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第44話 ビジネス婚の誘い

久美子たちは、マーメイドラウンジへ直接行く前に、欲望区周辺の噂を集めることにします。


一方、欲望区では、玲司と詩乃がレイナと翔に新しい仕事を持ちかけていました。

マーメイドラウンジ。


その名前へ、いくつもの手がかりが集まっていた。


けれど、早希はすぐに欲望区へ向かうとは言わなかった。


「正面から行くのは危ないと思う」


食堂のテーブルに広げられたメモを見ながら、早希は言った。


「ラウンジの中に入るにはお金もかかる。規約もある。何も知らずに入ったら、相手の作った流れに巻き込まれるかもしれない」


大地は腕を組んだ。


「じゃあ、まず外から調べるってことか」


「うん。周辺の噂、広告、出入りしている人、関連施設。そういうところから見た方がいい」


誠司は端末に記録した内容を見返した。


「水槽設備、海水、薬、衣装。どれも一つの店だけでは多すぎます。ラウンジ以外にも施設があるのかもしれません」


かすみが小さくうなずいた。


「薬の注文量も、普通の水槽ひとつ分ではなさそうでした」


優は港で聞いた話を思い出すように言った。


「漁師の間でも、欲望区に珍しい魚を買い取る業者が来ているって噂がありました。水族館を作るらしい、という話もあります」


「水族館?」


久美子が聞くと、優はうなずいた。


「まだ噂です。でも、マーメイド関連の施設に入れる魚を集めているらしいです」


「もしかして、ラウンジだけじゃなくて、もっと大きな計画なのかな」


久美子が言うと、早希は少し考えた。


「その可能性はあるね」


翌日から、久美子たちはそれぞれの仕事場で、欲望区の噂をもう少し探ることにした。


久美子の工房では、また新しい伝票が届いていた。


先輩職人がそれを見ながら、軽く息を吐く。


「また欲望区だよ。今度はマーメイドホテル関連だって」


「ホテル?」


久美子は手を止めた。


「マーメイドラウンジじゃなくて?」


「ラウンジだけじゃないみたいだね。ナイトプール、水族館、ホテル、高級マンション。まとめてマーメイドエリアとしてオープンするらしいよ」


「そんなに大きいんですか」


「欲望区はやることが派手だからね。ホテルのスタッフ衣装とか、オープニングイベント用のドレスとか、いろいろ来てる」


先輩職人は、別の伝票を久美子に見せた。


「あと、少し先だけど、マーメイドウェディング用のオーダーメイド採寸も入る予定」


「ウェディング……」


「ホテルの結婚式プランらしいよ。詳しい日はまだだけど、採寸には何人か同行することになると思う。久美子も来てね」


「はい」


久美子は伝票を見つめた。


同じ頃、優は港で、珍しい魚の買い取りについて聞いていた。


「欲望区の業者が、色の変わった魚や、光る魚を欲しがっているらしいですね」


漁師の一人が、網を直しながら答えた。


「ああ。水族館を作るとか言ってたな。普通の魚じゃ客が驚かないから、珍しいのを集めてるんだと」


「かなり高く買うんですか」


「高いよ。だから若い連中は欲しがる。船の修理代にもなるしな」


一方、かすみの薬局では、マーメイドホテル向けらしい注文が増えていた。


人魚用の薬だけではない。


水辺の肌荒れ対策。


温泉施設用の入浴剤。


美容液に混ぜる海藻成分。


水温変化による体調不良を防ぐ薬。


担当者は、伝票を見ながら言った。


「今度は温泉施設もあるらしいよ。マーメイドスパとか、そんな名前だったかな」


「温泉まで……」


「美容と癒やしは売れるからね。欲望区はそこを逃さないよ」


大地の運送会社でも、マーメイドエリアの名前は出ていた。


「また海水タンクですか」


大地が伝票を見ながら言うと、先輩作業員がうなずいた。


「今度はナイトプール用だってさ。あと水族館の搬入も増える」


「欲望区に海を作るつもりですか」


「そういうことだろうな。海がないからこそ、作れば売れるんだと」


大地は大量のタンクを見た。


海水を運ぶ。


魚を運ぶ。


設備を運ぶ。


欲望区は、海のない場所に人魚の世界を作ろうとしていた。


その頃、欲望区では。


レイナと翔は、玲司と詩乃に呼び出されていた。


案内されたのは、マーメイドホテルの完成予想図が飾られた部屋だった。


壁には大きなパネルが並んでいる。


マーメイドナイトプール。


マーメイド水族館。


マーメイドホテル。


マーメイドレジデンス。


それぞれが青や真珠色の光で描かれ、本物の海を思わせるように美しく仕上げられていた。


翔はパネルを見上げた。


「これ、全部作るんですか」


玲司は笑った。


「もう動いてる。ラウンジだけで終わらせるわけないだろ」


詩乃は、マーメイドホテルの模型の前に立った。


「ホテルと高級マンションは同時オープン予定よ。泊まるだけじゃなくて、住めるマーメイドの世界にするの」


レイナは、模型の中にある小さなプールを見た。


夜のような照明。


水槽に囲まれたプール。


貝殻の形のベッドがあるホテルの部屋。


高級マンションのバルコニー。


すべてが、成功した人の生活に見えるように作られていた。


「すごいですね」


レイナはそう言った。


売れそうだと思った。


でも同時に、こんな場所に住む人は、本当に幸せなのだろうかとも思った。


