第33話 差し出された仕事
街エリアで、それぞれの初仕事が始まります。
その仕事の先には、少しずつ欲望区の影が見えていました。
街エリアでの初仕事は、それぞれ違っていた。
久美子の向かった工房には、欲望区向けの衣装が大量に積まれていた。
淡い色のワンピース。
白いリボン。
同じ形に裁たれた布。
別の台には、黒を基調にした上着と、舞台衣装のような襟の部品が並んでいる。
「これ、全部同じ服ですか?」
久美子が聞くと、先輩職人は慣れた様子で答えた。
「欲望区からの注文だよ。アリス仕様とレオ仕様の衣装」
「アリス仕様……レオ仕様……」
久美子は、積まれた布を見つめた。
欲望区では、こういう服が流行っているのだろうか。
それにしても、同じ形の服が多すぎる。
こんなにたくさんの人が、同じ服を着るのだろうか。
久美子には、まだ分からなかった。
かすみの薬局にも、欲望区の影はあった。
毒消し。
麻痺消し。
魔力酔い止め。
透明化薬。
匂い消し薬。
戦闘スキル上昇薬。
薬棚には、現実世界では見たことのない薬が並んでいる。
その中には、赤い印がついた薬もあった。
【購入資格確認必須】
【持ち出し先記録必須】
【第三者への譲渡禁止】
「欲望区から、わざわざ買いに来る人もいる」
薬局の担当者が言った。
「向こうでは、同じような薬がもっと高く売られているらしいからね」
「でも、資格がない人には売れないんですね」
「そう。資格を持っていないのに買おうとする人もいる。転売したり、本来とは違う使い方をしたりする人もいるから、必ず確認して」
かすみは小さくうなずいた。
ただ薬を覚えるだけではない。
誰に売っていいのか。
どこへ持ち出されるのか。
何に使われるのか。
そこまで見なければいけない仕事だった。
優が仕入れに行った市場では、高級魚が欲望区の店に買い占められていた。
朝に獲れたばかりの魚が、氷の上で光っている。
けれど、それは街の食卓に並ぶ前に、欲望区の高級店へ運ばれていく。
「金を出す場所に、いいものは流れる」
魚屋の店主は、そう言った。
大地の運送会社では、欲望区行きの荷物が山のように積まれていた。
衣装の箱。
薬品の箱。
食材の箱。
装飾品の箱。
伝票には、同じ行き先が何度も並んでいる。
【配送先:欲望区】
「……欲望区行き、多すぎないか?」
大地が言うと、先輩作業員は短く答えた。
「多いよ。あそこは何でも高く売れるからな」
早希の訓練所では、強くなって欲望区で働きたいという訓練生が何人もいた。
「警備とか、用心棒とか、強い人向けの仕事は給料がいいって聞きました」
休憩中、訓練生の一人が言った。
「この街で普通に働くより、早く稼げるらしいですよ」
早希は、すぐには返事ができなかった。
強くなること。
稼ぐこと。
欲望区へ行くこと。
その三つが、訓練生たちの中では同じ方向につながっているようだった。
誠司の修理工房には、欲望区から流れてきた高級端末や機械が並んでいた。
表面に小さな傷があるだけの端末。
少し古い型の映像機。
使われなくなった音声調整機。
「これ、壊れているんですか?」
誠司が聞くと、職人は首を横に振った。
「壊れているとは限らない。まずは仕分けだ。まだ使えるものは点検。汚れているものは清掃。部品が傷んでいるものだけ交換。完全に壊れているものだけ修理する」
誠司は、きれいな端末を手に取った。
「まだ新品みたいに見えます」
「欲望区では、新型が出たら古い型はすぐ手放される。少し傷がついただけでもいらないと言う人もいる」
職人は、端末を作業台に置いた。
「ここで使えるようにして、街エリアや初心者エリア向けに回す」
誠司は、きれいな画面を見つめた。
同じ物でも、場所が変われば価値が変わる。
そのことだけは、少し分かった気がした。
街エリアで始まった仕事は、どれも普通の仕事に見えた。
けれど、その先には、少しずつ欲望区がつながっていた。
