第59話 友達として
かすみは、三宮煌成とマーメイドエリアへ向かう。
恋人ではなく、まだ友達として。
華やかな広告や映像が流れる場所で、かすみは少しずつ自分の気持ちと向き合っていきます。
待ち合わせの時間より、かなり早く着いてしまった。
かすみは、マーメイドエリアの入口前で端末の時間を確認した。
まだ約束の時間まで余裕がある。
早すぎたかもしれない。
そう思いながら、少し離れた場所で待とうとした時だった。
「かすみさん」
聞き慣れ始めた声がして、かすみは顔を上げた。
三宮煌成が、同じように少し驚いた顔で立っていた。
「三宮さん……早いですね」
「かすみさんこそ」
二人は、一瞬だけ言葉を止めた。
それから、どちらからともなく小さく笑う。
「待たせたら悪いと思って、早く来てしまいました」
かすみが言うと、煌成も同じように笑った。
「僕もです。少し早すぎるかと思ったんですが」
「私も、そう思っていました」
偶然なのに、どこか二人らしい。
約束の時間より早く来てしまうところまで似ているのが、少しおかしかった。
煌成は、かすみの様子を見て、やわらかく言った。
「では、少し早いですが、向かいましょうか」
「はい」
かすみはうなずいた。
二人は、マーメイドエリアの入口へ向かって歩き出す。
約束の時間より早く始まった一日は、かすみにとって少しだけ特別なものに思えた。
入口を前にして、煌成は少しだけ息をついた。
「実は、こういう場所に女性と来るのは初めてで、少し緊張しています」
「三宮さんでも、緊張するんですか?」
かすみが聞くと、煌成は少し照れたように笑った。
「しますよ。仕事や調査なら平気なんですが、今日は少し違いますから」
「違う……」
「ミレナさんのことも気になっています。正直、ひとりでも来ようとは思っていました」
煌成は、マーメイドエリアの入口へ視線を向けた。
「でも、ひとりだと少し入りづらかったかもしれません。かすみさんと一緒に来られて、よかったです」
かすみは、その言葉に少しだけ胸が温かくなった。
「私も……ひとりだったら、きっと緊張していたと思います」
「では、今日は二人で少しずつ見て回りましょう」
「はい」
マーメイドエリアの中は、昼間でも華やかだった。
白と青で統一された通路。
貝殻を思わせる飾り。
壁沿いに続く水槽。
人々の楽しそうな声が、明るい照明の下でやわらかく響いている。
かすみは少し周囲を見回した。
以前、欲望区で働いていた時とは違う。
今日は、客としてここにいる。
そのことが、少し不思議だった。
「まずは水族館を見たいです」
かすみが言うと、煌成はうなずいた。
「では、行きましょう」
二人は水族館の方へ向かった。
中へ入ると、通路全体が水の光に包まれていた。
天井近くまで伸びる大きな水槽。
青い光。
ゆっくり泳ぐ魚たち。
子ども連れの家族や、カップル、観光客が水槽の前で写真を撮っている。
かすみは、自然と足を止めた。
小さな魚たちが、水草の間をくるくると泳いでいた。
「あ……あの魚、小さくて可愛いです」
かすみが水槽の前で足を止めると、煌成もその隣に並んだ。
「本当ですね。動きも愛らしいです」
かすみは、少しだけ表情をやわらげた。
「ラウンジにも水槽があって、魚も泳いでいましたけど……あの時は仕事のことでいっぱいいっぱいで、じっくり見る余裕がなかったんです」
静かな水の揺らぎを見つめながら、かすみは続ける。
「今日はこうしてゆっくり見られて、何だか癒やされます」
煌成は、そんなかすみを見て、やわらかく微笑んだ。
「それなら、来てよかったです」
「はい」
「今度は仕事ではなく、楽しい思い出として水槽を見てもらいたいです」
かすみは、水槽の中を泳ぐ小さな魚を見つめたまま、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
同じ水槽なのに、こんなにも違って見える。
ラウンジで見た水槽は、かすみにとって緊張の場所だった。
けれど今は、隣に煌成がいる。
魚の動きを追いかけて、ただ可愛いと思える時間がある。
それだけで、少し救われた気がした。
さらに奥へ進むと、大きな水槽の前に出た。
色鮮やかな魚たちが群れになって泳ぎ、光が水の中で揺れている。
かすみはしばらく、その景色を見つめていた。
「あの魚たちを見ていると、海底ミッションを思い出します」
