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第56話 あの店は似合わない

かすみは、三宮煌成とアフターへ向かう。


連れて行かれたのは、落ち着いた高級喫茶店。


そこで煌成は、かすみの話を静かに聞きます。

マーメイドラウンジの扉が閉まると、店内の甘い声と水槽の音が背後へ遠ざかった。


外へ出ても、欲望区の夜はにぎやかだった。


通りにはネオンが揺れ、着飾った客たちの笑い声や、店の呼び込みの声が重なっている。


香水の匂い。


甘い酒の匂い。


どこかの店から流れてくる音楽。


夜の繁華街は、まだ眠る気配がなかった。


かすみは、煌成の少し後ろを歩いていた。


アフター。


自分で了承したのに、胸の奥はまだ落ち着かなかった。


客と外に出る。


会ったその日に、男女二人きりで出かける。


今までの自分なら、考えもしなかったことだった。


それなのに、かすみは今、煌成の隣を歩いている。


怖さはある。


けれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。


煌成は、かすみの歩幅に合わせて、少しゆっくり歩いていた。


「この先に、静かに話せる店があります」


煌成が言った。


「かすみさんが落ち着ける場所だと思います」


かすみは少しだけ驚いて、煌成を見た。


「そこまで考えてくださったんですか」


「はい」


煌成は当たり前のようにうなずいた。


「かすみさんに安心して話してもらいたかったので」


その言葉に、かすみの胸が少しだけゆるんだ。


誠司は、良かれと思って自分の判断で決めてしまうことがあった。


でも、煌成は先に聞いてくれる。


かすみがどう感じるかを、ちゃんと見ようとしてくれる。


そこが違った。


煌成がかすみを連れて行ったのは、欲望区の大通りから少し外れた、高級な喫茶店だった。


外観は落ち着いた白と金でまとめられ、入口には季節の花が飾られている。


店内には、アンティークの椅子や小さな丸テーブルが並び、壁には海辺の街を描いた絵や、古い洋館の庭を思わせる風景画が飾られていた。


やわらかな照明が木のテーブルを照らし、どこか懐かしさを感じさせる静かな音楽が流れている。


焼き菓子の甘い香りが、紅茶の香りと混ざっていた。


テーブル同士の間隔は広く、声を落とせば周りを気にせず話せそうだった。


「ここなら、落ち着いて話せると思いまして」


煌成は、かすみの向かい側の席に座った。


店の中でも、彼は距離を守っていた。


「素敵なお店ですね」


かすみが言うと、煌成は少しだけ嬉しそうに笑った。


「よかった。気に入ってもらえたなら」


「さっきまでいた場所とは、全然違います」


「そうですね。あちらは、夢を見せる場所です。ここは、少し落ち着いて息をする場所かもしれません」


かすみは、店内をもう一度見回した。


アンティークの家具。


懐かしい音楽。


壁に飾られた絵。


水槽の光に照らされていたさっきまでの自分が、少し遠くに感じた。


「ここのアフタヌーンティー、美味しいですよ」


煌成がメニューを開きながら言った。


「アフタヌーンティーですか?」


「はい。小さなケーキや焼き菓子が少しずつ並んでいて、見ているだけでも楽しいんです」


「三宮さん、甘党なんですか?」


思わず聞くと、煌成は少し照れたように視線を落とした。


「恥ずかしながら、甘いスイーツとか大好きなんですよ」


「少し意外です」


「よく言われます。見た目でワインや高い酒ばかり飲んでいそうに見られるんですが、実はケーキと紅茶の方が落ち着きます」


かすみは、思わず小さく笑った。


マーメイドラウンジを出てから、ずっと胸の奥に残っていた緊張が、少しだけほどけた。


「いろいろ少しずつ食べられるの、楽しそうですね」


「では、それにしましょう」


しばらくして、二人分の紅茶とアフタヌーンティーセットが運ばれてきた。


小さなかごのようなスタンドには、苺のショートケーキ、焼き菓子、果物のタルト、ひと口サイズのサンドイッチがきれいに並んでいた。


かすみは、思わず目を細めた。


「可愛い……」


「よかった。かすみさんに似合うと思ったんです」


「私に、ですか?」


「はい。派手すぎないけれど、ひとつひとつ丁寧で、優しい感じがします」


かすみは少し照れて、紅茶のカップに目を落とした。


