第66話 夫婦になった朝
結婚式と二次会を終えた翌朝。
夫婦として最初の朝を迎えたかすみと煌成は、新しい生活へ向かいます。
一方、昨夜の二次会で酔いつぶれた誠司は、リリアに介抱されながら朝を迎えていました。
かすみが目を覚ますと、煌成はすでに起きていた。
隣で横になったまま、かすみの顔を見て微笑んでいる。
「おはようございます」
先に声をかけられ、かすみも小さく笑った。
「おはようございます」
まだ少し眠気が残る中、昨日の光景が次々とよみがえってくる。
水槽チャペルを歩いたこと。
煌成と誓いを交わしたこと。
披露宴で久美子が作ってくれたドレスを着たこと。
二次会で仲間たちと言葉を交わしたこと。
そして、何度もかけてもらった言葉。
おめでとう。
たくさんの祝福の声が、今も耳の奥に残っているようだった。
「昨日のことを思い出していました」
かすみが言うと、煌成は穏やかにうなずいた。
「僕も、少し前から思い出していました」
「みんなに、たくさんお祝いしてもらいましたね」
「はい。かすみさんが大切にしてきた人たちに祝ってもらえて、僕もうれしかったです」
かすみは、布団の上に出ていた左手へ目を向けた。
薬指には、婚約指輪と結婚指輪が重ねてつけられている。
淡い水色の石が輝く婚約指輪。
その隣には、昨日の挙式で煌成からはめてもらった結婚指輪があった。
「本当に、結婚したんですね」
「はい」
煌成は自分の左手を、かすみの手の横へそっと並べた。
かすみの薬指には、婚約指輪と結婚指輪。
煌成の薬指には、昨日かすみからはめてもらった結婚指輪がある。
二人はしばらく、並んだ手を見つめていた。
身支度を整えた二人は、ホテルの朝食会場へ向かった。
案内された席からは、大きな水槽と朝のプールが見えた。
夜とは違うやわらかな光が水面に広がり、魚たちがゆっくりと泳いでいる。
料理が運ばれてくると、二人は向かい合って朝食を取り始めた。
「今日から、レジデンスでの生活ですね」
かすみが言うと、煌成はうれしそうに笑った。
「はい。かすみさんの手作りの料理も楽しみにしています」
「煌成さんのお口に合うかしら?」
「きっと大丈夫です」
煌成はそう答えたあと、少し考えるように続けた。
「でも、かすみさんにばかり作ってもらうつもりはありません。僕も料理をするので、交代で作りましょう」
「煌成さんも料理をするんですか?」
「簡単なものなら作れます」
「それなら、楽しみです」
「一緒に作る日があってもいいですね」
「はい」
結婚式のような特別な一日は終わった。
今日から始まるのは、食事を作り、同じ部屋で過ごし、帰る場所を二人で整えていく毎日だった。
かすみには、その何気ない生活が楽しみに思えた。
◇
同じ頃。
別の客室では、誠司が胃のむかつきで目を覚ました。
体が重く、頭も鈍く痛む。
しばらく目を閉じたまま耐えていたが、急に気分が悪くなり、誠司は布団を押しのけた。
「……気持ち悪い」
ふらつきながらベッドを下り、そのまま客室のお手洗いへ駆け込む。
扉が閉まる音に、椅子に座っていたリリアが顔を上げた。
「誠司さん?」
返事はなかった。
リリアは立ち上がり、お手洗いの前まで行った。
「大丈夫ですか?」
中から小さく返事が聞こえたが、誠司はなかなか出てこなかった。
昨夜も、誠司は何度か同じようにお手洗いへ駆け込んでいた。
そのたびにリリアは水を用意し、濡らしたタオルで誠司の顔や首元を拭き、ベッドまで戻る体を支えていた。
しばらくして、ようやく扉が開いた。
出てきた誠司は顔色が悪く、まだ気分が悪そうだった。
「大丈夫ですか?」
リリアが腕を支えると、誠司は抵抗する力もなく、そのまま体を預けた。
「……すみません」
「ゆっくりでいいです。ベッドまで戻りましょう」
リリアは誠司の歩調に合わせ、少しずつベッドまで連れていった。
