第58話 マーメイドレジデンス
マーメイドウェディングの翌朝。
レイナと翔は、昨日までとは違う朝を迎える。
一方、詩乃と玲司は明け方まで仕事をしていました。
厚手のカーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいた。
レイナは、隣から聞こえる静かな寝息で目を覚ました。
水槽の青い光が、白い壁と真珠色のクッションの上でゆっくり揺れている。
すぐ隣には、翔がいた。
昨日の夜、二人は初めて同じベッドで眠った。
レイナはしばらく、翔の寝顔を見ていた。
初期エリアから、ずっと一緒にいた。
欲望区へ来てからも、気づけば隣にいるのが当たり前になっていた。
それでも、こんなふうに朝を迎えたことは一度もなかった。
胸の奥が、少し熱くなる。
レイナはそっと起き上がり、ベッドを抜け出した。
厚手のカーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに広がった。
窓の向こうには、昨夜の祝宴が行われたナイトプールが見える。
花火も音楽も消えた朝のプールは、夜とは違う静かな青をたたえていた。
「……起きてたのか」
ベッドの方から、翔の声がした。
レイナは振り返った。
「今起きたところ」
翔は体を起こし、少し寝癖のついた髪を手で直した。
「体、平気か?」
「平気」
「疲れてないか」
「疲れてるけど……嫌な疲れじゃない」
自分で言ってから、レイナは少し照れた。
翔も、何か言いかけてやめた。
部屋の中に、昨日までとは違う甘い空気が残っている。
それが少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。
「朝食、行くか」
翔が言った。
「うん。せっかくだから、ホテルの朝食食べたい」
「昨日あれだけ食べたのに?」
「昨日は結婚式の料理でしょ。今日は新婚の朝食」
レイナは言ってから、自分で少し笑った。
「新婚って言い方、慣れないね」
「でも、昨日から俺たち新婚夫婦ってことになってるんだろ」
翔が少し照れたように言った。
「ことになってる、じゃなくて……」
レイナはそこで言葉を止めた。
翔が聞き返そうとした瞬間、レイナは少し身を乗り出して、翔にキスをした。
朝の光が、開いたカーテンの向こうから部屋に差し込んでいる。
水槽の青い光が、白い壁の上でゆっくり揺れていた。
唇を離したあと、レイナは少しだけ頬を赤くした。
「ね」
翔は、何も言えずにレイナを見ていた。
レイナは、照れを隠すように笑った。
「私たち、本物の夫婦なの」
翔の表情が、ゆっくりやわらいだ。
「……そうだな」
短い返事だった。
けれど、その声は昨日までよりずっと優しかった。
「本物の夫婦だな」
レイナは、その言葉を聞いて胸の奥が温かくなった。
二人は身支度を整え、ホテルの朝食会場へ向かった。
廊下を歩く時も、昨日までとは違った。
並んで歩く距離が近い。
エレベーターを待つ間、翔が自然にレイナの荷物を持つ。
レイナも、それを当たり前のように受け入れた。
朝食会場では、スタッフがすぐに二人に気づいた。
「昨日はおめでとうございます。ぜひ、新婚の朝食シーンも撮影させていただけますか?」
レイナは一瞬だけ翔を見た。
翔は小さく肩をすくめる。
「仕事だな」
「でも、朝食食べてるだけでしょ?」
レイナは少し笑った。
「なら、いいんじゃない?」
窓際の席へ案内される。
テーブルには、焼き立てのパン、果物、海藻入りのスープ、真珠色の器に入ったヨーグルト、魚料理が並べられていく。
スタッフが少し離れたところから撮影を始めた。
けれど、レイナは不思議と嫌ではなかった。
昨日の夜、翔と夫婦になった。
そう思うと、カメラに向かって笑うことも、前より簡単だった。
翔がレイナの皿に果物を少し分ける。
「これ、好きそうだな」
「分かってるじゃん」
「ずっと一緒にいたからな」
何気ない一言だった。
でも、レイナには少し甘く聞こえた。
スタッフが小さく囁く。
「いいですね。自然です。すごく新婚らしいです」