「海底ミッションですか」
「はい。竜宮城へ行った時も、綺麗な魚がたくさん泳いでいました」
かすみの声が、少しだけやわらかくなる。
「あの時は緊張していましたけど……竜宮城にいた魚たちは、本当に綺麗でした」
煌成も、水槽の奥へ視線を向けた。
「僕も、今ちょうど思い出していました」
「三宮さんも?」
「はい」
煌成は、ゆっくりうなずいた。
「僕は、かすみさんともう一度竜宮城に行きたいです」
かすみは、少し言葉に詰まった。
「もう一度、ですか」
「はい。ミレナさんのこともあります。でも、それだけではなくて」
煌成は、水槽の光を見つめながら続けた。
「今度は、かすみさんと一緒に、あの場所をちゃんと見たいと思いました」
かすみの胸が、小さく揺れた。
竜宮城。
ミレナ。
人魚たち。
まだ向き合わなければならないことはある。
けれど、煌成と一緒なら、その場所へ戻ることが少し怖くなくなる気がした。
「私も……もう一度行きたいです」
かすみは静かに言った。
「今度は、三宮さんと一緒に」
煌成は、やわらかく微笑んだ。
「では、その時は一緒に行きましょう」
しばらく水族館を歩いたあと、煌成がかすみの方を見た。
「少し休憩して、飲み物でも飲みましょうか」
「はい」
かすみはうなずいた。
水槽のそばにあるカフェは、白と水色でまとめられていた。
テーブルの上にも小さな貝殻の飾りが置かれ、窓際の席からは大きな水槽が見える。
案内された席に座ると、煌成はメニューを開いた。
「ここのパフェ、人気があるみたいですよ。一緒に食べませんか」
「パフェですか?」
「はい。見た目も綺麗ですし、きっとかすみさんも気に入ると思います」
かすみは少し笑った。
「煌成さん、スイーツが好きだって、この間も言っていましたね」
「はい。甘いものは好きです」
煌成は、少し照れたように答えた。
「こういう場所に来ると、つい頼みたくなります」
しばらくして、二人の前にパフェが運ばれてきた。
透明なグラスの中には、青いゼリー、白いクリーム、果物、真珠のような小さな砂糖菓子が重なっていた。
上には貝殻の形をしたチョコレートと、小さな人魚の尾びれを思わせる飾りがのっている。
「わあ……綺麗」
かすみは思わず声を漏らした。
「こんなパフェ、見たことないです。とても可愛い」
水槽の光がグラスに反射して、パフェ全体がきらきらと輝いて見えた。
煌成は、そんなかすみの表情を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「喜んでもらえてよかったです」
「食べるのが少しもったいないですね」
「写真を撮りますか?」
「いいんですか?」
「もちろんです。今日の思い出ですから」
煌成が端末を構えると、かすみはパフェの隣に少し手を添えた。
水槽の青い光。
可愛いパフェ。
向かい側にいる煌成。
それだけで、かすみは胸の奥がふんわり温かくなるのを感じた。
写真を撮ったあと、かすみはスプーンを手に取った。
「いただきます」
「どうぞ」
青いゼリーとクリームを少しすくって口に入れる。
甘くて、冷たくて、果物の香りが広がった。
「おいしいです」
「よかった」
煌成も自分のパフェを少し食べて、満足そうにうなずいた。
「これは人気が出るのも分かります」
かすみは、パフェのグラスを見つめながら少し笑った。
ラウンジで働いていた時は、客に楽しんでもらう側だった。
今は、自分が椅子に座って、可愛いパフェを見て、甘いものを味わっている。
その違いが、少し不思議だった。
煌成は、そんなかすみを見て静かに言った。
「かすみさんは、ゲストを迎える側で無理に笑うより、こうしてゲストとして楽しんでいる方が似合います」
かすみは、パフェのグラスを見つめたまま、少し言葉に詰まった。
「私が、楽しむ側で……いいんでしょうか」
「もちろんです」
煌成は静かに答えた。
「誰かを助けたい気持ちは、かすみさんの優しさだと思います。でも、そのためにかすみさん自身が傷ついていいわけではありません」
かすみは、スプーンを持つ手を止めた。
煌成は、まっすぐに続けた。
「かすみさんには、自分を大事にしてほしいです」
その言葉は、責めるものではなかった。
命令でもなかった。
ただ、かすみ自身を大切な人として見てくれている言葉だった。
かすみの胸の奥が、静かに温かくなる。