誠司は腰を下ろすと、片手で胃のあたりを押さえた。
「昨日、どれくらい飲んだんだろう……」
「かなり飲んでいました」
「全然覚えていません」
「今は、無理に思い出さなくていいです」
リリアはテーブルに置いていた水を手に取った。
「少し落ち着いてから、飲んでください」
誠司はグラスを受け取らず、うつむいたまま答えた。
「まだ、無理そうです」
「分かりました」
リリアは水を元の場所へ戻した。
誠司はしばらく動けずにいたが、やがて隣に立つリリアへ目を向けた。
「もしかして、ずっとここにいたんですか?」
「はい」
「昨日から?」
「一人にしておける状態ではなかったので」
誠司は何も言えなくなった。
昨夜、誠司が眠りながら何度も呼んでいた名前を、リリアは口にしなかった。
今、それを伝えたところで、誠司を困らせるだけだと思った。
胸の奥にはまだ痛みが残っている。
それでも、弱っている誠司を一人にはできなかった。
誠司はベッドへ戻ってからも、胃のあたりを押さえたまま動けずにいた。
少し休めば落ち着くかと思ったが、気分の悪さはなかなか引かない。
リリアは時計を確認した。
このままでは、予定されているチェックアウトの時間までに部屋を出るのは難しそうだった。
「誠司さん、今日はすぐに動かない方がいいと思います」
「でも、チェックアウトが……」
「私がホテルへ連絡します」
リリアは客室の電話を取り、フロントへつないだ。
誠司の体調が悪く、すぐには部屋を出られないことを伝える。
しばらく話したあと、電話を置いた。
「チェックアウトの時間を延長してもらいました」
「そこまでしてもらって、すみません」
「今は謝るより、休んでください」
誠司は力なくうなずいた。
「リリアさんは、先に帰っても大丈夫です」
「帰りません」
リリアは迷わず答えた。
「誠司さんが一人で動けるようになるまでは、ここにいます」
誠司は何か言おうとしたが、また胃のむかつきが強くなり、言葉を飲み込んだ。
リリアは濡らしたタオルを用意し、誠司の顔や首元を静かに拭いた。
昨夜から何度も繰り返したことだった。
◇
かすみと煌成は、午前中にホテルをチェックアウトした。
昨日まで結婚式のために滞在していたマーメイドホテルを出て、そのままマーメイドレジデンスへ向かう。
引っ越しはすでに終わっていたが、結婚式で受け取った花束や祝いの品、ホテルから持ち帰った荷物が増えていた。
部屋へ入ると、かすみは両手に抱えていた花束をテーブルの上へ置いた。
「どこに飾りましょうか」
「リビングがいいと思います。毎日見られますから」
二人で花瓶を用意し、白や水色、薄紫の花を分けて飾っていく。
昨日の結婚式で見た花々が新しい部屋に並ぶと、室内が一気に華やかになった。
「結婚式の花が、今度は私たちの部屋にあるんですね」
「しばらくは、昨日のことを思い出せそうです」
花を飾ったあとは、持ち帰った荷物を片づけた。
祝いのカードはまとめて棚へ置き、二次会で使った小物や衣装も傷まないように分けていく。
挙式、披露宴、二次会で着た三着のドレスは、一着ずつ状態を確かめ、広い衣装部屋へ丁寧にしまった。
◇
延長してもらったチェックアウトの時間が近づく頃には、誠司もどうにか立てる程度まで回復していた。
それでも顔色はまだ悪く、足元も少し頼りない。
リリアは先に荷物をまとめ、ホテルのフロントへ連絡して車を手配した。
「車を呼びました。誠司さんの家まで送ってもらいます」
「そこまでしなくても……」
「今の状態で一人で帰るのは無理です」
誠司は言い返すことができず、黙ってうなずいた。
二人はゆっくりと部屋を出た。
リリアは誠司の歩調に合わせ、必要な時には腕を支えながらロビーまで向かった。
ホテルの前には、すでに手配した車が到着していた。