レイナは照れた。
でも、否定する気にはならなかった。
その頃、別のスイートルームでは、薄手のカーテン越しに朝の光が差し込んでいた。
詩乃と玲司は、ソファで眠っていた。
テーブルの上には、端末が二台。
開きっぱなしのSNS画面。
予約数のグラフ。
レジデンス問い合わせの一覧。
夜中に飲んだコーヒーのカップ。
明け方まで仕事をしていた名残が、そのまま残っていた。
詩乃が先に体を起こした。
端末の時間を見る。
「あ、こんな時間」
隣で眠っていた玲司が、かすかに動いた。
「……朝か」
「朝よ」
詩乃はすぐに端末を手に取った。
「朝食はルームサービスで持ってきてもらいましょう」
玲司は髪をかき上げながら、少し疲れた声で言った。
「起きてすぐ仕事か」
「当然でしょ。昨日の反応は、朝のうちにもう一度拾わないと」
詩乃は画面を確認しながら続けた。
「夜の部の映像も伸びている。レイナと翔は、朝の写真をちゃんと撮っているかしら」
「朝の写真?」
「新婚の朝よ。かなり大事」
詩乃は玲司の方を見た。
「私たちも整えるわよ。ルームサービスの朝食を優雅に食べている感じで撮ってもらうの」
玲司は、まだ眠そうな顔で詩乃を見た。
「俺たちもか」
「もちろんよ。昼の部の新婚夫婦として、朝の余韻も出すの」
詩乃はもう完全に仕事の顔だった。
「昨日の式だけで終わらせたら、熱が逃げるわ。結婚式、朝食、入居、部屋紹介。全部つなげて投稿するの」
玲司は小さく息を吐いた。
「本当に、抜け目ないな」
「玲司さんもそういうところ、嫌いじゃないでしょ?」
詩乃は軽く笑った。
その笑顔は明るい。
けれど、やはり甘さはなかった。
しばらくして、ルームサービスが運ばれてきた。
銀のワゴンに並べられた朝食は、写真に撮られることまで計算されたように美しかった。
青い皿。
白いパン。
小さな海鮮サラダ。
真珠色のスープ。
果物と紅茶。
詩乃はすぐにテーブルの位置を直した。
「玲司さん、そこに座って。窓の光が入るから」
「はいはい」
「少し笑って。疲れて見えるわよ」
「明け方まで仕事してたんだから当然だろ」
「それも込みで、優雅に見せるの」
玲司は苦笑しながらも、詩乃の指示に従った。
撮影スタッフが入り、二人が朝食を囲む様子を撮る。
詩乃は自然に微笑む。
玲司も、余裕のある夫のように振る舞う。
写真の中だけなら、二人は完璧な新婚夫婦だった。
けれど、テーブルの下には、まだ昨日の仕事の資料が積まれている。
朝食を食べながら、詩乃は端末を確認した。
「レイナたち、いい写真が撮れているみたい」
玲司は画面をのぞき込んだ。
そこには、朝食会場で並んで笑うレイナと翔の写真があった。
レイナは昨日までより柔らかい顔をしている。
翔も、レイナの皿に果物を分けている。
作ったようには見えなかった。
自然だった。
詩乃は画面をスクロールしながら言う。
「やっぱり、あの二人は自然ね。昨日より距離が近い。これは使えるわ」
玲司は、画面の中の翔を見た。
翔が少し羨ましかった。
午前中、二組のカップルはマーメイドホテルの上階ラウンジで待ち合わせた。
大きな窓の向こうに、朝の光を受けた水槽がきらめいている。
先に来ていたのは、詩乃と玲司だった。
詩乃は端末を手にしたまま、今日の予定や投稿内容を確認している。
玲司は隣でコーヒーを飲んでいた。
そこへ、レイナと翔が並んで現れた。
昨日までと同じ二人のはずだった。
けれど、空気が違う。
翔が自然にレイナの歩く速度に合わせている。
レイナも、それを当たり前のように受け入れていた。
二人の間に流れているものが、昨日の式の前とは明らかに変わっている。
詩乃は端末から顔を上げ、すぐにそれに気づいた。
「……あなたたち、何だか雰囲気が変わったわね」
レイナの指先が小さく揺れた。
翔も、ほんの少しだけ視線を外した。
詩乃は二人を見比べ、あっさりと言った。
「本当に夫婦になっちゃった?」
レイナはすぐには答えなかった。
その代わり、少し照れたように翔の方を見る。
翔も、いつものように軽く流せなかった。
その反応だけで、詩乃には十分だった。
