第61話 遅すぎた決意
今回は、誠司とリリアの話です。
誠司は、今日こそかすみを指名しようと、マーメイドラウンジへ向かいます。
けれど、そこで知ったのは、あまりにも遅すぎる現実でした。
誠司は、マーメイドラウンジの入口で一度足を止めた。
今日こそ、かすみを指名する。
もう一度きちんと話をして、この店を辞めてほしいと伝える。
そして、できることなら。
もう一度、自分のそばに戻ってきてほしい。
端末に表示された入店確認へ触れると、重い扉が開いた。
水槽から落ちる青い光が、床をゆっくり揺れている。
以前ここへ来た時とは違い、店内を見回す余裕はなかった。
誠司が探しているのは、かすみだけだった。
「いらっしゃいませ、誠司さん」
声をかけてきたのはリリアだった。
淡い笑みを浮かべているものの、誠司の視線が自分を通り過ぎたことには気づいていた。
「かすみは、今日はどこにいますか」
リリアの表情から、笑みが消えた。
「かすみさんなら、もうこのお店には来ませんよ」
誠司の指先が止まる。
「……辞めたんですか?」
「はい」
リリアは近くを通った店員へ短く合図を送り、誠司を人の少ない席へ案内した。
二人が向かい合って座っても、誠司はメニューに触れなかった。
「急に辞めたんですか」
「この前、アフターで一緒に出かけていたお客様と、お付き合いすることになったそうです」
誠司の視線が、リリアの口元で止まった。
「結婚を前提にした、真剣なお付き合いだと聞いています」
「結婚を……」
かすれた声が、自分のものとは思えなかった。
「その方から、この店で働くのは辞めてほしいと言われたそうです。かすみさんも、自分で辞めると決めました」
あの日、かすみの隣を歩いていた男の姿が浮かんだ。
かすみを急かさず、少し前を歩いていた男。
自分は、その背中を席から見送った。
今日こそ、かすみに言うつもりだった。
この店を辞めてほしい。
もう一度、二人で話したい。
やり直したい。
けれど、自分がようやく口にしようとした言葉を、別の男はすでにかすみへ伝えていた。
誠司の中に、これまでの会話が蘇った。
かすみが結婚の話をした時、自分は忙しいと言った。
今は余裕がない。
落ち着いてから話そう。
そんな言葉で先へ延ばし、かすみが何を望んでいるのかを深く聞こうとしなかった。
将来について話したそうにしていても、仕事や資格の話へ戻した。
同じ家にいれば、いつでも話せると思っていた。
かすみが隣にいることに、安心しきっていた。
その一方で、自分はリリアとホテルへ行った。
かすみを傷つけ、家から出ていかせた。
それでも、時間がたてば話せると思っていた。
かすみは自分を嫌いになりきれない。
いつか戻ってくる。
心のどこかで、そう思い込んでいた。
「……僕が、先延ばしにしたから」
誠司の声が落ちた。
リリアは何も答えなかった。
「かすみは、前から結婚したいと言っていました」
「そうだったんですね」
「僕は、忙しいからあとにしてほしいと……」
誠司はそこで言葉を切った。
今さら説明しても、何も変わらない。
リリアは向かい側から誠司を見ていた。
かすみが別の男を選んだと知り、苦しんでいる。
誠司が自分を見ていないことも分かっていた。
それでも、肩を落とした姿を見ると胸が痛んだ。
好きな人が、別の女性を失って苦しんでいる。
慰めたいと思うほど、自分の心まで傷ついていく。
「誠司さん」
呼びかけると、誠司がゆっくり顔を上げた。
「今日は、どうしますか」
誠司はしばらく答えなかった。
やがて、テーブルの上で手を組んだ。
「リリアさん」
「はい」
「今日、アフターをお願いしてもいいですか」
リリアの息が止まりかけた。
誠司からアフターを頼まれた。
以前なら、迷わず喜んでいたはずだった。
けれど、今の誠司が誰を思っているのか、分からないふりはできなかった。
「……分かりました」
店を出た二人は、少し離れた静かなバーへ入った。
誠司は普段より速いペースで酒を飲んだ。
リリアは同じグラスを長い時間かけて口へ運んだ。
二人の間には何度も沈黙が落ちた。
「かすみは、幸せになれると思いますか」
誠司が尋ねた。
「かすみさんが選んだ方なら、大切にしてくれると思います」
リリアはそう答えた。
本当は、そんな話を聞きたくなかった。
誠司の口から、かすみの名前が出るたびに胸の奥が痛んだ。
