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第45話 結婚という契約

レイナと翔は、玲司と詩乃からビジネス婚を持ちかけられます。


それは恋愛ではなく、欲望区で上へ行くための契約でした。

沈黙が落ちた。


レイナは、壁に映るマーメイドエリアの宣伝映像を見ていた。


水族館。


ナイトプール。


ホテル。


チャペル。


レジデンス。


どれも美しく、どれも高そうで、どれも欲望区らしい。


翔も黙っていた。


玲司と詩乃は、急かさなかった。


答えが出るまで待つというより、二人が断らないことを分かっているようだった。


先に口を開いたのは、レイナだった。


「……どうする?」


翔は少しだけ視線を動かした。


「レイナは?」


「私は……悪くないと思ってる」


自分で言ってから、レイナは少し驚いた。


もっと迷うと思っていた。


結婚。


偽装とはいえ、簡単な言葉ではない。


けれど、心のどこかではもう答えが出ていた。


「私、彼氏いないし」


レイナは小さく笑った。


「翔のこと、嫌いじゃないし」


翔は少しだけ目を細めた。


「俺も、好きな女はいない」


「じゃあ、問題ないじゃん」


「軽いな」


「重く考えたら無理でしょ」


レイナは肩をすくめた。


「詩乃さんが言ったみたいに、女優と俳優だと思えばいいんじゃない? 映画のヒロインと相手役。そういう仕事だって思えば、できそう」


詩乃は満足そうに微笑んだ。


「その考え方でいいわ」


玲司も笑う。


「客が見たいのは真実じゃない。物語だ」


翔は一度だけ、玲司を見た。


それからレイナに視線を戻す。


「俺も、ありだと思う」


「本当に?」


「ああ」


翔の声は落ち着いていた。


「正直、あの闇の仕事に戻るよりはいい」


その言葉で、レイナの表情が少し変わった。


荷物運び。


遺品整理。


戦闘で亡くなった人の後始末。


欲望区で下にいる者が回される仕事には、見たくないものが多すぎた。


思い出したくない匂いも、空気も、顔もあった。


「あれは嫌」


レイナは短く言った。


「もう戻りたくない」


「俺もだ」


翔はうなずいた。


「だったら、こっちに行くしかない」


「マーメイドクラブの勧誘も、ラウンジの仕事も、楽ではなさそうだけどね」


「でも、闇仕事よりはずっといいだろ」


翔が言うと、レイナは小さくうなずいた。


「そうね。人前に出て、綺麗な服を着て、広告に出る仕事なら……まだ前を向ける気がする」


「それに、報酬も部屋もある」


「そこ大事」


レイナは少し笑った。


「綺麗な部屋に住めるなら、映画のヒロインでも花嫁役でもやってみるわ」


二人の会話は、恋人同士のものではなかった。


けれど、契約を結ぶ相手としては、それで十分だった。


レイナは詩乃を見た。


「受けます」


翔も続けた。


「俺もやります」


玲司は満足そうに口元を上げた。


「判断が早いな」


「迷っても、たぶん答えは変わらないので」


翔が答える。


レイナも頷いた。


「結婚って言われると大げさだけど、仕事ですよね」


詩乃は微笑んだ。


「ええ。恋愛映画の主役を演じるようなものよ」


「なら、できます」


レイナは言った。


「映画のヒロインだと思えばいいんですよね」


「そう」


詩乃は嬉しそうだった。


「水族館でデートして、ナイトプールで距離を縮めて、ホテルのバーでプロポーズされる。そこから一か月後に結婚式。あなたたちは、その物語の主役になるの」


翔は少しだけ苦笑した。


「俺は相手役ですか」


「そうよ。格好よく演じてちょうだい」


玲司が笑った。


「棒読みはやめろよ。プロポーズが下手だと売れるものも売れなくなる」


「台本はあるんですよね」


「当然だ」


「なら、何とかします」


レイナは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ気が楽になった。


本物の恋かどうかを考えるから重くなる。


役だと思えばいい。


翔は恋人ではなく、相手役。


自分は広告の中のヒロイン。


それならできる気がした。


詩乃は端末を開いた。


「契約内容を確認するわ」


空中に文字が並ぶ。


プレオープンイベント参加。


水族館デート演出。


ナイトプールデート演出。


SNS発信用撮影。


マーメイドホテル宿泊風広告。


バーでのプロポーズ演出。


一か月後のマーメイドウェディング。


マーメイドレジデンス入居宣伝。


投稿報酬。


イベント出演料。


紹介成約報酬。


レイナは、その文字を見て息をのんだ。


仕事の量は多い。


けれど、その分、報酬も大きい。


「結婚式は、プレオープンの一か月後なのね」


「そうよ」


詩乃はうなずいた。


「まずはプレオープンで噂を作るの。関係者と上級客だけを招待して、水族館とナイトプールを楽しませる。あなたたちも参加者として楽しむ。そこで距離が縮まったように見せるの」


