第46話 プレオープンの夜
マーメイドエリアのプレオープンの夜。
レイナと翔、玲司と詩乃は、恋愛パワースポットの噂を広げるため、二組のカップルとして特別演出に参加します。
マーメイドエリアのプレオープンは、日が落ちてから始まった。
欲望区の一角に、海の色をした光が広がっている。
水族館。
ナイトプール。
ホテル。
レストラン。
バー。
どこも正式オープン前とは思えないほど整えられていた。
招待されたのは、関係者と上級客、それに情報を広げる力を持つ客たちだった。
高そうな服を着た男女が、スタッフに案内されながら水槽の前を歩いている。
写真を撮る者。
展示を眺める者。
隣の相手と小声で感想を交わす者。
会場全体が、すでに宣伝の舞台になっていた。
レイナは、水族館エリアの控え室で衣装を整えていた。
淡い水色のマーメイド風ワンピース。
真珠を使った髪飾り。
足元は細いヒール。
今までの黒や赤の衣装とはまるで違う。
鏡の中の自分は、マーメイドエリアに合わせて作られた別人のようだった。
「似合ってるじゃないか」
翔が言った。
翔も、白と紺を基調にした上品なジャケット姿だった。
レイナは少し笑った。
「翔も意外と似合ってる」
「意外は余計だ」
そこへスタッフが近づいてくる。
「お二人は、最初から手をつないで移動してください。水槽前では自然に距離を縮めてくださいね」
レイナと翔は一瞬だけ顔を見合わせた。
普段、手をつなぐことなどない。
けれど今日は、それも仕事だった。
「行くか」
翔が手を差し出す。
「うん」
レイナはその手を取った。
水族館エリアに出ると、すぐに視線が集まった。
巨大な水槽の中を、銀色の魚が群れで泳いでいる。
壁には青い光が揺れ、床にも水の影が映っていた。
「きれい……」
レイナの声は、少しだけ本音だった。
翔は手をつないだまま、水槽を見上げる。
「本当に海の中みたいだな」
二人が並んで歩くと、近くの客が小声で話し始めた。
「あのカップル、素敵ね」
「絵になるわ」
レイナは、少しだけ翔の腕に寄った。
水槽の一番大きな場所で、スタッフが合図をした。
レイナは翔を見上げる。
翔も、ぎこちなく笑った。
そして二人は、水槽の光を背に短くキスをした。
客たちが息をのむ。
すぐにカメラのシャッター音が続いた。
レイナは、翔から少し離れた。
頬が熱い。
演出だと分かっていても、見られると緊張する。
少し離れた場所では、玲司と詩乃が水槽の前を歩いていた。
玲司は自然に詩乃の腰に手を回している。
詩乃もそれを嫌がらず、余裕のある笑みを浮かべていた。
二人が近づくと、上級客たちが自然に道を開ける。
「詩乃さん、そのドレス素敵ですね」
「ありがとう。今夜の水槽に合うように選んでもらったの」
詩乃はそう言って、玲司の方へ少し身を寄せた。
玲司は慣れた様子で、詩乃の腰に置いた手をそのままにしている。
水族館を抜けると、ナイトプールへ移動する時間になった。
レイナは一度控え室へ戻り、衣装を替えた。
真珠色のマーメイド風水着。
その上に、透け感のあるリゾートドレス。
歩くたびに薄い布が揺れ、水辺の光をやわらかく拾う。
「一晩で何回着替えるのよ」
レイナがつぶやくと、スタッフは笑顔で答えた。
「場面ごとに夢を変えるためです」
その言葉に、レイナは少し黙った。
自分も今、その夢の一部だった。
ナイトプールには、青と真珠色の光が落ちていた。
プールの横には巨大水槽があり、魚たちがガラスの向こうを泳いでいる。
魚と一緒に泳ぐわけではない。
それでも写真では、海の中にいるように見える。
レイナと翔は、プールサイドの特別席へ案内された。
翔が自然に椅子を引くと、周囲の客が感心したように見ている。
「優しい彼氏って感じ」
「こういう席、憧れる」
レイナは座りながら、翔を見上げた。
「ありがとう」