それでも、突き放すこともできなかった。
「そうですよね」
誠司はグラスを見つめた。
「僕より、ずっと……」
最後までは言わなかった。
バーを出る頃には、街の灯りも少なくなっていた。
二人は並んで歩いた。
誠司の足取りは乱れていなかったが、いつもの落ち着きは消えていた。
リリアの住む建物が近づく。
その入口で、誠司が立ち止まった。
「リリアさん」
「どうしました?」
誠司はすぐに続けなかった。
迷った末に、リリアを見た。
「今夜、一緒に過ごしてもらえませんか」
リリアの胸が強く鳴った。
待っていた言葉だったはずなのに、喜びは湧かなかった。
「一人で帰りたくないんです」
誠司の声には、隠しきれない弱さがあった。
リリアは指先を握る。
このまま部屋へ招けば、今夜だけは誠司のそばにいられる。
誠司に触れられる。
好きな人と同じ時間を過ごせる。
けれど、誠司の心が向いている先は、今もかすみだった。
「誠司さん」
「はい」
「私が好きだから、そう言っているんですか?」
誠司の唇がわずかに動いた。
答えは返ってこなかった。
リリアは視線を落とした。
その沈黙で、十分だった。
「私は、かすみさんの代わりにはなれないわ」
「そんなつもりでは……」
「では、今、私を見ていますか?」
誠司は何も言えなかった。
リリアは泣きそうになるのをこらえながら、誠司を見た。
「私、誠司さんが好きです」
誠司の表情が揺れた。
「だから、寂しい時だけ私を選ばないで」
「リリアさん……」
「かすみさんを失った苦しさを、私で埋めようとしないで」
リリアの声は途中で震えた。
それでも、誠司の手を取ることはしなかった。
「今日は帰ってくれる?」
長い沈黙のあと、誠司がうつむいた。
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃないの」
「分かっています」
誠司は背を向けた。
数歩進んだところで足を止めたが、振り返らなかった。
「おやすみなさい、リリアさん」
「おやすみなさい」
誠司は一人で歩いていった。
リリアは、その姿が見えなくなるまで入口に立っていた。
誠司は一人で夜道を歩いた。
リリアの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
私は、かすみさんの代わりにはなれないわ。
今日は帰ってくれる?
その時、端末が短く震えた。
画面に、新しい案内が表示されていた。
『失った恋を取り戻しませんか?』
『別れた恋人の心を、もう一度あなたへ』
その下に、もう一つの案内が続いた。
『代わりの恋を、本物にしませんか?』
『今そばにいる人が、あなたを心から愛するようになります』
購入画面へ進むためのボタンが、ゆっくり明滅している。
これを買えば、かすみは戻るのだろうか。
それとも、リリアの気持ちを自分へ向けたまま、寂しさを埋められるのだろうか。
誠司は画面を閉じた。
どちらも選びたくなかった。
かすみが自分の意思で選んだ相手から、心を奪うことはできない。
リリアの気持ちを、自分の寂しさを埋めるための商品に変えることもできなかった。
自分が向き合わなかった時間も、傷つけた人の心も、金を払えば消えるものではなかった。
その頃、リリアにも同じように端末から案内が届いていた。
『好きな人が、自分だけを見てくれる心を買いませんか?』
『他の誰も思い出せなくなるほど、あなたを愛する気持ちを』
画面には、すぐに購入できるように金額と確認ボタンが表示されていた。
これを買えば、誠司はかすみを忘れるのだろうか。
寂しさを埋めるためではなく、自分だけを見てくれるようになるのだろうか。
今度こそ、迷わず自分を選んでくれるのだろうか。
リリアは画面を閉じた。
そんなことをして、誠司の気持ちを手に入れたいとは思わなかった。
欲しいのは、買った愛情ではない。
誠司が自分の意思で振り向き、リリア自身を選んでくれることだった。
リリアは扉に背を預けた。
外から誠司の足音は、もう聞こえない。
好きだから、そばにいたかった。
好きだからこそ、今夜は受け入れられなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、かすみとやり直そうと決意した誠司と、そんな誠司を好きだからこそ受け入れられなかったリリアの話でした。




