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第42話 マーメイドラウンジ

玲司に連れられ、翔が足を踏み入れたのは、欲望区にあるマーメイドラウンジ。


美しい水槽、歌う店員、本物の人魚。


けれどその店は、ただ人魚を眺める場所ではありませんでした。

玲司に促され、翔はマーメイドラウンジの中へ足を踏み入れた。


最初に鼻をかすめたのは、海水と香水が混ざったような匂いだった。


正面には、壁一面の巨大な水槽がある。


青い照明の中を、銀色の魚が群れになって泳いでいた。

水槽の奥では、長い髪のような影が一瞬だけ揺れる。


人魚なのか。

魚の群れが作った影なのか。


翔には、まだ分からなかった。


入口横には、細かい文字で規約が貼られている。


『水槽内の人魚は、指名状況・休憩時間・体調により、ご覧いただけない場合があります』


「見られないこともあるんですか」


翔が聞くと、玲司は平然とうなずいた。


「ある。人魚もずっと客の前を泳いでるわけじゃない。指名が入っていれば上の席にいるし、指名がない時は水槽の奥で休んでいることが多い」


「じゃあ、一階の客はほとんど見られないんじゃ……」


「運が良ければ見える」


玲司は笑った。


「それで十分だ。客は、もしかしたら見えるかもしれないと思って来る。見えなかった客ほど、次はもっと近くで見たくなる」


水槽の前には、酒を飲みながら海の景色を眺める客席が並んでいる。


その近くでは、マーメイド風のロングドレスを着た店員たちが、グラスを運んでいた。


スカート部分が体のラインに沿って広がり、裾へ向かって尾びれのような形になっている。

胸元や肩の露出は控えめで、真珠や小さな貝殻の飾りが海の世界らしさを添えていた。


「ここが一階だ」


玲司が言った。


「一番入りやすい場所だな。水槽を眺める席、カウンター席、小さな舞台に近い席。それぞれ値段が違う」


翔は水槽の横にある貝殻型の小さな舞台を見た。


マーメイドラインのロングドレスを着た店員たちが、音楽に合わせて歌っている。


声はやわらかく伸び、波が寄せては返すような節回しが入っていた。


「人魚っぽく歌ってるんですね」


「当然だ。客は人魚の世界に来た気分を買ってるんだからな」


玲司は舞台に近い席を指した。


「あの辺は一階でも少し高い。歌を近くで見られるからだ」


「一階の店員は、本物の人魚じゃないんですよね」


「人間マーメイド店員だ。歌がうまい子は外の歌手事務所や舞台にスカウトされることもある。広告に出る子もいる」


「成功する人もいるんですね」


「いる。だから夢を見るんだよ」


玲司は一階の奥にある階段へ向かった。


「一階の店員は一階担当。勝手に二階へは上がれない。二階へ行ければもっと稼げる。そう思わせて、上を目指させる」


翔はロングドレスの店員たちを振り返った。


彼女たちは笑顔で客に酒を運んでいる。

明るく、上品で、入りやすい。


けれどその上には、別の階がある。


「次は二階だ」


玲司が言った。


階段を上がると、空気が変わった。


一階の明るい水族館のような雰囲気は消え、通路は青紫の照明に包まれていた。


左右には半個室の席が並んでいる。

貝殻をかたどったパーテーション。

海藻のように揺れる観葉植物。

壁に埋め込まれた細長い水槽。

薄い布のカーテン。


奥には個室やパーティールームもあるらしい。

真珠色の札がかかった扉が並び、中の様子は外からは見えない。


「二階は、一階からも三階からも見えないようにしてある」


玲司は廊下の壁を軽く叩いた。


「個室、半個室、パーティールーム。水槽、壁、植物、マジックミラー。見えそうで見えないように作ってある」


「隠してるんですか」


「見せる客を選んでるんだよ」


二階の手前にいる店員たちは、一階よりも大人っぽいマーメイドファッションを着ていた。


同じマーメイドラインでも、肩や背中を少し見せるもの。

腰元に真珠の飾りが揺れるもの。

裾に深い切れ込みが入ったもの。


客の隣に座り、酒を注ぎ、笑いかけている。


