第57話 マーメイドウェディング
マーメイドエリアで、二組の結婚式が行われる。
昼の部は、詩乃と玲司。
夜の部は、レイナと翔。
どちらもビジネス婚でした。
マーメイドホテルの一角には、いくつものチャペルがあった。
白い砂浜を敷きつめた屋外チャペル。
水槽の上にガラスのバージンロードが伸びるチャペル。
夜の海を光で映し出す、ナイトプール横のチャペル。
どれも普通の教会とは違っていた。
恋を叶える場所。
運命の出会いを形にする場所。
結婚まで一気に進める場所。
そう見えるように、すべてが計算されている。
マーメイドエリアのジューンブライド企画。
その最初の大きな広告塔として、昼の部には詩乃と玲司の結婚式が用意されていた。
チャペルの扉が開くと、そこには海の底に建てられた宮殿のような空間が広がっていた。
白銀の柱が高く伸び、天井からは真珠の飾りと透明なクリスタルが幾重にも垂れている。
壁一面には青いステンドグラスと大きな水槽が重なり、太陽の光が水の中を通って、床や階段に揺れる模様を落としていた。
水槽の向こうでは、魚たちがゆっくり泳いでいる。
淡い青。
白。
銀。
真珠の光。
会場全体が、海の中に沈んだ白い聖堂のようだった。
祭壇へ続く階段の両脇には、大きな貝殻をかたどった装飾が置かれ、白い薔薇と淡いブルーの花があふれるように飾られていた。
キャンドルの光も、水槽から差す青い光に混ざり、昼なのに星のようにきらめいている。
招待客の席には、上級客や関係者、撮影スタッフ、マーメイドエリアの宣伝担当者が並んでいた。
久美子も、工房の先輩と一緒に会場の端に立っていた。
自分たちが手がけた衣装が、今日この場所で使われる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
詩乃のドレスは、そのチャペルのために作られたような一着だった。
白を基調にしながら、裾へ向かうほど淡い水色が重なっていくマーメイドドレス。
胸元や腰には真珠と銀糸の刺繍が細かく入り、歩くたびに、鱗のようなレースとビーズが光を拾った。
長いベールは水の膜のように薄く、背中からふわりと広がっている。
花嫁というより、海の宮殿に現れた人魚の女王のようだった。
玲司の新郎衣装も、チャペルの白銀の空気に合わせられていた。
白を基調にした細身の高級タキシード。
ジャケットには繊細な銀の刺繍が入り、胸元には淡いブルーのベストとサファイアを思わせるブローチが光っている。
王子服ではなく、現代的な新郎衣装。
けれど、白銀のチャペルの中では十分に特別だった。
詩乃と玲司が並ぶと、客席からため息のような声が広がった。
「綺麗……」
久美子は小さく呟いた。
自分が作ったものが、あそこまで美しく見える。
それは素直に嬉しかった。
でも、その美しさが何のために使われているのかを考えると、胸の奥が少しざわつく。
これは、ただの結婚式ではない。
マーメイドエリアを売るための結婚式だ。
詩乃は、祭壇の前で玲司と向かい合った。
微笑みは完璧だった。
指先の動きも、ドレスの裾の見せ方も、視線の向け方も、すべてが美しく整えられている。
玲司もまた、余裕のある新郎として振る舞っていた。
誓いの言葉が読み上げられる。
水槽の光が、二人の足元に揺れていた。
指輪が交わされる。
拍手が起こる。
カメラの光が、静かにいくつも瞬いた。
誓いのキスの瞬間、天井から落ちる水色の光が、ちょうど二人の上に広がった。
会場全体に、青と白のきらめきが満ちる。
まるで海そのものが二人を祝福しているような演出だった。
招待客が拍手をする。
撮影スタッフが、決められた角度から映像を残す。
宣伝担当者が、すぐに端末で配信用の確認を始める。
詩乃と玲司は、幸せそうな夫婦として拍手を受けた。
その後、披露宴は水槽の近くにある上品な会場で行われた。
テーブルには白と青の花。
グラスのそばには、真珠を思わせる小さな飾り。
壁の水槽では、魚たちが静かに泳いでいる。
料理は、海を思わせる海鮮料理のフルコースだった。
貝殻の形の皿に盛られた前菜。
透き通るソースが添えられた白身魚。
海藻を使った鮮やかなスープ。
真珠色の器に入った小さなデザート。
どれも美しく、写真に残したくなるように作られている。
ウェディングケーキも、昼の部に合わせた上品なデザインだった。
白を基調に、淡いブルーのグラデーション。
波を思わせるクリームの線。
真珠や小さな貝殻を思わせる飾り。