「まあ、それはそれでいいわ」
詩乃は淡々と続けた。
「その空気、かなり使えるもの。仲良くしてくれるなら宣伝にもなるし助かるわ」
玲司が苦笑する。
「詩乃らしいな」
「当然でしょ」
詩乃はすぐに言った。
「ただし、外では夫婦喧嘩しないでね。誰が見ているか分からないから」
レイナは少し照れを隠すように、髪を耳にかけた。
「分かってるわ」
詩乃はそこで端末を操作し、話題を切り替えた。
「今日はいよいよマーメイドレジデンスの入居日よ」
「生活感のある自然なカットが欲しいの。自分たちでも写真は撮るけれど、今日はプロのカメラマンも入れるわ」
翔が聞き返す。
「自然なカットって、どんな感じですか?」
「新婚らしく見える日常の場面よ」
詩乃は迷いなく答えた。
「ソファでくつろぐところ。並んで飲み物を飲むところ。窓際で話すところ。朝食を囲むところ。そういう、暮らしている感じの写真がほしいの」
「なるほど……」
「撮ったものは、そのまますぐ投稿するつもりよ」
詩乃はレイナと翔を見た。
「だから、そのつもりでいて」
レイナは少し背筋を伸ばした。
「分かったわ」
「俺たちも撮るのか?」
玲司が聞くと、詩乃は当然のようにうなずいた。
「もちろんよ。昼の部の新婚夫婦として、私たちも動くわ」
玲司は肩をすくめた。
「結婚式の次の日も忙しいな」
「仕事は早い方がいいの」
詩乃はきっぱりと言った。
玲司は、レイナと翔を見ていた。
作った夫婦には見えなかった。
朝食の写真で見た時もそうだったが、実際に目の前で見るともっと分かる。
二人の間には、撮影用の距離ではないものがあった。
玲司は、自分の隣にいる詩乃を思った。
詩乃とは、ずっとビジネスパートナーだった。
欲望区で上に行くために手を組んだ相手。
損得も、数字も、企画も、同じ方向を見て進んできた相手。
それは悪くなかった。
むしろ、心地よかった。
けれど、ずっとそれだけだった。
ビジネス婚までして、夫婦として祝福されても、二人の間にある線は越えられなかった。
新婚の夜ぐらいは、詩乃とその線を越えてみたかった。
仕事仲間ではなく。
広告用の夫婦でもなく。
本当に、夫婦として。
けれど、詩乃の視線はいつも数字や仕事の先へ向いている。
翔の隣にいるレイナは、ちゃんと翔を恋する目で見ていた。
その違いが、玲司にはまぶしく見えた。
「じゃあ、行きましょう」
詩乃が立ち上がる。
「マーメイドレジデンスでの新婚生活、今日から本格的に始めるわよ」
マーメイドレジデンスは、ホテルの隣に建つ高層棟だった。
外観は白と青を基調にしていて、上層階ほど大きな水槽やガラス張りのテラスが目立つ。
入口には、昨日の結婚式の映像が流れていた。
詩乃と玲司の昼の部。
レイナと翔の夜の部。
その映像の横には、すでに新しい宣伝文が表示されていた。
――マーメイドエリアで始まる新婚生活。
――水族館とナイトプールを日常に。
――恋が叶った二人の、次の暮らしへ。
レイナはその文字を見て、少しだけ笑った。
「すごいね。もう出てる」
「昨日のうちに用意していたのよ」
詩乃は当然のように言った。
「話題になった瞬間に出さないと意味がないもの」
レジデンスの中へ入ると、ロビーは水族館のようだった。
壁一面の水槽。
白い大理石の床。
青い照明。
真珠色のソファ。
生活する場所というより、ショールームのように整えられている。
案内係が二組を迎えた。
「本日はご入居おめでとうございます」
その言葉にも、カメラが向けられていた。
まず案内されたのは、レイナと翔の部屋だった。
扉が開くと、レイナは息を止めた。
広いリビング。
水槽の光が揺れる壁。
ナイトプールを見下ろせる窓。
白と青で統一された家具。
大きなソファ。
奥には、真珠色のクッションが並ぶ寝室。
「うわ……」
レイナは小さく声を漏らした。
「本当にここに住めるの?」
翔も部屋を見回しながら言った。
「すごいな」
カメラマンが声をかける。
「では、お二人でソファに座っていただけますか。自然に話している感じでお願いします」
レイナと翔はソファに並んで座った。