「……ありがとうございます」
小さくそう答えると、煌成はやわらかく微笑んだ。
「今日は、かすみさんが楽しいと思えるものを、ひとつずつ見つけていきましょう」
水族館を出た先には、広い休憩スペースがあった。
白いソファが並び、壁には大きな映像画面が設置されている。
そこには、先日行われたマーメイドウェディングの映像が流れていた。
白銀のチャペルで微笑む詩乃と玲司。
ナイトプールの光に包まれるレイナと翔。
花火。
水槽の光。
ウェディングドレス。
祝福の拍手。
映像の中の二組は、どちらも幸せそうに見えた。
かすみは、足を止めた。
「わぁ……綺麗」
自然と言葉がこぼれた。
「幸せそう……」
自分で言ってから、かすみは少しだけ胸の奥がきゅっとした。
豪華なチャペル。
大きなホテル。
たくさんの招待客。
映像に映る花嫁たちは、誰もが憧れる場所に立っているように見えた。
けれど、かすみが欲しかったのは、豪華さそのものではなかった。
「私、あんなに豪華じゃなくていいんです」
かすみは、映像を見つめたまま言った。
「大きなホテルじゃなくても、たくさんの人に見られなくてもいいんです」
少し迷ってから、言葉を続ける。
「でも……いつか私も、ウェディングドレスを着て、好きな人と、小さくてもいいから結婚式ができたらいいなあって……思います」
言い終えたあと、かすみは少し恥ずかしくなった。
こんな話をするつもりではなかった。
けれど、煌成は笑わなかった。
急かすことも、軽く流すこともしなかった。
ただ、映像ではなく、かすみの方を見ていた。
「かすみさんだったら、きっと素敵です」
「え……」
「いつか絶対に、素敵な花嫁さんになりますよ」
煌成の声は、まっすぐだった。
かすみは、返事に迷って、指先をそっと重ねた。
「……そうでしょうか」
「はい」
煌成は静かにうなずいた。
「豪華な式でなくても、かすみさんが心から笑顔でいられる場所なら、それだけで素敵な結婚式になると思います」
その言葉に、かすみの胸の奥が温かくなった。
昔、誠司に結婚式の話をした時は、未来が少し遠くなった気がした。
けれど今は、同じ話をしているのに、胸が苦しくならなかった。
隣にいる煌成は、かすみの小さな願いを笑わずに聞いてくれる。
それだけで、かすみは少しだけ救われた気がした。
休憩スペースを出る頃には、外の空が少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
通路の案内板には、夜のナイトプールの宣伝が流れている。
青と紫のライトに包まれた水面。
カップルたち。
ドリンク。
夜景。
その映像を見て、かすみは足を止めた。
「ナイトプールもあるんですね」
案内の端末を見ながら言うと、煌成はやわらかくうなずいた。
「はい。夜はライトアップも綺麗みたいですよ」
「でも……私、水着を持ってきていません」
かすみが少し困ったように言うと、煌成はすぐに答えた。
「でしたら、僕がプレゼントします」
「え……そんな、悪いです」
「せっかくですから。記念にもなりますし、ぜひ好きなものを選んでください」
かすみは迷った。
水着を男性に買ってもらう。
それだけで、今までの自分ならかなり戸惑っていたと思う。
けれど、煌成の言い方には押しつけがなかった。
当然のように買うのではなく、かすみが楽しめるように選ばせてくれている。
「……では、少しだけ見てもいいですか」
「もちろんです」
二人はショップの方へ向かった。
店内には、白や水色、淡いラベンダー色の水着が並んでいた。
フリルのついたもの。
透け感のある羽織とセットになったもの。
上品なワンピース型。
貝殻や真珠を思わせる飾りがついたもの。
かすみは並んだ水着を見ながら、小さく迷った。
「どれも素敵で、迷ってしまいます……」
煌成は少し考えてから、ひとつの水着へ目を向けた。
「かすみさんは、あまり肌を露出しすぎないものの方が似合いそうです」
「そうですか?」
「はい。上品で、やわらかな雰囲気がありますから」
煌成が手に取ったのは、淡い水色のワンピース型の水着だった。
胸元や肩まわりには控えめなフリルがあしらわれていて、腰には透ける薄布のパレオが付いている。
可愛らしさもあるが、落ち着いた上品さの方が印象に残るデザインだった。