その頃、欲望区では、夜の仕事へ向かう者たちが動き始めていた。
レイナは、新しい部屋で身支度をしていた。
少しましな部屋に移っても、仕事の内容が急に変わるわけではない。
また夜になれば、呼び出しが来る。
荷物を運ぶのか。
部屋を片づけるのか。
何をさせられるのかは、行ってみなければ分からない。
扉を開けようとした時、端末に通知が入った。
【詩乃:少し話せるかしら】
レイナは、しばらく画面を見ていた。
詩乃から直接連絡が来ることは、そう多くない。
指定された場所は、欲望区の上層にあるサロンだった。
レイナがそこへ行くと、詩乃は白い椅子に座っていた。
部屋には、甘すぎない香りが漂っている。
壁には、アリス仕様とレオ仕様の商品案内が並んでいた。
朝食セット。
サプリ。
ヨガプログラム。
声の調整レッスン。
表情同期講座。
歩き方の講座。
選ばれるための会話講座。
レイナは、それらを横目で見ながら、詩乃の前に立った。
「何の用?」
詩乃は静かに微笑んだ。
「あなた、よく初心者エリアからほとんど一文無しでここまで来たわね」
レイナは返事をしなかった。
詩乃は、レイナの足元から顔までをゆっくり見た。
「美しさもある。根性もある。だから、まだあんな仕事をしているのが少しもったいないわ」
「あんな仕事?」
「夜に呼ばれて、何を運ぶのかも分からない荷物を持つ仕事。誰かの部屋を片づける仕事。あなた、本当にそれを続けたいの?」
レイナは詩乃を見る。
続けたいわけではない。
けれど、金はいる。
欲望区で生きていくには、金がいる。
少しましな部屋に移れた。
けれど、それで終わりではない。
もっと上へ行くには、まだ足りない。
詩乃は、その沈黙を見ていた。
「私と一緒にビジネスをしない?」
「ビジネス?」
「アリスに近づきたい人、レオに近づきたい人に、商品や講座を紹介するの。紹介した相手が申し込めば、あなたにも報酬が入る」
レイナは眉を寄せた。
「私が?」
「あなたは、見た目も悪くない。ここまで来た根性もある。初心者エリアから来た子たちには、あなたの言葉は届きやすいわ」
詩乃は、端末を開く。
そこには、紹介報酬の一覧が表示されていた。
一件ごとの金額。
継続利用された場合の追加報酬。
上位商品へ進んだ場合の紹介料。
レイナは、数字を見た。
夜の仕事より、ずっと分かりやすい金額だった。
「一人紹介するだけでも、夜の仕事よりいい報酬になる場合がある」
「いい報酬ね」
レイナが低く言うと、詩乃は少しだけ笑った。
「少なくとも、何を運ばされているのか分からない仕事よりは、表に出せるわ」
その言葉に、レイナは黙った。
詩乃は逃さない。
「私みたいに、優雅に暮らしたくない?」
サロンの奥には、香りのよいお茶が置かれ、柔らかな椅子が並んでいる。
窓の外には、欲望区の通りが見えた。
下の方では、夜の仕事へ向かう者たちが歩いている。
「もう、闇の仕事なんて辞めたいでしょう」
詩乃の声は、やわらかかった。
「必要なら、私が話をつけてあげてもいいわ」
レイナは、詩乃を見た。
確かに、もうあの仕事を続けたいわけではない。
けれど、詩乃の手を取れば、別の何かに組み込まれる。
それも分かっていた。
アリスになりたい者。
レオになりたい者。
自分ではない誰かに近づきたい者たち。
その人たちに商品を紹介する。
それが、本当に上へ行く道なのか。
それとも、別の欲望の中へ入っていくだけなのか。
答えは出なかった。
それでも。
金が入るなら。
今より少しでも上に行けるなら。
「……何をすればいいの?」
レイナが聞くと、詩乃は満足そうに微笑んだ。
「まずは、あなたと同じように上へ行きたがっている子に声をかけるの」
同じ頃、翔は玲司に呼び出されていた。
場所は、欲望区の裏通りにある事務所だった。
表の通りとは違い、細い階段を上がった先にある部屋だった。