翔は少しだけ笑って、何も言わずに向かいの席へ座った。
その沈黙さえ、周囲には落ち着いた空気に見えていた。
その頃、玲司と詩乃はプール横の休憩スペースにいた。
玲司は詩乃の腰を抱き寄せ、二人で夜のプールを見ている。
やがて、詩乃が何かをささやき、玲司が笑った。
次の瞬間、二人は自然にキスをした。
水面の光が二人の横顔を照らす。
その光景も、近くにいた撮影係にしっかり収められていた。
客たちがざわめく。
「今日、すごくない?」
「どこを撮っても絵になるわ」
「ここ、カップルで来たら楽しそう」
ナイトプールの照明が落ちた。
特設ステージに、一人の女性が現れる。
銀色のマーメイド衣装をまとった、人間のマーメイド店員だった。
マーメイドラウンジで一番歌がうまいと噂される歌姫らしい。
彼女が歌い始めると、会場の空気が変わった。
建物の壁に、海底神殿のような映像が映し出される。
プロジェクションマッピングで、水面の光が天井まで広がった。
夜空にはドローンが浮かび、魚の群れ、人魚の尾びれ、二つの指輪の形を作っていく。
最後に、花火が上がった。
青。
白。
真珠色。
欲望区の夜空に、海の泡のような光が散った。
客たちは一斉にスマホを向ける。
歌が終わると、司会者が笑顔で言った。
「今夜は、人間のマーメイドによる特別ステージをお楽しみいただきました。本物の人魚に会いたい方は、ぜひマーメイドラウンジへ」
その言葉で、客たちの興味がまた動く。
「本物の人魚もいるの?」
「ラウンジにも行ってみたい」
「今日だけじゃ足りないね」
レイナは、その反応を見ながらグラスを置いた。
ここは、満足させて終わる場所ではない。
次の欲望へ進ませる場所だ。
そう思うと、少し怖かった。
けれど、目の前の景色は悔しいほど美しい。
次はディナーだった。
レイナはまた衣装を替える。
今度は、深い海色のドレスだった。
肩のラインは出ているが、派手すぎない。
裾には波のような刺繍が入り、歩くたびに細かな光を返した。
翔も、ディナー用のジャケットに替えている。
レストランは、水槽に囲まれた海底の食堂のようだった。
真珠のような照明。
貝殻型の皿。
淡い青のグラス。
料理も、写真に撮られることを意識したものばかりだった。
レイナと翔は窓際の席へ案内された。
青い前菜。
白いソースをかけた魚料理。
海藻を使った冷たいスープ。
デザートには、真珠のような丸い菓子が添えられていた。
レイナは、料理を見てからスマホを手に取った。
翔も自然に角度を調整する。
二人で並べた皿を撮る姿まで、離れた場所から撮影されていた。
少し離れた席では、玲司と詩乃が上級客と会話している。
「水族館、ナイトプール、ディナー、バーまで全部つながっているのね」
客の女性が言った。
詩乃は微笑んだ。
「迷わなくていいの。ここに来れば、特別な夜が完成するわ」
「彼に連れてきてもらいたい」
「その時は、きっと忘れられない夜になるわ」
客たちは笑った。
けれど、その目は本気で興味を持っていた。
ディナーの後、最後の舞台へ移動する。
マーメイドホテル最上階のバーだった。
バーの奥には、水槽を背にした特別席が用意されている。
レイナと翔が席につくと、照明が少し落ちた。
スタッフが、青い薔薇の花束を運んでくる。
続いて、貝殻型のリングケース。
真珠色の封筒に入ったメッセージカード。
すべてが、完璧なタイミングだった。
翔はカードを開いた。
そこには短い言葉が書かれている。
「この青い夜を、二人の始まりに」
翔は、用意された言葉を読み上げた。
低い声が、水槽の光の中に落ちる。
レイナは驚いた顔をした。
これも打ち合わせ通り。
それでも、周囲の視線を浴びると胸が高鳴った。
翔がリングケースを開く。
水色の石がついた指輪が光っている。
「レイナ」
翔は立ち上がった。