玲司は資料をテーブルに置いた。


「で、ここからが本題だ」


翔が警戒したように玲司を見る。


「仕事ですか」


「ああ。かなりいい仕事だ」


詩乃は、レイナと翔を順番に見た。


「二人って、付き合っているの?」


レイナはすぐに首を横に振った。


「いいえ。私たちはビジネスパートナーです」


翔もうなずく。


「初期エリアから一緒に動いてきただけです」


玲司は口元を上げた。


「じゃあ話が早い」


レイナは嫌な予感がした。


「何がですか」


詩乃は、まるで新しいコースを紹介するような声で言った。


「偽装結婚してくれない?」


部屋の空気が一瞬止まった。


「……結婚?」


翔が聞き返す。


「本物の恋愛じゃなくていいわ。ビジネス婚よ」


詩乃はさらりと言った。


「マーメイドホテルの結婚式プラン、マーメイドレジデンスの新婚生活、ナイトプールで過ごすセレブな夜。そういうものを宣伝するには、若くて見栄えのする夫婦が必要なの」


レイナは言葉を失った。


翔もすぐには返事をしなかった。


玲司は資料を指で叩いた。


「条件は悪くない。家賃は無料。結婚式も無料。衣装も会場もこっちで用意する」


「無料……」


「その代わり、SNSで幸せそうな夫婦生活を発信してもらう。セレブな新婚生活、成功している雰囲気、マーメイドエリアで人生が変わった感じ。そういうのを見せるんだ」


詩乃が続ける。


「結婚式も広告になるわ。マーメイドホテルで結婚した二人。ナイトプールで撮影する幸せな新婚。レジデンスで暮らす理想の夫婦」


レイナは資料を見た。


そこには、宣伝文句の案が並んでいる。


【憧れの自分になって、理想の人生へ】


【マーメイドクラブから始まる幸せ】


【人生が変わる場所】


【恋が叶うマーメイドエリア】


翔は眉を寄せた。


「でも、僕たちは付き合ってもいません」


「だから都合がいいのよ」


詩乃は微笑んだ。


「恋愛感情があると、面倒になることもあるでしょう。でもビジネスなら、条件で動ける」


玲司も軽くうなずいた。


「外では仲のいい夫婦を演じる。中では仕事仲間でいい。部屋は広い。自分の部屋も用意される。悪い話じゃないだろ」


翔は資料から視線を外した。


「僕たちを、成功例に見せるんですね」


「そうだ」


玲司は悪びれずに言った。


「こんなふうに成功したいなら、アリスクラブ、レオクラブ、マーメイドクラブを体験するといい。人生が変わる。そう思わせる」


詩乃はレイナに近づいた。


「あなたはマーメイドクラブ側の広告塔になれるわ。美容、変身、衣装、結婚式。全部つなげられる」


玲司は翔を見る。


「お前はラウンジとレジデンス側だな。男性客や若い成功志向の客に響く。ここまで来れば人生が変わるって見せられる」


レイナは黙っていた。


家賃無料。


結婚式無料。


高級レジデンス。


セレブ生活。


どれも、欲望区で上に行きたい人間には強すぎる条件だった。


「報酬は?」


レイナが聞くと、玲司は満足そうに笑った。


「もちろん出る。投稿、撮影、イベント出演、紹介成約。全部に報酬がつく」


翔はまだ納得していないようだった。


「偽装結婚までして、客は信じるんですか」


玲司は笑った。


「信じたいものを見せればいい。幸せそうに見える夫婦。高級な部屋。豪華な結婚式。夜のプール。客はそこに自分の未来を見る」


詩乃は、壁の完成予想図を見上げた。


「それに、私たちも同じように演じる予定よ」


「私たち?」


レイナが聞く。


「私と玲司よ」


詩乃は当然のように言った。


「二組のカップルが、このマーメイドエリアで出会って結婚した。そんな噂が広がれば、ここは恋が叶う場所になる」


玲司が笑った。


「縁結びスポットだな。恋愛成就の聖地。そういう言葉は勝手に広がる」


翔は、マーメイドレジデンスの模型を見た。


そこには、幸せそうな夫婦が描かれた広告パネルが置かれている。


まだ誰も住んでいないのに、もう幸せな生活だけが売られていた。


「考える時間はありますか」


翔が聞くと、玲司はうなずいた。


「少しならな。だが早い方がいい。ホテルの結婚式の準備も、広告撮影も動いている」


詩乃はレイナに視線を戻した。


「これは大きなチャンスよ。あなたが欲しがっていたものに近づける。お金も、部屋も、立場も、注目も」


レイナは唇を結んだ。


お金は欲しい。


上に行きたい。


でも、結婚まで演じるのか。


そう思った。


それでも、断る言葉はすぐには出てこなかった。


部屋の外では、マーメイドエリアの宣伝映像が流れていた。


夜のプール。


白いホテル。


水槽に囲まれたチャペル。


高級マンションの窓から見える、作られた海。


映像の中の男女は、幸せそうに笑っている。


レイナは、その笑顔がこれから自分に求められているものなのだと分かった。


翔も同じ映像を見ていた。


二人は、まだ返事をしなかった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、久美子たちがマーメイドエリアの噂を調べる一方で、欲望区ではレイナと翔にビジネス婚の話が持ちかけられる回でした。

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