「こういうもの、すごくお似合いだと思います」
かすみはその水着を見つめた。
派手すぎず、地味でもない。
やさしい海の色みたいな水着だった。
「素敵です……」
「気に入りましたか?」
「はい。でも、私が着ても大丈夫でしょうか」
「もちろんです」
煌成はまっすぐ答えた。
「きっと、とても綺麗です」
かすみは少し照れながら、水着を胸の前にあててみた。
「じゃあ……これにしてみます」
店員に案内され、かすみは試着室へ入った。
カーテンの向こうで、衣擦れの音が小さく聞こえる。
煌成は少し離れた場所で待っていた。
落ち着いているつもりだった。
けれど、胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなかった。
女性とこうして水着を選びに来るのは、煌成にとって初めてだった。
かすみが自分の選んだ水着を着て出てくる。
それを待っている。
ただそれだけなのに、妙に緊張した。
しばらくして、カーテンの向こうからかすみの声がした。
「三宮さん」
「はい」
「……どうでしょうか」
ゆっくりとカーテンが開く。
淡い水色の水着を着たかすみが、少し恥ずかしそうに立っていた。
ワンピース型のデザインは、かすみの清楚な雰囲気によく合っていた。
控えめなフリル。
透けるパレオ。
白い肌に映える、やさしい海の色。
露出は多くない。
それなのに、かすみの細い肩や柔らかな雰囲気が、いつもより女性らしく見えた。
煌成は、すぐに言葉が出なかった。
「……変ですか?」
かすみが不安そうに聞く。
煌成は、はっとして首を振った。
「変ではありません」
少し間を置いて、まっすぐに言う。
「とても似合っています。すごく素敵です」
かすみの頬が少し赤くなった。
「本当ですか」
「本当です」
煌成は、もう一度かすみを見た。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「素敵すぎて、他の人には見せたくないぐらいです」
かすみは、言葉に詰まった。
「……三宮さん」
「あ、すみません。今のは少し正直に言いすぎました」
煌成は軽く咳払いをした。
「でも、本当にお似合いです」
かすみは、胸元のフリルにそっと指を添えた。
「そう言ってもらえると……少し安心します」
「安心して大丈夫です。かすみさんらしくて、とても綺麗です」
煌成の声は、いつものように落ち着いていた。
けれど、その奥に少しだけ照れが混じっているのが分かった。
かすみは、そのことに気づいて、胸の奥がふんわり温かくなった。
ラウンジで着た衣装とは違う。
誰かに見せるために無理をする服ではない。
今日は、自分が楽しむために選んだ水着だった。
そして、それを似合うと言ってくれる人がいる。
それだけで、かすみは少し嬉しかった。
「これにします」
「はい。では、買いましょう」
「ありがとうございます。大切にします」
「こちらこそ、選ばせてもらえて嬉しかったです」
煌成は、店員に会計を頼んだ。
その横で、かすみはもう一度、鏡の中の自分を見た。
淡い水色の水着。
少し照れた顔。
でも、どこか嬉しそうな自分。
今日は友達として来た。
そう思っていた。
けれど、煌成と過ごす時間は、ただの友達という言葉だけでは少し足りない気がしてきた。
夜のナイトプールは、水族館ともラウンジとも違う光に包まれていた。
水面には青と紫のライトが揺れ、プールサイドには白い花と小さなランタンが並んでいる。
遠くの壁には、夜の海を思わせる映像がゆっくり流れていた。
かすみは、淡い水色の水着の上に薄いパレオを巻き、プールサイドに立っていた。
煌成と二人でナイトプールに入ると思うと、胸の奥が少し落ち着かなかった。
「かすみさん、大丈夫ですか」
煌成が隣で聞いた。
「はい。ただ……こういう場所で泳ぐのは、少し緊張します」
「僕もです」
「三宮さんも?」
「はい。仕事や調査なら平気なんですが、今日は少し違いますから」
煌成は少し照れたように笑った。
「かすみさんと一緒なので、僕も少し緊張しています」
その言葉に、かすみの胸がふわりと温かくなった。
「では、少しだけ泳ぎましょうか」
「はい」
二人はゆっくり水に入った。
ひんやりした水が肌に触れる。
プールの中には、ライトアップされた青い光が揺れていた。
かすみは少し泳いでから、ふっと笑った。
