第62話 恋人として、もう一度
恋人になったかすみと煌成は、もう一度マーメイドエリアを訪れます。
友達として過ごした前回とは違い、二人の距離は少しずつ近づいていきます。
かすみと煌成は、再びマーメイドエリアを訪れていた。
前回は、友達として歩いた場所。
今日は、恋人として同じ道を歩いている。
煌成が差し出した手を、かすみは自然に握った。
前に来た時は、隣を歩いていても少し距離があった。
周囲のカップルが肩を寄せ合っていても、自分たちは互いに遠慮しながら歩いていた。
今日は、周りの恋人たちと変わらない。
手をつなぎ、肩が触れそうな距離で歩いている。
近くにいることが恥ずかしいよりも、安心できる。
そのことが、かすみにはうれしかった。
水族館へ入ると、青い光が二人を包んだ。
頭上を魚が泳ぐ水中トンネルを抜け、大水槽の前へ向かう。
銀色の小さな魚たちが群れを作り、水の中を流れるように泳いでいた。
煌成は、かすみの手を握ったまま隣に立った。
少しして、ためらうようにもう片方の手をかすみの腰へ添える。
かすみは煌成を見上げた。
「嫌でしたか?」
煌成が小さな声で尋ねる。
「いいえ」
かすみは煌成の方へ少し体を寄せた。
「この方が、落ち着きます」
煌成の手から、わずかに力が抜けた。
かすみは再び水槽へ顔を向けた。
二人の顔が近づき、同じ魚の群れを追う。
その時、水槽の奥にいた魚たちが一斉に向きを変えた。
銀色の群れが光を受け、水の中に大きな帯を作る。
その奥を、白いエイがゆっくりと横切っていった。
広げたひれが水を押すたび、光の帯が左右へ分かれ、また一つにつながる。
水の中に道が開いたようだった。
「……綺麗」
かすみがつぶやく。
煌成も同じ光景を見つめていた。
かすみが顔を向けると、煌成もちょうどこちらを見た。
同じ瞬間に心を動かされたことが分かり、二人は自然に微笑み合った。
前回も、この水族館を一緒に歩いた。
けれど、今日は景色まで違って見えた。
大水槽の前を離れたあと、煌成がかすみに尋ねた。
「この前は、パフェにしましたが……今日は何にしますか?」
かすみは少し考えた。
「私、今度はかき氷が食べてみたいです」
「かき氷ですか」
「はい。マーメイドエリアのかき氷なら、きっと可愛いと思って」
「では、今日はかき氷にしましょう」
二人は水族館に併設されたカフェへ入った。
メニューには、海や人魚をイメージしたスイーツが並んでいる。
かすみが選んだのは、季節限定のマーメイドかき氷だった。
運ばれてきた器を見て、かすみは声を弾ませた。
「わぁ……すごく可愛いです」
氷は淡い水色からラベンダー、やわらかなピンクへと色が移り、海の中へ光が差し込んでいるようなグラデーションになっていた。
上には、白い貝殻型のホワイトチョコレートと、いちご味のピンク色の貝殻チョコレートが飾られている。
苺やブルーベリー、キウイなどの果物が添えられ、その間から小さな魚の形をしたグミやラムネがのぞいていた。
透明な器の底には、青や紫の寒天が重なっている。
上から下まで、小さな海を閉じ込めたようだった。
かすみがスプーンを入れる。
ふわりとした氷を少し崩すと、中から水色の魚の形をしたグミが現れた。
「あ、可愛いお魚が出てきました」
かすみはスプーンを持ち上げ、煌成へ見せた。
氷の雫をまとった魚のグミが、照明を受けてきらめいている。
「本当ですね。中に隠れていたんですね」
「食べ進めるたびに、何が出てくるのか楽しみです」
その後も、白い魚のラムネや、淡いピンクの魚のグミが氷の中から現れた。
器の底へ近づくと、今度は透き通った寒天が姿を見せる。
「下まで海みたいになっています」
かすみは寒天をすくい、うれしそうに笑った。
煌成も同じかき氷を食べていたが、何度もかすみの方へ視線を向けていた。
「煌成さんも、ちゃんと食べていますか?」
「食べています」
「私ばかり見ていませんでしたか?」
「……少し見ていました」
正直に認めた煌成に、かすみは笑った。