壁には、部屋の空き情報、仕事の募集、特別席の案内、権利売買のリストが並んでいる。
机の上には端末が何台も置かれていた。
玲司は椅子に座り、端末を片手に笑っていた。
「お前、そろそろ使われる側から、紹介する側に回ってみないか?」
翔は警戒した顔をした。
「何だよ、それ」
「簡単な話だ。初心者エリアから来たばかりのやつらに、部屋や仕事を紹介する。欲しがってるやつには裏チケットや権利の話を持っていく。決まれば紹介料が入る」
玲司は、端末の画面を翔に見せた。
【住居紹介】
【夜仕事斡旋】
【特別席販売補助】
【空エリア入場権 営業補助】
【海底神殿探索権 相談補助】
数字が並んでいる。
悪くない金額だった。
翔は画面から目を離せなかった。
「これ、本当に入るのか」
「決まればな」
玲司は軽く言う。
「お前らも、最初は何も知らなかっただろ。相場も、仕事も、どこに行けばいいかも。そういうやつらは、案内してくれる人間を欲しがる」
「それで、俺が案内する側になれって?」
「そういうこと」
玲司は笑った。
「人は、欲しいものがあると動く。部屋が欲しい。金が欲しい。上に行きたい。近道したい。そういうやつを、必要なところへ流すだけだ」
翔は黙った。
流すだけ。
その言い方が少し引っかかった。
けれど、金は必要だった。
レイナと二人で少しましな部屋へ移った。
でも、それだけでは終わらない。
もっと上へ行くには、まだ金がいる。
「危ない仕事じゃないのか?」
翔が聞く。
玲司は肩をすくめた。
「危ない仕事に行くかどうかは、相手が決めることだ。お前は紹介するだけ」
「紹介するだけ……」
「そう。使われる側で終わるなよ、翔」
玲司の声が少し低くなる。
「欲望区で上に行きたいなら、誰かに使われ続けるだけじゃだめだ。人を動かす側に回れ」
翔は、端末に並ぶ報酬を見た。
使われる側から、紹介する側へ。
それは、少しだけ上に行ける道のようにも見えた。
「でも、俺にできるのか」
「できるさ」
玲司はすぐに言った。
「お前はもう、最初に来た頃の初心者じゃない。ぼろい部屋から少しましな部屋に移った。夜の仕事も知ってる。相場も少しは分かってる」
翔は黙ったまま聞いていた。
「初心者から見れば、お前は少し先にいる人間だ。そういうやつの言葉は、信じられやすい」
「……信じさせて、紹介するのか」
「言い方だな」
玲司は笑った。
「困ってるやつに道を教える。金が欲しいやつに仕事を教える。上に行きたいやつに近道を教える。それだけだ」
翔は、事務所の壁に貼られた紙を見た。
住居。
仕事。
裏チケット。
権利。
どれも欲望区で生きるためには必要そうに見える。
けれど、それを紹介するたびに、誰かがこの場所に深く入っていくのかもしれない。
そう思っても、端末に表示された報酬から目を離せなかった。
「考えさせてくれ」
翔が言うと、玲司はうなずいた。
「いいぜ。でも早い方がいい。次の初心者たちは、もう来てる」
その言葉に、翔は小さく息を吐いた。
次の初心者。
かつての自分たちのように、何も知らずに欲望区へ来た者たち。
その人たちへ、自分が声をかける。
それは想像すると、少し変な気分だった。
夜。
欲望区では、レイナと翔がそれぞれ別の場所から帰ってきた。
レイナは、詩乃から受け取った案内資料を持っていた。
翔は、玲司から受け取った紹介リストを持っていた。
二人とも、まだ何も始めてはいない。
けれど、差し出された仕事は、もう手の中にあった。
レイナは案内資料を見下ろした。
翔は紹介リストを握ったまま、しばらく黙っていた。
少しましな部屋に移っただけでは、終わらない。
次に進むための道が、また別の形で目の前に置かれていた。
それが上へ行く道なのか、さらに深く欲望区へ入っていく道なのか。
まだ、二人には分からなかった。
読んでいただきありがとうございます。