「気持ちいいですね」
「はい。水面の光が綺麗です」
二人は、並んでゆっくり泳いだ。
水面には青と紫の光が揺れている。
遠くでは、他の客たちの笑い声が聞こえた。
煌成が隣にいる。
それだけで、かすみは不思議と落ち着いた。
けれど、落ち着くのに、胸の奥は少しだけ騒がしい。
水面に映る光を見つめながら、かすみはそっと思った。
私、三宮さんのことを意識しているのかもしれない。
そう気づいた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
好き、なのかもしれない。
まだ、はっきりとは分からない。
けれど、煌成と話していると楽しい。
隣にいると安心する。
今日が終わってほしくないと思う。
それはもう、ただ感謝しているだけではない気がした。
「かすみさん?」
煌成が声をかけた。
「顔が赤いですが、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です」
かすみは慌てて水面へ視線を落とした。
ナイトプールの光が揺れている。
その光まで、さっきより少し眩しく見えた。
しばらく泳いだあと、二人はプールサイドのチェアで休憩した。
スタッフが、冷たい飲み物を運んでくる。
透明なグラスの中には、青いハーブティーと小さな果物が浮かんでいた。
かすみはタオルを肩にかけ、ナイトプールの水面を見つめた。
青と紫の光が、水面の上でゆっくり揺れている。
遠くでは、カップルたちが写真を撮っていた。
「ライトアップ、綺麗ですね」
かすみは自然と言葉にした。
「はい。想像していたより、ずっと綺麗です」
煌成も隣で水面を見つめる。
かすみは、グラスを両手で包んだ。
胸の奥には、まださっき気づいたばかりの気持ちが残っている。
煌成と一緒にいると楽しい。
隣にいると安心する。
今日が終わってほしくない。
そんな気持ちが、ライトアップされた水面のように、静かに揺れていた。
「私、こんなに楽しめたの……初めてかもしれません」
言葉にしてから、かすみは少し照れた。
けれど、それは本心だった。
煌成は、かすみの横顔を見て、やわらかく言った。
「そう思ってもらえたなら、今日一緒に来られてよかったです」
かすみは水面を見つめたまま、小さくうなずいた。
「はい。私も……三宮さんと来られてよかったです」
しばらくプールサイドで休んだあと、煌成が時間を確認した。
「そろそろ、ディナーに向かいましょうか」
「ディナー……」
「ホテルのレストランを予約してあります。泳いだあとですし、少し落ち着いて食事をしましょう」
「予約までしてくださっていたんですか」
「はい。今日は、かすみさんにゆっくり楽しんでほしかったので」
その言葉に、かすみの胸がまた少し温かくなった。
ナイトプールの光はまだ水面に揺れている。
けれど、煌成と過ごす時間は、次の場所へ移っても終わらない。
そう思うと、かすみは少し安心した。
「では、着替えてきます」
「はい。ロビーで待っています」
煌成はそう言って、かすみが急がなくていいように少しだけ距離を取った。
レストランは、ホテルの中でも静かな場所にあった。
大きな水槽に面した席。
白いクロスのテーブル。
青いグラス。
小さな真珠のような照明。
ナイトプールの華やかさとは違い、ここには落ち着いた海の夜が広がっていた。
案内された席に座ると、水槽の中を魚たちがゆっくり泳いでいるのが見えた。
「綺麗……」
かすみは思わず呟いた。
「今日は、たくさん綺麗なものを見ましたね」
煌成が言うと、かすみは少し笑った。
「はい。でも、どれも少しずつ違います」
かすみは、静かな水槽を見つめながら、今日という日が少しずつ終わりに近づいていることを感じていた。
ディナーは、海を思わせる料理が少しずつ出てきた。
白身魚の前菜。
貝のスープ。
彩りの良い野菜。
小さなデザート。
どれも美しく、食べるのが惜しくなるほどだった。
会話は穏やかに続いた。
水族館のこと。
竜宮城のこと。
今日見たウェディング映像のこと。
そして、ミレナのこと。
重い話になりすぎる前に、煌成は自然に別の話題へ移してくれた。
その優しさが、かすみにはありがたかった。
ディナーを終えたあと、煌成はかすみを部屋の前まで送ってくれた。
廊下は静かだった。
壁の水槽には、小さな魚がゆっくり泳いでいる。