「だって、かすみさんがとても楽しそうだったので」
「本当に楽しいです」
かすみはもう一度、氷の中から現れた小さな魚を見た。
「また一緒に食べに来たいです」
「はい。次は、別のものも探しましょう」
かき氷を食べ終える頃には、外もすっかり暗くなっていた。
二人はナイトプールへ向かった。
更衣室の前で、かすみが持っていたバッグを開く。
「今日は、この前買っていただいた水着を持ってきました」
煌成がかすみを見た。
「気に入ってくださったんですか?」
「はい。とても気に入っています」
かすみは少し照れながら続けた。
「せっかく煌成さんに選んでもらったので、また着たいと思って」
「それは、うれしいです」
煌成の声が少し弾んだ。
着替えを終えたかすみがプールサイドへ出ると、煌成は一瞬、言葉を止めた。
淡い水色のワンピース型水着に、同じ色合いのパレオ。
前回と同じ水着だったが、今日は恋人として向き合っている。
それだけで、煌成には違って見えた。
「……やっぱり、とても似合っています」
「ありがとうございます」
かすみが笑うと、煌成は手を差し出した。
「こちらへ」
かすみが手を重ねる。
煌成は足元を確かめながら、かすみの手を引いてプールへ入った。
水の中でも、その手は離れなかった。
煌成が少し前を進み、かすみを導く。
かすみも、その手を信じてついていく。
前回は同じプールにいても、互いに距離を測っていた。
今日は、手をつないでいることが自然だった。
近くに煌成の体温がある。
それが水の冷たさよりも強く感じられた。
「大丈夫ですか?」
「はい。煌成さんがいてくれるので」
かすみの言葉に、煌成が照れたように笑った。
二人は光の揺れる水面を、ゆっくりと進んだ。
時折、煌成がかすみの手を引き、向かい合う。
かすみも水の中で煌成の近くへ寄った。
言葉がなくても、互いが楽しんでいることは伝わっていた。
やがて、プール周辺の照明がゆっくり落ち始めた。
水中から青や紫の光が浮かび、夜の水面を照らす。
「何か始まるみたいですね」
かすみが空を見上げた。
次の瞬間、大きな花火が夜空に開いた。
青い光が広がり、そのあとを追うように銀色の火花が降り注ぐ。
ナイトプールの水面にも花火が映り、空と水の両方で光が揺れた。
周囲から歓声が上がる。
かすみは煌成の隣で、その光景を見つめた。
「綺麗……」
「はい」
煌成の声が、すぐ近くから聞こえた。
淡い紫と白の花火が重なる。
かすみが顔を向けると、煌成もこちらを見ていた。
花火の光が、煌成の横顔を一瞬だけ照らす。
つないだ手に、少し力が加わった。
かすみも握り返した。
次の花火が上がるまでの短い静けさの中で、煌成がゆっくりとかすみへ近づいた。
「かすみさん」
呼ばれた声に、かすみは動かなかった。
煌成の顔が近づいてくる。
かすみは、そっと目を閉じた。
唇が触れたのは、新しい花火が夜空に開いた瞬間だった。
大きな音とともに、金色の光が空いっぱいに広がる。
短いキスだった。
煌成が少し離れたあとも、かすみの胸には熱が残っていた。
「……すみません」
かすみは首を横に振った。
「謝らないでください」
煌成は少し困ったように笑った。
「こういう時、何を言えばいいのか分からなくて」
「私も分かりません」
かすみも笑った。
けれど、離れてほしいとは思わなかった。
その気持ちが伝わったのか、煌成がもう一度かすみへ顔を寄せた。
二度目のキスは、最初よりもゆっくりしていた。
花火の光が水面を染める中、かすみは煌成の手を離さなかった。
ナイトプールを出たあと、二人はそれぞれ着替えを済ませた。
煌成が予約していたのは、プールに隣接するレストランの特別席だった。
大きな窓の向こうには、先ほどまで泳いでいたナイトプールが広がっている。
青や紫の照明が水面を彩り、その奥では巨大な水槽の魚たちがゆっくりと泳いでいた。
水の光がレストランの壁やテーブルにも流れ、窓の外の景色まで料理の一部になっているようだった。