以前とは違い、今日は演じようとしなくても自然に夫婦らしく見えた。
翔がレイナの肩に手を回す。
レイナも、少し照れながらそのまま寄り添う。
カメラマンがすぐに反応した。
「いいですね。そのままで」
詩乃は端末を見ながら、満足そうに言った。
「本当に自然に撮れるわ」
次は窓際。
翔がレイナに飲み物を渡す。
レイナが笑って受け取る。
二人で外のナイトプールを見下ろす。
それだけで、絵になった。
カメラマンが何度もシャッターを切る。
詩乃は端末を見ながら、満足そうに頷いた。
「いいわ。やっぱり自然に撮れる」
続いて、詩乃と玲司の部屋も撮影された。
こちらはレイナたちの部屋より、さらにショールームとして整えられていた。
大きなリビング。
撮影用に整えられた夫婦の寝室。
水槽の光が揺れる窓辺。
白と銀の家具。
端末で操作できる照明。
詩乃は部屋に入るなり、すぐに撮影ポイントを確認した。
「ソファはここから撮ると広く見えるわね。寝室は扉を少し開けて、水槽の光を入れましょう」
玲司は、そんな詩乃を見ていた。
レイナと翔の部屋では、二人の空気が写真になっていた。
でも、ここでは詩乃が写真を作っている。
それも才能だと思う。
けれど、玲司の胸には、やはり小さな物足りなさが残った。
撮影は夕方まで続いた。
レイナと翔は、部屋でくつろぐ様子、キッチンで飲み物を用意する様子、窓辺で寄り添う様子を撮られた。
詩乃と玲司は、朝食風のテーブル、仕事をしながら並ぶ姿、夫婦の寝室の前で微笑む姿を撮られた。
それぞれの写真は、すぐに編集され、投稿された。
――昼の部の新婚夫婦、詩乃&玲司。
――夜の部の新婚夫婦、レイナ&翔。
――マーメイドレジデンスで始まる、憧れの新婚生活。
コメントはすぐに伸びた。
――ここ住みたい。
――水族館みたいな家すごい。
――レイナと翔、本当に仲良さそう。
――詩乃と玲司は上品で憧れる。
――マーメイドレジデンス気になる。
詩乃は端末を見ながら、満足そうに頷いた。
「いいわ。初日の反応としてはかなりいい」
夜。
スタッフたちが帰ったあと、レイナと翔は自分たちの寝室に戻った。
大きなベッド。
水槽の光が揺れる壁。
真珠色のクッション。
窓の向こうには、夜のナイトプールが見える。
昨日まで、こんな部屋で眠る自分を想像したこともなかった。
レイナはベッドに腰を下ろし、ふっと笑った。
「ねえ、翔」
「何?」
「やっぱり、ビジネス婚って最高じゃない?」
翔も笑った。
「ああ。正直、かなりいい」
「豪華な部屋に住める。毎日マーメイドエリアを使える。翔と普通に仲良くして、それを撮ってもらうだけでお金が入る」
レイナはベッドの上で軽く足を揺らした。
「しかも、昨日から翔との距離も変わった」
翔は少し照れたように視線を外した。
「それは言うなよ」
「言うよ。だって本当だし」
レイナは、翔の隣へ寄った。
ビジネス婚という名前で始まった関係だった。
でも今のレイナには、その名前さえ悪く聞こえなかった。
この部屋で、翔と一緒に眠れることが嬉しかった。
かなり、嬉しかった。
「今日もこっちで寝るでしょ?」
翔は苦笑した。
「もうソファって言ったら怒られそうだな」
「怒るかも」
「じゃあ、今日は最初からこっちで寝る」
翔が隣に座ると、水槽の青い光が二人の足元に揺れた。
レイナは翔の肩に少しだけ寄りかかる。
昨日よりも、ずっと自然に。
一方、詩乃と玲司の部屋では、まだ端末の光がついていた。
投稿の反応。
予約数。
マーメイドレジデンスの問い合わせ。
今日撮影した写真の分析。
詩乃は、夕食後もずっと数字を追っていた。
玲司は、少し離れた場所でその様子を見ていた。
今日一日、レイナと翔は本当に楽しそうだった。
ビジネス婚から始まったはずなのに、いつの間にか本物の夫婦のようになっている。
翔が羨ましかった。
玲司も、詩乃とそうなりたかった。
仕事仲間としてではなく。
広告用の夫婦としてでもなく。
本当に、夫婦として。
玲司の端末が、小さく震えた。
画面に、広告のような表示が浮かぶ。
――相手の心を買ってみませんか?