それから、スタンドに並んだスイーツを見て、小さく首をかしげる。


「でも……全部食べられるかな」


小柄で細いかすみには、少しずつ並んでいるとはいえ、十分すぎる量に見えた。


煌成はやわらかく笑った。


「食べたいものを、少しずつ楽しめばいいんですよ」


「残しても、いいんですか?」


「もちろんです。美味しいと思える分だけで十分です」


その言い方が、かすみには優しく聞こえた。


全部こなさなくていい。


ちゃんと応えようとしすぎなくていい。


そう言われているようだった。


少しずつスイーツを食べながら、二人はしばらく他愛ない話をした。


紅茶の香り。


焼き菓子の甘さ。


この世界に来てから驚いた食材のこと。


そんな話をしているうちに、かすみの声は少しずつ自然になっていった。


やがて、煌成が紅茶のカップを置いた。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「はい」


かすみは少しだけ背筋を伸ばした。


煌成の声は穏やかだった。


「かすみさんは、薬剤師だったんですよね。今も薬局で働いていると聞きました」


「はい」


「それなら、生活に困っているわけではないと思いました」


かすみは、カップを持つ指を止めた。


煌成の視線は責めるものではなかった。


ただ、理由を知りたがっている目だった。


「どうして、あの店で働いているんですか」


かすみは、すぐには答えられなかった。


マーメイドラウンジ。


触れるコース。


奥の席。


客の視線。


さっきまで自分が座っていた場所の感触が、また少しだけ戻ってくる。


「……お金のためでは、ありません」


かすみは小さく言った。


「分かります」


煌成は静かに答えた。


「かすみさんが、ただお金のためにあの店にいるようには見えませんでした」


その言葉に、かすみの胸が少し揺れた。


「ミレナさんという人魚を、探しているんです」


煌成の表情が、少しだけ変わった。


「ミレナさん……」


「はい。竜宮城で、行方不明になった人魚がいると聞きました。その人が、マーメイドラウンジにいるかもしれないんです」


かすみは、言葉を選びながら話した。


竜宮城で聞いた行方不明の人魚のこと。


マーメイドラウンジで、客の口からミレナの名前が出たこと。


ミレナが本当にあの店にいる可能性が高いこと。


そして、自分がその手がかりを探すために、ラウンジで働き始めたこと。


煌成は途中で口を挟まなかった。


ただ、ひとつひとつを受け止めるように聞いていた。


話し終えると、煌成は少しだけ視線を落とした。


「実は、僕もミレナさんのことが気になって、あの店に行きました」


かすみは驚いて顔を上げた。


「三宮さんも、ですか」


「はい。ミッションで、人魚が欲望区に流れているかもしれないという話を聞きました。ミレナさんの名前も、その中にありました」


煌成は静かに続けた。


「だから今日は、本物の人魚を指名して、奥の席で話を聞くつもりでした」


「それなら、どうして……」


「あなたが目に入ったからです」


煌成は、まっすぐかすみを見た。


「ミレナさんを調べるためにあの店へ行きました。でも、あなたを見た瞬間、あなたのことが気になった」


かすみの胸が、小さく跳ねた。


「今こうして一緒にいるのは、調査のためだけではありません」


煌成の声は落ち着いていた。


「かすみさんと、ちゃんと話したいと思ったからです」


かすみは、何も言えなかった。


調査のために来た人。


けれど、調査だけで自分を見ているわけではない人。


その両方が、煌成の中にあるのだと分かった。


煌成は少しだけ表情を引き締めた。


「だからこそ、言わせてください」


「はい……」


「かすみさん、あの店で働くのは辞めてください」


はっきりとした言葉だった。


かすみは息を止めた。


「……でも、私はミレナさんを探すために」


「分かっています」


煌成はすぐに言った。


「あなたが遊びであの店にいるわけではないことも、誰かを助けるために無理をしていることも、分かっています」


かすみは何も言えなかった。


煌成は、少しだけ声を落とした。


「でも、だからこそ胸が痛いんです」


「胸が……」


「はい」


煌成の目は、少しも逸れなかった。