爽やかな海の祝宴。
そう呼ぶのにふさわしい披露宴だった。
詩乃は、どの席に向かっても完璧に微笑んだ。
玲司は、隣で余裕のある夫のように振る舞った。
二人は、どこから見ても理想の新婚夫婦だった。
昼の部が終わると、詩乃と玲司はホテルのスイートルームへ戻った。
大きな窓からは、マーメイドエリアの水槽とチャペルの屋根が見える。
詩乃はまだウェディングドレスのまま、端末を開いた。
「もう投稿が回り始めてる」
画面には、さっきのチャペルの映像が次々と流れていた。
水槽の光。
誓いのキス。
上品な海鮮料理。
爽やかなウェディングケーキ。
コメント欄には、憧れの言葉が並んでいる。
――こんな結婚式したい。
――マーメイドエリアで結婚したら幸せになれそう。
――昼のチャペル綺麗すぎる。
――レジデンスも気になる。
詩乃は満足そうに画面をスクロールした。
「昼の部は成功ね。予約ページへの流入も増えている」
玲司はソファに腰を下ろし、詩乃を見ていた。
今日の詩乃は、確かに綺麗だった。
仕事だと分かっている。
広告だと分かっている。
結婚も、演出の一部だと分かっている。
それでも、祭壇の前で隣に立った時、ほんの一瞬だけ、本当に自分の妻のように見えた。
玲司は立ち上がり、詩乃の後ろへ回った。
そして、そっと後ろから抱き寄せる。
「今日ぐらい、少し休んだらどうだ?」
詩乃の指が、端末の上で止まった。
「玲司さん?」
「仕事なら、明日でも良くないか」
玲司は、少しだけ声を落とした。
「せっかく夫婦になったんだ。今日ぐらい、夫婦らしく過ごしてもいいだろ」
詩乃は一瞬だけ黙った。
けれど、すぐに玲司の手に自分の手を添えた。
甘えるためではない。
その手を、静かに外すためだった。
「だめよ」
詩乃は玲司の腕から抜けて、端末を持ち直した。
「あなたも分かっているでしょ? 仕事はスピードが命なのよ」
玲司は、外された手を見た。
「……仕事、か」
「そう」
詩乃は端末の画面を玲司に見せた。
「今、昼の部の映像が回っている。今、予約に流す。今、レジデンスの問い合わせにつなげる。明日になったら、熱は少し冷めるわ」
詩乃の声は、花嫁のものではなかった。
商売人の声だった。
「夕方はレイナと翔の結婚式よ。あちらも成功させなきゃ」
玲司は、花嫁姿の詩乃を見つめた。
近くにいる。
同じ部屋にいる。
さっきまで夫婦として祝福されていた。
それなのに、詩乃の心はもう次の仕事へ向いている。
「本当に、仕事熱心だな」
玲司が言うと、詩乃は少しだけ笑った。
「玲司さんも同じでしょう?」
その笑みは美しかった。
けれど、玲司に向けられた甘さではなかった。
玲司はそれに気づいて、胸の奥が少しだけ重くなった。
その頃、レイナと翔は、昼の部の招待客席にいた。
詩乃と玲司の式を、最初から最後まで見ていた。
レイナは、白銀のチャペルで微笑む詩乃を見つめていた。
すごい。
悔しいほど、綺麗だった。
ただ綺麗なだけではない。
会場の見せ方も、視線の配り方も、映像に残る角度も、全部分かっている。
詩乃は、花嫁を演じている。
でも、その演技が完璧すぎて、外から見れば本当に幸せな花嫁にしか見えない。
玲司も同じだった。
何もかも、広告として完成している。
「……私たちも、あれをやるのね」
レイナが小さく言うと、翔は隣で息を吐いた。
「ここまでやるなら、失敗できないな」
「ええ」
レイナは、膝の上で指を重ねた。
「私たちも頑張りましょう」
そう言いながら、胸の奥に小さな緊張が生まれていた。
これは仕事だ。
そう分かっている。
けれど、あのチャペルで祝福される姿を見てしまうと、ただの仕事だと割り切るのが少し難しくなる。
夕方。
マーメイドエリアの空気は、昼とはまるで違っていた。
夜の部の会場は、マーメイドホテルのナイトプールサイドだった。
深い青に光る水面。
足元に揺れる無数の灯り。
南国の木々に飾られたイルミネーション。
見上げれば、星を散りばめたような夜空が広がっている。
プールを囲むように白い花々とキャンドルが並べられ、ホテルのテラスには招待客たちの姿が見えた。
遠くの壁には、夜の海を思わせるプロジェクションマッピングが広がっていた。
魚の群れ。
泡。
珊瑚。
深い海の青。
映像がゆっくり動くたび、会場全体が海の底の祝宴のように変わっていく。
小さなドローンが空へ上がり、光の粒で貝殻や波の形を描いていた。
レイナと翔の夜の部は、昼とは違う華やかさに包まれていた。