奥の小さなステージでは、別の店員が歌っていた。

一階の歌よりも低く、近く、甘い声だった。


「二階は店員との距離が近い。指名料もつく。歌わせるにも金がかかる」


「触れるんですか」


翔が聞くと、玲司は口元を歪めた。


「コースによる。触っていいコースなら追加料金。触ってはいけないコースで触れば罰金。場合によっては、触っていいコース相当の料金を取られる」


「間違えたら高くつくんですね」


「間違える客がいるから、商売になる」


玲司はさらに奥へ進んだ。


通路の照明が少し暗くなる。

海藻風の装飾が視線を遮り、奥の席は外からはほとんど見えない。


「ここから先は、二階でも奥の席だ。もっと金を落とす客向けだな」


奥にいる店員たちの衣装は、手前とは違っていた。


本物の人魚に近づこうとしたような、不思議な衣装だった。


水着のようでもあり、胸元には貝殻の胸当てがついている。

腰には、きらきらした尾びれを思わせる薄い布が巻きつけられ、歩くたびに光を弾いて揺れた。


一階の上品なロングドレスとも、二階手前の華やかな衣装とも違う。


人間でありながら、人魚に少しでも近く見えるよう飾られている。


「二階にも段階がある」


玲司が言った。


「手前より奥。奥の方が指名料も高い。触っていいコースならさらに上乗せだ」


「給料も違うんですか」


「もちろん。一階より二階。二階の手前より奥。人間マーメイド店員の中では、奥の子たちが稼ぐ」


「一番高いのは?」


「三階の本物の人魚だ」


玲司は上へ続く階段を見た。


「客は“本物”に金を払うからな」


三階へ上がると、二階の甘い熱気が遠ざかった。


そこは静かだった。


水槽の上部に沿って、岩場のような席が作られている。

客は本物の人魚と近い距離で話せるようになっていた。


手を伸ばせば届きそうな距離。


だからこそ、許可なく触れたら珊瑚になるという掟が重く感じられた。


「三階は本物の人魚と話せる席だ」


玲司が言った。


「会話、指名、撮影、歌。全部、別料金だ。本物の人魚の歌を目の前で聴けるとなれば、金を払う客はいくらでもいる」


「歌にも料金がかかるんですか」


「当たり前だ。本物の人魚の歌だぞ」


玲司は水槽の中を指した。


水槽の底に、いくつか珊瑚がある。

赤や白の枝が、青い水の中で静かに揺れていた。


「見えるか。あの珊瑚」


「え?」


「あれ、客だよ」


翔は一瞬、意味が分からなかった。


玲司は何でもないことのように続ける。


「人魚に触って珊瑚になった客だ。規約違反だからな。財産の処理も契約済み。店に入る分もある」


翔は水槽の中の珊瑚を見た。


さっきまでただの飾りだと思っていたものが、急に別のものに見えた。


「哀れなもんだね」


玲司は軽く笑った。


「でも、ちゃんと規約には書いてある。読まなかった客が悪い」


翔は返事をしなかった。


三階の奥で、一人の人魚が客と話している。


「あそこで客と話しているのが、うちの人気ナンバー三のミレナだ」


玲司がさらりと言った。


銀色に近い髪。

薄い青の尾びれ。


ミレナと呼ばれた人魚は、客の前で静かに微笑んでいた。


「最近、海から来たばかりなんだが、もう人気が出てる。歌がうまいんだよ」


「最近、海から……」


翔は小さく繰り返した。


欲望区の近くに海はない。


人魚は歩けない。

では、どうやってここまで来たのか。


誰かが連れてきたのか。

それとも、運ばれてきたのか。


その時、ミレナがこちらをちらっと見た。


ほんの一瞬だけ、何かを期待したような顔をした。


けれど、玲司と翔の顔を見ると、その表情はすぐに沈んだ。


探していた相手ではなかった。


翔には、そんなふうに見えた。


ミレナは次の瞬間には、また客へ微笑みかけていた。


「お前にやってもらう仕事は、ここに客を連れてくることだ」


玲司が言った。


「金持ちの客。普通のラウンジに飽きた客。特別な体験に弱い客。本物の人魚と話せると言えば、食いつく奴はいる」


「客引きですか」


「営業だ。もっと上品に言え」


玲司は肩をすくめた。