「かすみさんが、ミレナさんの調査のために、あの店で触れられる側に立っている。それを思うと、僕は苦しくなります」


かすみの指先が、カップの上で小さく震えた。


「かすみさんは、美しくて綺麗です」


煌成は、まっすぐに言った。


「でも、あの店は似合わない」


かすみは顔を上げた。


「似合わない……」


「はい。あなたの綺麗さは、誰かに値段をつけられて、触れるか触れないかで分けられる場所に置かれるものじゃない」


その言葉が、胸の奥に落ちた。


誠司さんから、聞きたかった。


そう思ってしまった。


危ないからやめてください。


そんな場所で働かなくていいです。


調査は別の方法を探しましょう。


そう言ってほしかった。


誠司はきっと、ミレナを助けることを考えていた。


調査を進めることを考えていた。


それは間違っていない。


けれど、かすみがどんな気持ちであの席に座っているのか。


客に触れられて、笑わなければならない時、どんなふうに心を固めているのか。


そこまでは、見えていなかったのかもしれない。


出会ったばかりの煌成は、そこを見てしまった。


「僕なら、別の形で調べられます」


煌成は静かに言った。


「別の形……?」


「客として、奥へ行きます。高額席でも、人魚のいる場所でも、必要なら僕が入ります」


かすみは息を止めた。


「でも、それでは三宮さんが……」


「大丈夫です。僕は、触れるために行くわけではありません」


煌成は、はっきりと言った。


「今日、あなたに触れなかったのと同じです。調査のために奥へ行っても、人魚や店員を商品として扱うつもりはありません」


かすみは、煌成を見つめた。


「僕なら、触れずに調査を進めます。奥の人魚のところまで行って、ミレナさんの手がかりを探します」


「どうして、そこまで……」


「あなたが、あの店で傷つきながら調べる必要はないと思うからです」


煌成の声は、静かだった。


「ミレナさんを助けたい気持ちは尊重します。でも、そのためにかすみさんが自分を削る必要はありません」


かすみの胸が、強く揺れた。


自分を削る。


まさに、そうだったのかもしれない。


ミレナを助けたい。


正しいことをしたい。


仲間の役に立ちたい。


その気持ちは本物だ。


けれど、そのために自分の心が少しずつすり減っていることを、かすみ自身も見ないふりをしていた。


「私……」


声が震えた。


「私は、何をしているんでしょうね」


煌成は、すぐに答えなかった。


責めるでも、慰めるでもなく、かすみが次の言葉を探すのを待っていた。


「ミレナさんを助けたいのは本当です。でも、あの店で働いていると、自分が何なのか分からなくなる時があります」


かすみはカップを見つめた。


「薬局で働いていた時は、誰かを助けるために薬を渡していました。今は、誰かを助けるために、自分が触れられる席に座っている」


唇が少し震えた。


「同じ人助けのはずなのに、全然違う」


煌成は、静かにうなずいた。


「違います」


その声は、優しかった。


「だから、戻りましょう。かすみさんが自分を失わずに人を助けられる場所へ」


かすみは、煌成を見た。


「そんな場所、あるんでしょうか」


「あります」


煌成は迷わず答えた。


「少なくとも、探すことはできます。僕も手伝います」


かすみは何も言えなかった。


胸の奥で、ずっと張りつめていたものが、少しずつほどけていく。


煌成は、かすみを急かさなかった。


答えを押しつけもしなかった。


ただ、話を聞いてくれた。


それだけで、かすみの呼吸は少しずつ楽になっていく。


しばらくして、煌成は少し姿勢を正した。


「かすみさん」


「はい」


「驚かせるかもしれません。でも、はっきり言わせてください」


かすみは、カップを持つ指を止めた。


「はい……」


煌成は、まっすぐかすみを見た。


「結婚を前提に、真剣にお付き合いしてもらえませんか」


かすみは息を止めた。


言葉の意味が、すぐには胸に届かなかった。


「結婚……ですか」


「はい」


煌成は、静かにうなずく。


「今すぐ結婚してほしいという話ではありません。出会ったばかりで、急すぎることも分かっています」


「それなら、どうして……」


「軽い気持ちで近づきたくないからです」


煌成の声は、落ち着いていた。


「あなたを店の外に誘ったのは、遊びたいからではありません。店員としてではなく、一人の女性として、きちんと向き合いたいと思ったからです」