――相手がその気になる権利、販売中。
玲司は、しばらくその文字を見つめた。
欲望区らしい商品だった。
心も、気持ちも、恋も、買えるものとして並べられる。
少し前の玲司なら、笑っていたかもしれない。
使えるものは使えばいい。
欲しいものは、買えばいい。
この世界では、それが早い。
けれど、今は違った。
詩乃の心を、そんなもので動かしたいわけではなかった。
それに、こういう商品には必ず落とし穴がある。
相手がその気になる。
けれど、それが本心とは限らない。
買った心は、いつか代償を求める。
玲司は、表示を消した。
「……違うんだよ」
小さく呟く。
詩乃に振り向いてほしい。
でも、端末の商品で手に入れたいわけじゃない。
仕事でも、契約でも、広告でもなく。
自然に。
自分の力で。
詩乃が自分を見てくれる日が来てほしかった。
「詩乃」
「何?」
詩乃は端末から顔を上げた。
玲司は少しだけ迷ってから言った。
「俺たちも、翔たちみたいに本物の夫婦にならないか?」
詩乃の指が、画面の上で止まった。
けれど、驚いたというより、仕事の予定に予想外の項目が入った時のような反応だった。
「いつかね」
詩乃は短く言った。
「いつか、か」
「今はそれどころじゃないのよ」
詩乃は端末を置き、玲司を見る。
「子供でもできてごらん。動けなくなるでしょ?」
玲司は言葉に詰まった。
詩乃は続けた。
「今はとにかく、この仕事を成功させたいの。マーメイドエリアを広げて、もっと上に行きたい」
その声は、迷いがなかった。
「玲司さんも、そうでしょ?」
玲司はすぐには答えられなかった。
少し前なら、迷わずうなずけたはずだった。
金。
地位。
欲望区で上に行くこと。
それが二人の共通の目的だった。
けれど今夜だけは、違うものが少しだけ欲しくなってしまった。
「……そうだな」
玲司は、ようやくそう答えた。
詩乃は満足したように端末へ視線を戻す。
「なら、今は仕事よ」
玲司は、詩乃の横顔を見つめた。
綺麗だった。
今日も、昨日も、祭壇の前でも。
けれど、その綺麗さは玲司のものにはならない。
少なくとも、今は。
しばらくして、詩乃は端末を閉じた。
「今日は疲れたから、ゲストルームで寝るわ」
玲司は顔を上げた。
「ゲストルーム?」
「ええ。明日も早いし、ちゃんと眠っておきたいの」
部屋の奥には、撮影用に整えられた夫婦の寝室があった。
白と青で統一された大きなベッド。
真珠色のクッション。
水槽の光が揺れる、完璧な新婚夫婦の部屋。
写真に撮れば、誰もが憧れる暮らしに見える。
けれど、そこはあくまで見せるための部屋だった。
詩乃は迷うことなく、隣のゲストルームへ向かう。
「玲司さんも、早く休んでね」
扉が閉まる。
玲司は、しばらくその扉を見ていた。
同じレジデンスのどこかで、レイナと翔は本物の夫婦として同じ夜を過ごしている。
けれど、自分たちの部屋には、撮影用の寝室だけが残された。
水槽の青い光が、大きなベッドの上で静かに揺れていた。
マーメイドウェディング翌朝の回でした。
レイナと翔は、ビジネス婚から本物の夫婦へ近づいていきます。
一方で、詩乃と玲司は同じ夫婦でも、仕事と宣伝の中にいます。
マーメイドレジデンスで始まる新婚生活が、二組に違う変化をもたらしていきます。