「上位客を連れてくれば紹介料が入る。VIP席へ上げれば追加。指名、酒、撮影、ファンクラブ。全部、売上になる」


「ファンクラブまであるんですか」


「お気に入りの人魚を支援できると言えば、金を出す客はいる。限定写真、サイン、特別メッセージ、限定グッズ。応援している気分になれば財布はゆるむ」


翔は黙った。


支援という言葉はきれいに聞こえる。

でも、この店で聞くと、別のものに聞こえた。


「本物の人魚は、給料が一番高いんですよね」


「ああ。表向きはな」


玲司は笑った。


「ただし、水槽の海水代、設備費、電気代、運搬費、管理費。そういうものは差し引かれる。人気が出れば稼げるが、稼ぐほど店の設備も使う」


「それでも、人魚たちはここで働きたいんですか」


「働きたい人魚もいる。海の外に憧れる人魚。人間の客に見られたい人魚。金を稼ぎたい人魚。自由になりたい人魚。理由はいろいろだ」


「自由になりたいのに、水槽の中で働くんですか」


「外へ出るには金がいる。人間の世界へ行くにも金がいる」


玲司の声が少し低くなった。


「それに、人魚の中には、人間になりたい者もいる」


翔は玲司を見た。


「人間に?」


「海で生きるのに飽きた。陸で歩きたい。恋をしたい。人間の生活をしてみたい。そう思う人魚はいる」


「逆に、人魚になりたい人間もいるんですね」


「いる。綺麗な尾びれで泳ぎたい。注目されたい。人魚になれば稼げる。特別扱いされる。そう思う人間もいる」


翔は嫌な予感がした。


「まさか……」


「人魚になりたい人間と、人間になりたい人魚。条件が合えば、人生を交換できる」


玲司は、まるで普通の取引を説明するように言った。


「種族、体、働き方、暮らし。欲しいものが違う者同士をつなげば、商売になる」


「そんなこと、本当にできるんですか」


「できるから、商品になる」


「でも、人魚になった人間は、普通に暮らせるんですか。海で生きられるんですか。逆に、人間になった人魚は……」


「そこまで面倒を見るかどうかは、契約次第だ」


翔は言葉を失った。


契約。


玲司はその一言で、すべてを片づけた。


「お前が最初から難しい客を探す必要はない」


玲司は軽く手を振った。


「まずは金を持っていそうな客を連れてこい。特別な体験に弱い客、普通の店に飽きた客、本物の人魚を見たい客。そういう奴でいい」


「それだけでいいんですか」


「最初はな」


玲司は笑った。


「一度来れば、水槽を見る。人魚の歌を聞く。指名する。写真を撮る。ファンクラブに入る。もっと近くで会いたくなる。金を使ううちに、勝手に奥へ進んでいく」


「奥へ……」


「そうだ。客の方から、もっと特別なものを欲しがるようになる。人魚になりたい、人魚を人間にしたい、人生を交換したい。そういう話は、その後でいい」


翔は三階の席に座る客たちを見た。


静かに笑いながら、グラスを傾けている。

本物の人魚を目の前にして、満足そうに話している。


「お前の仕事は、欲の入口に客を連れてくることだ」


玲司は言った。


「奥まで進むかどうかは、客の欲が決める」


「どうだ。悪い仕事じゃないだろ」


翔はすぐには答えなかった。


金は欲しい。

欲望区で生きていくには、金がいる。


それは分かっている。


けれど、ミレナが一瞬見せた顔が頭に残っていた。


欲望区の近くに海はない。


それなのに、最近海から来た人魚が、ここで客に笑っている。


「……考えます」


翔はそれだけ言った。


玲司は笑った。


「考える時間はやるよ。だが、稼げる仕事は早い者勝ちだ」


青い水槽の奥で、魚の群れが向きを変えた。


ミレナの姿は、もう客の影に隠れて見えなかった。

マーメイドラウンジに足を踏み入れた翔。


一階、二階、三階と案内される中で、そこがただ人魚を眺める店ではないことを知っていきます。


そして、人気ナンバー三の人魚ミレナ。


欲望区の近くに海はないのに、彼女は「最近、海から来たばかり」だと言われていました。

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