水の光が床に揺れ、夜のホテル全体が少しだけ夢の中のように見えた。
「今日はありがとうございました」
かすみが言うと、煌成は穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ。とても楽しかったです」
「私も……楽しかったです」
言葉にすると、胸の奥が少し温かくなった。
「では、今日はゆっくり休んでください」
煌成はそう言って、自分の部屋へ戻ろうとした。
その背中を見た瞬間、かすみの胸に小さな寂しさが広がった。
まだ終わってほしくない。
もう少しだけ、一緒にいたい。
そう思ってしまった。
「待ってください」
気づくと、声が出ていた。
煌成が振り返る。
「かすみさん?」
かすみは、自分でも少し驚きながら言った。
「もう少しだけ……一緒にいてもいいですか」
言ってから、顔が熱くなった。
けれど、取り消したくはなかった。
煌成は一瞬だけ黙ったあと、廊下の先へ視線を向けた。
「では、あちらのソファで少し話しましょうか」
「ソファ……」
「はい。部屋ではなく、外の落ち着いた場所で」
その言葉に、かすみは小さく息をついた。
ほっとしたような。
少しだけ物足りないような。
けれど、煌成がそうしてくれることが、かすみには嬉しかった。
二人は、廊下の奥にある小さな休憩スペースへ向かった。
水槽の前に、白いソファが二つ並んでいる。
窓の向こうには、夜のマーメイドエリアの光が広がっていた。
かすみと煌成は、少し距離を空けて座った。
「今日は、本当にいろいろなものを見ましたね」
煌成が言った。
「はい」
かすみは、水槽の魚を見つめながら答えた。
「最初は緊張していました。でも、途中から……楽しくて」
「それならよかったです」
「私、こんなふうに一日を楽しむことが、あまりなかった気がします」
煌成は静かに聞いていた。
かすみが言葉を選ぶ間も、穏やかに待ってくれる。
その沈黙さえ、今は心地よかった。
しばらく話しているうちに、夜はさらに深くなっていった。
水槽の光が、二人の足元でゆっくり揺れている。
煌成が時間を確認した。
「そろそろ休みましょうか」
かすみの胸が、また少し寂しくなった。
「もう、ですか」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
煌成はやわらかく微笑んだ。
「はい。今日はたくさん歩きましたし、泳ぎましたから。遅くまで起きていると、体によくありません」
「……そうですね」
「明日の朝、一緒に朝食をいただきましょう」
かすみは顔を上げた。
「朝食……」
「はい。よければ」
胸の奥にあった寂しさが、少しだけやわらぐ。
今日が完全に終わってしまうわけではない。
明日もまた、煌成と会える。
そう思うだけで、かすみは安心した。
「はい。ご一緒したいです」
「では、明日の朝に」
煌成は立ち上がり、かすみの部屋の前まで送ってくれた。
「おやすみなさい、かすみさん」
「おやすみなさい、三宮さん」
煌成は深く踏み込まなかった。
部屋へ誘うこともなかった。
名残惜しそうに見せることもなく、きちんと距離を守って、自分の部屋へ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、かすみは胸元に手を添えた。
安心している。
大切にされている。
それなのに、少し物足りない。
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
明日の朝まで待つのが、少し長く感じる。
かすみは部屋に入り、扉を閉めた。
静かな部屋の中で、今日一日の出来事が何度も胸に浮かぶ。
水族館。
パフェ。
ウェディング映像。
ナイトプール。
ディナー。
煌成の声。
「自分を大事にしてほしいです」という言葉。
そして、部屋ではなく外のソファを選んでくれた優しさ。
かすみはベッドの端に腰を下ろした。
今日は友達として来た。
でも、今の気持ちは、友達という言葉だけでは少し足りない気がした。
かすみと煌成の、友達としてのデート回でした。
水族館、パフェ、ウェディング映像、ナイトプール、ディナー。
かすみは少しずつ、楽しむ側の自分を取り戻していきます。
友達として始まった一日が、かすみの中で少しずつ別の気持ちへ変わっていきます。