「ここ……すごいですね」
かすみは席につく前から、窓の外へ視線を向けた。
煌成は椅子を引きながら答えた。
「今日は特別な日にしたかったので、この席を予約しておきました」
「私のために?」
「はい」
かすみの胸が、また熱くなった。
テーブルには白いクロスがかけられ、中央には小さな花と真珠を思わせる飾りが置かれていた。
グラスにも水面の光が映り込んでいる。
最初に運ばれてきたのは、貝殻を模した白い皿に盛られた前菜だった。
色鮮やかな魚介と野菜が、海の中の庭園のように並んでいる。
続いて、透明な器に入った冷たいスープが運ばれてきた。
表面には波紋を思わせる模様が描かれ、小さな花びらが添えられていた。
「食べるのがもったいないぐらい綺麗です」
かすみが言うと、煌成も皿を見て笑った。
「僕も同じことを思っていました」
「煌成さんもですか?」
「はい。こういう場所に慣れているように見られることがありますが、今日はかなり緊張しています」
「そうなんですか?」
「かすみさんに喜んでもらえるか、ずっと気になっていました」
かすみは、やわらかく笑った。
「すごくうれしいです」
その言葉を聞き、煌成の肩から少し力が抜けた。
魚料理、肉料理、彩りの美しい付け合わせが順に運ばれてくる。
どの皿にも海や真珠を思わせる意匠が施され、一品ごとに違う景色が広がっていた。
かすみがうれしかったのは、料理の豪華さだけではなかった。
煌成と同じ景色を眺めながら、ゆっくり話せること。
花火が終わったあとも、まだ一緒にいられること。
デザートが運ばれてくる頃、ナイトプールの照明がゆっくりと色を変えた。
「今日、ずっと夢の中にいるみたいです」
かすみが言うと、煌成は静かに答えた。
「僕もです」
少し間を置いて、煌成は続けた。
「でも、今日だけで終わらせたくないと思っています」
かすみの胸が高鳴った。
ディナーを終えた二人は、ホテルの最上階にあるバーへ向かった。
エレベーターの扉が開くと、静かな音楽と落ち着いた照明に包まれた空間が広がっていた。
大きな窓の向こうには、マーメイドエリア全体の夜景が見える。
ライトアップされたナイトプール。
水族館の大きな水槽。
淡い光に縁取られたホテルやレジデンス。
少し前まで歩いていた場所が、宝石を散りばめたように輝いていた。
煌成が予約していたのは、窓際にある二人用の席だった。
「今日は、ずっと綺麗な景色を見ていますね」
かすみが言うと、煌成は少し落ち着かない様子で答えた。
「少し、詰め込みすぎたかもしれません」
「そんなことありません。全部、楽しかったです」
「本当ですか?」
「はい。水族館も、かき氷も、ナイトプールも……」
かすみはそこで言葉を止めた。
花火の下で交わしたキスを思い出す。
煌成も同じことを考えたのか、二人の間に照れくさい沈黙が落ちた。
「僕は、こういう時に何を話せばいいのか、まだよく分かりません」
「煌成さんでも、分からないことがあるんですね」
「たくさんあります。特に、かすみさんのことになると」
かすみは少し笑った。
完璧に見える煌成が、自分の前では緊張し、迷っている。
それがうれしかった。
注文した飲み物が運ばれてきた。
かすみのグラスには、淡い水色から紫へ変わるノンアルコールカクテルが注がれていた。
表面には白い花びらが浮かび、細かな気泡が光を受けている。
「これも海みたいですね」
「かすみさんに似合うと思って選びました」
二人がグラスを合わせると、澄んだ音がした。
しばらく夜景を眺めながら話したあと、煌成が端末を確認した。
「少しだけ、ここで待っていてもらえますか」
「どうしたんですか?」
「すぐに戻ります」
煌成は席を立ち、バーの奥へ向かった。
かすみは窓の外を眺めながら待った。
少しすると、煌成が戻ってきた。
その手には、大きな花束が抱えられていた。
白い花を中心に、淡い水色や薄紫の花が重なり、その間には真珠のような飾りが添えられている。
「かすみさん」