かすみの胸が、静かに揺れた。


「僕は、あなたを大切にしたい」


その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


かすみは、何も返せなかった。


誠司さんから、聞きたかった。


いつか、そんな話をしたかった。


小さな結婚式でもいい。


豪華じゃなくてもいい。


ただ、未来の話をしてほしかった。


けれど、誠司は言わなかった。


今はまだ早い。


仕事でいっぱい。


ミッションも中途半端。


それは正しかった。


でも、かすみが欲しかったのは、正しさではなかった。


目の前の煌成は、出会ったばかりなのに、未来を見る言葉をくれた。


嬉しい。


けれど、怖い。


また誰かを信じて、また傷つくのが怖い。


「……私、まだ三宮さんのことを何も知りません」


かすみは、小さく言った。


「はい。だから、これから知ってほしいです」


煌成はすぐに答えた。


「僕も、あなたを知りたい。急がせません。でも、最初から真剣だということだけは、伝えたかったんです」


かすみは、しばらく黙っていた。


胸の奥が、まだ揺れている。


嬉しい。


けれど、怖い。


「……お友達からでも、いいですか」


かすみは、ようやくそう言った。


煌成は、少し目を見開いた。


「お友達から、ですか」


「はい。いきなりお付き合いするのは、まだ不安です。三宮さんのことを少しずつ知ってから……それでもよければ」


かすみは、言葉を選びながら続けた。


「私も、ちゃんと考えたいです」


煌成は、静かに微笑んだ。


「もちろんです」


その声には、少しの不満もなかった。


「僕は、あなたを急がせたいわけではありません。まずは友達として、かすみさんのことを知る時間をもらえたら嬉しいです」


かすみは、ほっと息をついた。


断ったわけではない。


でも、すぐに飛び込んだわけでもない。


その距離を、煌成はちゃんと受け止めてくれた。


「ありがとうございます」


かすみが言うと、煌成は首を横に振った。


「こちらこそ。友達から始められるなら、僕は十分嬉しいです」


その言葉に、かすみの胸が少し温かくなった。


煌成は、少し考えるように視線を落とした。


「では今度、お友達として、新しくオープンしたマーメイドエリアに行ってみませんか」


「マーメイドエリアへ……?」


「はい。水族館やナイトプール、ディナーも楽しめます。もちろん、無理に全部回る必要はありません。かすみさんが疲れたら、途中で休みましょう」


「でも、ホテルもあるんですよね」


かすみの声に、少し不安が混じった。


煌成はすぐにうなずいた。


「部屋は別々に二部屋取ります」


かすみは顔を上げた。


「二部屋……」


「はい。付き合うまでは、きちんと分けます。友達として行くのなら、かすみさんが安心できる形にします」


その言葉に、かすみはまた胸を揺らされた。


「そこまで……考えてくださるんですね」


「当然です」


煌成は穏やかに言った。


「かすみさんが安心できないなら、それはデートではありません。ただの押しつけです」


その返事に、かすみは少しだけ肩の力が抜けた。


「三宮さんと話していると、不思議と落ち着きます」


かすみが小さく言うと、煌成はやわらかく笑った。


「そう思ってもらえるなら、嬉しいです」


その笑顔を見ていると、胸の奥にあった緊張が少しずつ薄れていく気がした。


「……それなら、行ってみたいです」


かすみは言った。


「お友達として」


「はい。お友達として」


煌成は嬉しそうに頷いた。


窓の向こうで、通りの灯りがゆっくり揺れていた。


マーメイドラウンジを出た時の不安は、まだ完全に消えたわけではない。


ミレナのこと。


誠司のこと。


自分のこれからのこと。


考えなければならないことは、たくさんある。


けれど、少なくとも今は。


自分を急かさず、触れず、待ってくれる人が目の前にいる。


かすみはカップを両手で包んだ。


紅茶の温かさが、指先から胸の奥へゆっくり広がっていった。

かすみと煌成のアフター回でした。


「あの店は似合わない」


その言葉は、かすみの中に静かに残っていきます。

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