レイナのウェディングドレスは、夜の光の中でひときわ強い存在感を放っていた。
白というより、銀と淡いラベンダーを溶かし込んだような繊細な色合い。
体のラインを美しく見せる細身のシルエットに、胸元から裾まで細かなビジューと刺繍が贅沢に散りばめられている。
肩を出したデザインは、大人びた華やかさを引き立て、長いベールは光を受けてきらきらと揺れていた。
手にしたブーケにも真珠や貝殻を思わせる飾りがあしらわれ、マーメイドエリアらしい幻想的な雰囲気をまとっている。
翔の衣装は、黒を基調にした格式高いタキシードだった。
細身のシルエットがすっきりとしていて、胸元のベストには繊細な模様が入り、上品な光沢が夜の照明に映えている。
タイも黒でまとめられ、ジャケットには装飾的なチェーンブローチが添えられていた。
昼の式の玲司が白銀の新郎なら、翔は夜の祝宴に立つ洗練された新郎だった。
二人が並ぶと、会場の空気がさらに華やいだ。
きらめくプール。
高級リゾートの夜景。
花火。
キャンドル。
そして、黒のタキシードと、宝石のように輝く花嫁衣装。
それは、欲望区が用意した「特別な夜」をそのまま形にしたような、豪華なマーメイドウェディングだった。
レイナは翔の隣に立った。
さっきまで、これは仕事だと思っていた。
広告塔。
ビジネス婚。
マーメイドエリアを売るための演出。
そう分かっている。
でも、目の前にはナイトプールが広がり、招待客たちは笑顔で二人を見ている。
ドレスの裾が光を拾う。
翔が手を差し出す。
レイナはその手を取る。
その瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
式は、昼よりもずっと華やかだった。
誓いの言葉が終わると、上空のドローンが二人のイニシャルを描いた。
水面には、プロジェクションマッピングの波が広がる。
そして、誓いのキスの合図が入った。
レイナは、翔を見上げた。
撮影用の角度。
ライトの位置。
花火が上がるタイミング。
ドローンの動き。
全部、最初から決められていた。
これは仕事。
そう分かっていた。
けれど、翔の手がそっとレイナの腰に触れた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
近づいてくる顔。
水面に揺れる青い光。
夜空に咲く花火。
祝福の拍手。
そのすべてが重なった時、レイナは一瞬だけ忘れてしまった。
ビジネス婚だということを。
翔の唇が触れた瞬間、まるで本当に夫婦になったような気がした。
離れたあと、翔は少し照れたように笑った。
「大丈夫か?」
その声まで、やけに優しく聞こえた。
レイナは笑って返そうとした。
けれど、胸の奥がまだ熱い。
「……大丈夫」
そう答えた声は、自分でも少しだけ甘く聞こえた。
拍手が起こる。
同時に、夜空へ花火が上がった。
金色と青色の光が広がり、プールの水面がきらめく。
招待客たちが歓声を上げる。
そのまま披露宴パーティーへ移った。
夜の部は、立食形式だった。
客たちは自由に立ったり座ったりしながら、料理や酒を楽しんでいる。
シェフたちはプールサイドの調理台に立ち、海鮮や肉をその場で焼いていた。
火が上がるたびに歓声が起こり、焼き上がった料理は美しく盛り付けられて運ばれていく。
昼の部のような静かなフルコースではない。
こちらは動きがあり、音があり、見せ場がある。
まるで、結婚式そのものがひとつのショーだった。
ウェディングケーキが運ばれてくると、会場の光が少し落とされた。
高く華やかなケーキ。
青と紫の飾り。
貝殻や星のような砂糖細工。
そして、ケーキの周りに小さな花火が灯った。
レイナは息を止めた。
綺麗だった。
本当に、綺麗だった。
自分がその中心にいる。
翔が隣にいる。
演技だと分かっているのに、その事実が何度も胸を揺らしてくる。
翔は、そんなレイナを横目で見た。
「綺麗だな」
「ケーキが?」
「いや」
翔は少し言いづらそうに視線をそらした。
「……レイナが」
レイナの胸が、また熱くなった。
「なに、それ。演出?」
「違う」
翔は短く答えた。
その言い方が、やけに本気に聞こえた。
レイナは笑ってごまかそうとした。
でも、うまく笑えなかった。
レイナと翔は、初期エリアからずっと一緒に行動してきた。
仕事もした。
危ない橋も渡った。
欲望区に来てからは、金のために協力し、互いの弱さもずるさも見てきた。
それでも、二人はずっと一線を越えなかった。