玲司が続けた。


「すぐ結婚じゃない。水族館でデート、ナイトプールでデート、ホテルのバーでプロポーズ。一か月後に結婚式。早すぎるくらいがちょうどいい」


「スピード婚ってことですか」


翔が言うと、玲司は笑った。


「そうだ。ここでデートしたカップルは関係が一気に進む。そういう噂にする」


詩乃はレイナを見る。


「あなたたちだけじゃないわ。私と玲司も同じ流れに乗る予定よ。二組のカップルが、プレオープンをきっかけに婚約する。そうなれば、マーメイドエリアは恋愛パワースポットとして広がる」


「作られた噂ですね」


レイナが言う。


「でも、噂は広がれば本物みたいになるわ」


詩乃は何でもないことのように言った。


「人は、信じたいものを信じるの」


レイナは何も返さなかった。


それは怖い言葉だった。


でも、欲望区では正しい言葉でもあった。


玲司はレジデンスの資料を開いた。


「住む場所も用意する。入居者は水族館とナイトプールを自由に使える。利用料は入居料金に含まれている」


レイナの目が動いた。


「毎日使えるんですか?」


「ああ」


「毎日、水族館やナイトプールに行けるってこと?」


「そうだ」


詩乃が微笑む。


「毎日水族館デート。毎晩ナイトプール。夫婦で過ごす特別な時間。それを発信してもらうの」


レイナは資料の中の部屋を見た。


広いリビング。


青い光の窓。


二つの寝室。


綺麗な家具。


今の部屋も、最初に比べれば悪くない。


けれど、そこに成功した人間の暮らしはなかった。


このレジデンスは違う。


住むだけで、自分が上に行ったように見える。


「寝室は別ですよね」


レイナが確認すると、詩乃はうなずいた。


「もちろん。表では夫婦。中では仕事仲間。最初はそれでいいわ」


「最初は?」


翔が聞く。


詩乃は笑った。


「先のことは分からないでしょう?」


レイナは少しだけ眉を寄せた。


翔も黙った。


翔は契約画面を見た。


「途中でやめた場合の条件もあるんですね」


玲司はあっさり答えた。


「当然だ。多額の違約金が発生する。場合によっては、欲望区から数年離れてもらうことになる」


レイナは少し顔をこわばらせた。


それは、軽い仕事ではないということだった。


けれど、詩乃はなだめるように微笑んだ。


「でも、長く続けるなら悪い話じゃないわ。夫婦として仲良くしている限り、レジデンスには経費で住めるの」


「経費で……」


レイナの視線が、資料に映る部屋へ向いた。


水族館とナイトプールを自由に使える生活。


広い部屋。


仕事。


報酬。


注目。


どれも、今のレイナには強すぎる条件だった。


「こんないい話、なかなかないと思うわ」


詩乃は優しく言った。


レイナは黙った。


怖くないわけではない。


それでも、答えはもう変わらなかった。


レイナは翔を見た。


翔も、もう迷っていない顔をしていた。


「やろう」


翔が言った。


「うん」


レイナはうなずいた。


「やる」


その声は、自分で思ったよりはっきりしていた。


「受けます」


レイナは詩乃を見た。


「マーメイドエリアの広告塔でも、花嫁役でも、やります」


翔も続けた。


「俺もやります。ビジネスとして」


玲司は満足そうに笑った。


「決まりだな」


詩乃は端末を操作し、契約画面を二人の前へ差し出した。


「では、仮契約から始めましょう」


レイナと翔は、並んで画面を見た。


水族館デート。


ナイトプール。


ホテルのバーでのプロポーズ。


一か月後のマーメイドウェディング。


レジデンスで暮らす理想の夫婦。


そこには、これから二人が演じる流れが並んでいた。


レイナは、署名欄に指を近づけた。


一瞬だけ迷った。


でも、止めなかった。


翔も隣で署名する。


小さな電子音が鳴った。


画面に、仮契約完了の文字が浮かぶ。


詩乃が微笑んだ。


「ようこそ。マーメイドエリアの主役へ」


玲司は満足げに言った。


「ここから忙しくなるぞ」


レイナは、画面に浮かんだ四文字を見つめた。


仮契約完了。


その瞬間から、二人はマーメイドエリアの物語を演じる側になった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、レイナと翔がビジネス婚を受ける決心をする回でした。

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