差し出された花束を前に、かすみはすぐに言葉が出なかった。
「これ……私にですか?」
「はい」
かすみは両手で花束を受け取った。
近づけると、やさしい香りがした。
「こんなに綺麗な花束、初めてもらいました」
「喜んでもらえてよかったです」
煌成は、ほっとしたように笑った。
それで終わりではなかった。
ほどなくして、バーのスタッフが小さな深い青色の箱を運んできた。
煌成はそれを受け取り、かすみの前へ置いた。
「開けてもいいですか?」
「もちろんです」
かすみが箱を開く。
中には、海の光を閉じ込めたような石がついた指輪が収められていた。
中心の石は透明に近い淡い水色で、周囲に小さな石が波のように並んでいる。
「綺麗……」
かすみは指輪を見つめた。
「今日、選びました」
「今日?」
「はい。ホテルの宝石店は二十四時間対応していると聞いていたので」
煌成は少し気まずそうに続けた。
「本当は、もっと前から準備しておくべきだったのかもしれません。でも、今日かすみさんと過ごしているうちに、どうしても贈りたくなりました」
「そんな……」
「急すぎましたか?」
煌成の声には、不安が混じっていた。
かすみは首を横に振った。
「うれしいです。本当に、すごくうれしいです」
煌成は箱から指輪を取り出した。
「つけてもいいですか?」
「はい」
かすみが左手を差し出す。
煌成の指先は、少しだけ震えていた。
指輪が薬指へ収まる。
かすみは花束を抱えながら、何度も自分の手を見た。
指輪は、バーの灯りを受けて静かに輝いていた。
「大切にします」
「ありがとうございます」
煌成は少し照れたように視線をそらした。
バーを出たあと、二人はスイートルームへ向かった。
扉が開くと、広いリビングと大きな窓が見えた。
窓の外には、マーメイドエリアの夜景が広がっている。
かすみは花束をテーブルへ置き、もう一度指輪を見つめた。
水族館で手をつないだこと。
煌成の腕が腰へ回ったこと。
かき氷の中から、小さな魚が出てきたこと。
ナイトプールで手を引かれたこと。
花火の下で交わしたキス。
豪華なディナー。
そして、薬指にある指輪。
夢の中にいるようだった。
それでも、煌成の隣に立っている感覚は、はっきりしていた。
「煌成さん」
「はい」
「今日、ずっと考えていました」
煌成が、かすみへ向き直る。
「こんなに早く思うのは、おかしいかもしれません」
かすみは指輪をつけた左手を胸元へ寄せた。
「でも、私……煌成さんと結婚したいです」
煌成はすぐには答えなかった。
かすみの言葉を受け止めるように見つめ、ゆっくりと息を吐く。
「僕から言おうと思っていました」
「そうだったんですか?」
「はい。でも、今日一日があまりにも楽しくて、タイミングを迷っていました」
煌成はかすみの前へ立ち、両手でかすみの手を包んだ。
「出会ってから、まだ長い時間がたったわけではありません」
かすみは黙って聞いていた。
「それでも、かすみさんと過ごす未来を、いつかと先延ばしにしたくありません」
煌成の声は、少し震えていた。
「これから、楽しいことばかりではないと思います。僕にも、できないことや分からないことがあります」
煌成は、かすみの手を握り直した。
「それでも、一緒に考えて、一緒に生きていきたいです」
そして、まっすぐにかすみを見た。
「かすみさん。僕と結婚してください」
返事に迷うことはなかった。
「はい」
かすみは笑顔で答えた。
「私を、煌成さんのお嫁さんにしてください」
煌成は安心したように笑い、かすみを抱きしめた。
かすみも煌成の背中へ腕を回す。
窓の外では、ナイトプールの光が静かに揺れていた。
恋人としてもう一度訪れた一日は、二人の未来を決める夜になった。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、恋人としてもう一度マーメイドエリアを訪れた、かすみと煌成の一日でした。
二人の距離は、友達だった前回よりも大きく近づきました。