近くにいるのが当たり前になりすぎて、かえって恋愛にはしなかった。
甘い言葉を交わすより、次にどう稼ぐかを話した。
手をつなぐより、損をしない方法を一緒に考えた。
欲望区にいながら、二人の間には妙な遠慮と信頼があった。
なのに今夜、その距離が少しずつ変わり始めていた。
式が終わる頃には、レイナは足元がふわふわしていた。
疲れたせいか。
ドレスのせいか。
花火のせいか。
翔の言葉のせいか。
よく分からない。
ただ、胸の奥がずっと熱かった。
夜の部の映像も、すぐに欲望区中へ流れ始めた。
――夜のマーメイドウェディング、すごすぎる。
――ナイトプールで結婚式したい。
――花火つきケーキ映えすぎ。
――レイナちゃん綺麗。
――翔さん、普通に新郎感ある。
スタッフたちは満足そうに端末を確認している。
詩乃も、離れた場所からその様子を見ていた。
「夜の部も成功ね」
玲司は、隣でレイナと翔を見る。
昼の詩乃と自分とは違う。
あの二人は、演じているうちに、本当に何かが動き始めているように見えた。
玲司は少しだけ黙った。
詩乃はそれに気づかず、端末の数字を追っていた。
「これでマーメイドウェディングは一気に広がるわ」
夜が深まった頃、レイナと翔はスイートルームへ戻った。
部屋の窓からは、ナイトプールと夜景が見える。
さっきまでの花火の余韻が、まだ外の空気に残っているようだった。
レイナはドレスのまま、ベッドの端に腰を下ろした。
「疲れたね」
「ああ。今日はさすがに疲れた」
翔はジャケットを脱ぎ、ソファの方を見た。
「俺、今日もソファで寝るわ」
その言葉に、レイナは少しだけ黙った。
いつもなら、それでよかった。
今まで通り。
変な空気にしないまま。
明日になれば、また仕事の話ができる。
でも、今夜だけは、その距離が少し寂しかった。
「翔」
「ん?」
「今日は……こっちで寝ない?」
翔の手が止まった。
「いいのか?」
レイナは笑ってみせた。
「一応、私たち夫婦でしょ?」
軽く言ったつもりだった。
でも、声は思ったよりやわらかかった。
翔はすぐには近づかなかった。
少し困ったように、けれど真剣にレイナを見る。
「仕事の延長じゃなくて?」
その一言で、レイナの胸が小さく揺れた。
演技。
宣伝。
ビジネス。
そう言えば、きっと今まで通りでいられる。
けれど、今夜はもう少しだけ違う言葉を選びたかった。
「……今日は、夫婦でいたい」
翔の表情が変わった。
レイナは視線をそらさずに続ける。
「明日になったら、また仕事の話をすると思う。SNSの反応とか、予約数とか、そういう話をすると思う」
それでも。
レイナは、小さく息を吸った。
「でも今夜だけは、翔と一緒にいたい」
翔はゆっくりレイナのそばへ来た。
急かすような動きではなかった。
隣に座り、そっと手を重ねる。
「後悔しないか?」
「分からない」
レイナは正直に答えた。
「でも、今離れたら、そっちの方が後悔する気がする」
翔は少しだけ笑った。
「じゃあ、今夜は一緒にいる」
外では、ナイトプールの光が揺れていた。
遠くで、最後の花火の音が小さく響く。
ビジネス婚として始まった一日が、少しずつ別の意味を持ち始めていた。
その夜、二人は初めて、夫婦として同じベッドで眠った。
同じ頃、別のスイートルームでは、詩乃がまだ端末を見つめていた。
結婚式の日の夜。
それでも詩乃の前には、甘い時間ではなく、数字が並んでいた。
昼の部の反応。
夜の部の拡散数。
マーメイドレジデンスへの問い合わせ。
ウェディングプランの仮予約。
数字は、夜が更けても動き続けている。
「まだやるのか」
玲司が言うと、詩乃は画面から顔を上げずに答えた。
「当然よ。結婚式は終わったけれど、仕事はここからなの」
玲司は、しばらく詩乃を見ていた。
そして、小さく息を吐いて、隣に座った。
「分かった。手伝う」
詩乃は短く笑った。
「助かるわ」
玲司は、詩乃が集めた反応を整理し、問い合わせの多い客層を分け、次に流す広告文を確認した。
窓の外では、ナイトプールの光がまだ揺れている。
同じホテルのどこかで、レイナと翔は新婚夫婦らしい夜を過ごしている。
端末の光。
予約数。
次の企画書。
明け方まで仕事は続いた。
マーメイドエリア初の結婚式回でした。
詩乃と玲司、レイナと翔。
二組ともビジネス婚として式を挙げました。
割り切って始まった結婚ですが、それぞれのカップルがこれからどうなっていくのか、楽しみにしていただけたら嬉しいです。