「結婚してください」
一瞬、バーの音が遠のいた。
レイナは花束を抱えたまま、翔を見つめる。
「はい」
その一言で、拍手が起こった。
スタッフがシャンパンを運び、撮影係が祝福の瞬間を記録する。
客たちが口々に言った。
「素敵……!」
「プレオープンでプロポーズなんて」
「ここ、絶対話題になるわ」
その熱が冷めないうちに、今度は玲司が動いた。
白い花束。
真珠色の小箱。
玲司は詩乃の前に立ち、静かに言った。
「この先も、お前と同じ景色を見るのは悪くない」
詩乃は少しだけ目を見開き、それからやわらかく笑った。
「ええ。喜んで」
二度目の拍手は、さらに大きかった。
「今日だけで二組?」
「すごい、スピード婚じゃない」
「ここでデートしたら結婚まで行くかも」
バーのスタッフが、客の質問に笑顔で答えていた。
「プロポーズ演出は当日対応も可能です。宝石店、花屋、ドレスショップは二十四時間営業しております。メッセージカードも、宝石と花束どちらにもお付けできます」
客たちの目が輝く。
「そこまでできるの?」
「彼に教えなきゃ」
「次は絶対ここに来たい」
玲司と詩乃は、視線だけで小さく合図を交わした。
演出は成功していた。
けれど、夜はまだ終わらない。
プロポーズの後、二組はそれぞれスイートルームへ案内された。
レイナと翔の部屋には、シャンパンとフルーツが用意されていた。
大きな窓の外には、ナイトプールの光が見える。
テーブルの上には花束。
ベッドには白い布。
ジャグジーバスには花びらが浮かんでいた。
撮影スタッフが入ってきて、二人を窓辺に立たせる。
シャンパンを持つ写真。
ソファで距離を近づける写真。
花束を抱えて笑う写真。
ベッドのそばで見つめ合う写真。
最後は、花びらを浮かべたジャグジーバスの前だった。
レイナと翔は白いガウンを着て、ジャグジーバスのふちに並んで座る。
湯気と花びらに包まれたその光景は、甘い夜の続きを思わせた。
撮影スタッフは、その距離感を何枚も写真に収めていく。
「はい、以上です。お疲れさまでした」
スタッフが機材をまとめ、部屋を出ていく。
扉が閉まると、部屋は急に静かになった。
レイナは大きく息を吐いた。
「あー……終わったね」
翔もネクタイをゆるめる。
「疲れたな」
「やっと自由になれた」
レイナがベッドの方を見ると、翔はソファを指さした。
「レイナ、そこのベッドで寝ていいよ。俺はソファでいい」
「いいの?」
「今日はずっと演技だったからな。最後くらい気を遣わなくていい」
レイナは少し笑った。
「じゃあ、遠慮なく」
一方、別のスイートルームでは、玲司と詩乃がまだ起きていた。
花束も、指輪も、シャンパンも、撮影用に整えられたまま残っている。
けれど二人が見ていたのは、夜景ではなかった。
端末に流れてくる投稿数。
写真の拡散状況。
上級客の反応。
予約問い合わせの増加。
詩乃は画面を見ながら、満足そうに笑った。
「今日のプレオープン、成功したわね」
玲司も口元を上げる。
「ああ。二組の婚約、スピード婚、恋愛パワースポット。全部きれいに広がりそうだ」
「ここからが本番よ。どうこの良さを広めていくかで、マーメイドエリアの価値が決まるわ」
「水族館、ナイトプール、ホテル、バー、宝石店、花屋、ドレスショップ、ウェディング、レジデンス。全部つなげて売る」
詩乃は楽しそうにうなずいた。
「恋が進む場所としてね」
その夜、玲司と詩乃は遅くまで眠らなかった。
二人は恋人としてではなく、これから生まれる利益の話で、夜更けまで盛り上がっていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、マーメイドエリアのプレオープンの夜でした。
二組のカップル演出から、恋愛パワースポットとしての噂が広がり始めます。




