の手元へ目を落とした。
「最初は、成功したと思っていた。高い給料をもらって、紹介料も入ってきて、これなら前よりずっといい暮らしができるって」
翔が静かに続ける。
「でも、給料が高くても物価も高かった。何をするにもお金がかかって、稼いでも、また使わせられるような生活でした」
「紹介料が入れば、次の誰かを連れてくるように求められたの」
レイナは小さく息を吐いた。
「自分で成功しているつもりだったのに、結局は搾取されていたのよ」
レイナは、かすみをまっすぐ見た。
「初期エリアを出たことを、何度も後悔した。何も言わずにいなくなって、ごめんなさい」
かすみは、すぐには答えなかった。
レイナと翔がいなくなったと知った時のことを思い出していた。
「私、最初は二人が出ていったことに怒っていました」
レイナの表情が曇る。
「何も言わずにいなくなって、自分勝手な人たちだと思っていました」
「……うん」
「でも、今はもういいかなと思っています」
レイナが顔を上げた。
「二人も、この世界で苦しい思いをしたんですよね。それに、今はこうして話してくれたから」
「かすみ……」
「なかったことにはできません。でも、ずっと怒り続けるつもりもありません」
レイナは小さくうなずいた。
「ありがとう」
それまで話を聞いていた煌成が、レイナと翔へ尋ねた。
「それでも、今はこのレジデンスで暮らしている。どうやって、ここまで上がってきたんですか?」
レイナと翔は、一瞬だけ顔を見合わせた。
どちらから話すべきか迷っているようだった。
やがてレイナが、少し言いにくそうに答えた。
「玲司さんと詩乃さんの仕事を、手伝っているからです」
その二人の名前を聞いた瞬間、煌成の表情がわずかに変わった。
「玲司さんと、詩乃さん……」
かすみは、その変化に気づいて煌成を見る。
「知っているんですか?」
「名前は聞いたことがあります」
煌成はそれだけ答えた。
声は穏やかなままだったが、先ほどまで浮かんでいた笑みは消えている。
ただ名前を知っているだけには見えなかった。
けれど、レイナと翔の前で、それ以上のことを話すつもりはないようだった。
少し間が空いたあと、レイナが口を開いた。
「実は、私たちには困っていることがあるの」
「困っていること?」
「海のエリアへ進みたいと思っているんだけど、私たちは正規のルートを通っていないでしょう?」
翔も続ける。
「初期エリアから順番にミッションを進めていないので、海のエリアへ進むミッションが進められないんです」
「そうだったんですね」
「欲望区へ行った時は、正規のルートなんて気にしていなかった。でも今になって、そのことが引っかかっているの」
レイナはそこで言葉を止めた。
翔も、それ以上は続けなかった。
二人とも、本当はかすみたちに力を貸してほしいと思っていた。
けれど、初期エリアを勝手に出ていった自分たちから、簡単に頼んでいいことなのか迷っていた。
その後は、レジデンスでの暮らしや近くの店のことなど、たわいもない会話が続いた。
先ほどまでの重い空気も少しずつ和らぎ、四人は同じ食卓を囲みながら、穏やかな時間を過ごした。
◇
その頃、誠司はマーメイドラウンジを訪れていた。
二日酔いは、すっかり治っていた。
誠司は受付へ向かい、スタッフに声をかけた。
「リリアさんはいますか?」
「申し訳ありません。リリアは本日、体調不良でお休みをいただいております」
「体調不良……」
誠司の胸に、前日の光景が浮かんだ。
酔いつぶれた自分を、リリアは朝まで介抱していた。
何度もお手洗いへ駆け込むたびに体を支え、濡らしたタオルで顔や首元を拭いてくれた。
チェックアウトを延長し、最後は車を呼んで自宅まで送ってくれた。
自分のせいで、リリアが体調を崩したのではないだろうか。
「何かお伝えしましょうか?」
「いえ……また来ます」
誠司が帰ろうとすると、スタッフが端末を確認しながら声をかけた。
「少々お待ちください」
誠司が振り返る。
「以前から、本物の人魚との面会を希望されていましたよね?」