車内でも誠司はほとんど話さず、座席に深く体を預けていた。
リリアも無理に話しかけなかった。
しばらくして、車は誠司の自宅前に停まった。
リリアは先に車を降り、誠司が玄関まで歩けるようにそばについた。
「本当に、すみませんでした」
誠司がそう言うと、リリアは小さく首を横に振った。
「今日は、ゆっくり休んでください」
「リリアさんは……」
誠司が続けようとしたが、リリアはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ」
それだけ言って、リリアは背を向けた。
昨夜のことも、眠りながら呼んでいた名前のことも、何も告げないまま。
誠司は玄関の前に立ち、遠ざかっていくリリアの後ろ姿を見送った。
◇
荷物を片づけ終える頃には、窓の外が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
かすみはソファへ座り、リビングに飾った花を眺めた。
「そういえば、新婚旅行はどうしましょうか」
煌成も隣へ腰を下ろす。
「行きたい場所はありますか?」
「まだ、はっきりとは決めていません」
「僕もです。結婚式の準備で忙しかったですからね」
かすみは少し考えてから、煌成を見た。
「新婚旅行のことは、また落ち着いてから考えませんか?」
「そうしましょう。急いで決めることではありませんから」
「まずは、ここでの生活に慣れたいです」
「はい。二人でゆっくり考えましょう」
しばらく休んだあと、かすみがキッチンへ目を向けた。
「夕食は、どうしましょうか」
煌成もそちらを見る。
「今日は何か注文しましょう」
「そうですね。昨日までごちそうが続いたので、今日はあっさりしたものが食べたいです」
「では、和食にしますか?」
「それがいいです」
かすみは端末に並ぶ料理を見ながら、懐かしそうに笑った。
「初期エリアにいた頃も、疲れた日はあっさりしたものを選んでいました」
「どんなものを食べていたんですか?」
「おかゆや、うどんです。特別な料理ではなかったですけど、落ち着く味でした」
「では、今日はその頃を思い出すようなものにしましょう」
「はい」
煌成は、うどんや温かい汁物を届けてくれる店を選んだ。
「明日からは、お互い仕事ですし、今日はゆっくり休みましょう」
「そうですね。料理は明日からにします」
二人はソファに並び、届く料理を待つことにした。
やがて、注文した夕食が届いた。
テーブルには温かいうどんと、あっさりとした料理が並んでいる。
特別な晩餐ではない。
けれど、二人で暮らし始めた最初の日の食事だった。
かすみはうどんを口に運び、ほっと息をついた。
「落ち着く味ですね」
「はい。今日は、これくらいがちょうどいいです」
飾られた花が、部屋の明かりに照らされている。
二人で話し、食事をし、同じ家で夜を迎える。
穏やかな新生活の一日が、静かに終わろうとしていた。
◇
その頃、誠司は自宅の部屋でぼんやりと座っていた。
気分の悪さは少し落ち着いていたが、何かをする気にはなれない。
部屋の片隅には、結婚式でもらった引き出物や座席表が入った袋が置かれていた。
帰ってきてから、そのまま置いたものだった。
華やかな結婚式の名残だけが、静かな部屋の中に取り残されている。
誠司はしばらく、その袋を見つめた。
誰にも触れられず、片隅に置かれたままの姿が、今の自分と重なって見えた。
かすみと煌成は、夫婦としてマーメイドレジデンスでの生活を始めました。
華やかな結婚式の翌日は、花を飾り、荷物を片づけ、二人で夕食を囲む穏やかな一日に。
一方、誠司はリリアに助けられながらホテルをあとにしました。
同じ結婚式の翌日でも、二人で始まる生活と、一人で過ごす部屋。
それぞれの時間が、少しずつ動き始めます。