「はい。でも、予約がいっぱいだと聞いていました」
「本日、エリーという人魚に急なキャンセルが出ました。今でしたらご案内できます」
誠司は迷った。
本物の人魚との面会料金は、非常に高い。
同じ金額を払うのなら、人気のあるミレナに会いたいと思っていた。
けれど、ミレナの予約は簡単には取れない。
かすみは、もう煌成と結婚した。
当分、大きな金を使う予定もなかった。
それに、本物の人魚から直接話を聞くことは、調査にもつながるかもしれない。
「……お願いします」
誠司は、高額な料金を支払った。
◇
スタッフに案内され、誠司は初めて本物の人魚の接客コーナーへ入った。
広い空間の中には、水が満たされた場所がいくつも作られていた。
人魚たちは、その中を泳ぎながら客と話している。
作り物ではない。
本物の尾びれが水をかき、鱗が照明を受けて輝いていた。
誠司は思わず立ち止まった。
「本当に、人魚が……」
スタッフが注意事項を説明する。
人魚には許可なく触れないこと。
人魚に触れた人間は、珊瑚になってしまう可能性があること。
誠司はうなずき、案内された席へ向かった。
しばらくすると、一人の人魚が泳いできた。
「エリーです」
小さな声だった。
エリーには、ほかの人魚たちのような明るさがなかった。
表情には元気がなく、尾びれの動かし方もどこかぎこちない。
泳いでいる途中で体の向きがずれ、慌てて姿勢を戻している。
誠司の前まで来ると、エリーは少し離れた場所で止まった。
「今日は、ありがとうございます」
「こちらこそ」
会話はすぐに途切れた。
エリーは何を話せばいいのか分からないように、何度も視線を泳がせている。
離れた場所では、別の人魚が客を楽しませていた。
銀色に近い髪。
薄い青の尾びれ。
ミレナだった。
ミレナは、新しい客が入ってきたことに気づき、誠司の方を見た。
誰かを確かめるように、じっと顔を見る。
けれど、誠司だと分かると、「なんだ」とでも言いたげな表情を浮かべた。
すぐに視線を戻し、目の前の客との会話を続ける。
誠司には、なぜミレナが自分を見たのか分からなかった。
「今日は、どうしてここへ?」
エリーが尋ねた。
「本当は、リリアさんに会いに来たんです」
その名前を口にした瞬間、エリーの動きが止まった。
それまで力なく揺れていた尾びれも、ぴたりと動かなくなる。
「……リリア?」
エリーはゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでとは違う目で、誠司を見つめている。
「今、リリアって言った?」
「はい。ここのチーフマネージャーのリリアさんです」
「リリアを知っているの?」
「知っています。今日は体調不良で休みだと聞きました」
「そう……」
エリーは一度、周囲を見回した。
それから、誠司へ向かって小さく手招きした。
「もう少し、近くに来て」
誠司は、人魚に触れないよう注意しながら、手が届かない距離まで近づいた。
エリーは、ほかの客やスタッフに聞かれないように声を落とした。
「お願いがあります」
「お願い?」
エリーはもう一度、周囲を見回した。
それから誠司の方へ顔を寄せ、さらに声を落とした。
ほとんど聞き取れないほどの、囁くような声だった。
「……私の体を返してって」
誠司は、すぐには意味を理解できなかった。
「体を……返す?」
エリーは小さくうなずいた。
その目には、涙が浮かんでいた。
そして、先ほどよりもさらに小さな声で言った。
「私とリリア、体を交換しました」
誠司は、一瞬その場から動けなかった。
何かを言おうとしても、声が出なかった。
レイナと翔は、初期エリアを離れたことへの後悔を、かすみに打ち明けました。
正規ルートを通っていない二人は、海のエリアへ進むミッションを進められずにいます。
一方、リリアを訪ねてマーメイドラウンジへ向かった誠司は、キャンセルで空いた人魚・エリーと面会することに。
そこでエリーの口から、リリアとの間に隠されていた事実が明かされました。




