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第32話 それぞれの朝

街エリアでの新しい朝が始まります。

一方、欲望区では、違う形の朝が動き始めていました。

街エリアの朝は、思っていたより普通だった。


優は、魚屋の仕入れで夜明け前から市場へ向かった。


大地は、運送会社の倉庫で荷物の仕分けをしていた。


早希は、訓練生たちと体操をして、そのまま街の外周を走った。


久美子は、昨日買っておいたパンを食べながら、工房へ行く支度をしていた。


今日は、どんなものを縫うのだろう。


そう思うと、少しだけ楽しみだった。


かすみは、薬局で扱う工場製造薬品の資料を予習していた。


成分。


効能。


副作用。


飲み合わせの注意。


今までのエリアで覚えた薬草や、異世界に来る前に知っていた薬品とは違うものが、まだたくさんある。


誠司は作業着に着替え、工具の入った鞄を持って工房へ向かった。


魚を運ぶ人。


荷物を積む人。


体を動かす人。


薬を覚える人。


道具を持って仕事場へ向かう人。


異世界に来たはずなのに、朝の景色はどこか現実世界と似ていた。


一方、欲望区の朝は遅い。


夜遅くまで店が開き、仕事も取引も続くため、多くの者はまだ眠っている。


レイナと翔は、新しい部屋でまだ眠っていた。


前日の夜の仕事の疲れが残っていた。


けれど、欲望区の成功者たちは違う。


朝の太陽を浴び、整えられた部屋で優雅にモーニングを楽しむ。


温かい飲み物。


焼きたてのパン。


端末に並ぶ今日の予定。


欲に飲まれる者は夜に沈み、欲を利用する者は朝から動く。


詩乃も、玲司も、その側にいた。


詩乃の部屋には、朝の光が差し込んでいた。


窓辺には白い花が飾られ、テーブルの上には決められた食事が並んでいる。


皿の上にあるのは、アリスが毎朝食べていると言われる食事と同じものだった。


彩りを抑えた野菜のサラダ。


蒸した根菜。


少量の果物。


薄く焼いたパン。


決められた温度の飲み物。


小さな容器に分けられたサプリ。


食べる順番も、飲む順番も決まっている。


部屋には、アリスが毎朝聞いているという音楽が流れていた。


詩乃は、静かに椅子へ座る。


そして、端末の表示を確認しながら、一口ずつ食事を進めていった。


【アリス朝食再現度:92%】


【摂取順序:一致】


【音楽環境:一致】


詩乃は、その数値を見てから、ゆっくりと飲み物に手を伸ばした。


健康のためではない。


美容のためだけでもない。


これは、アリスに近づくための朝だった。


食事を終えると、詩乃は端末を床に置いた。


【アリス式モーニングヨガ】


【呼吸・姿勢・視線の角度を確認してください】


画面の中の人物が、ゆっくりと腕を伸ばす。


詩乃も、それに合わせて体を伸ばした。


指先の向き。


背中の反り方。


息を吐く長さ。


顔の角度。


ただ体を整えているのではない。


アリスと同じ朝を、少しでも正確になぞっている。


端末には、次の数値が表示された。


【ストレッチ同期率:87%】


詩乃は、その数字を見た。


そして、静かに息を吐く。


まだ、足りない。


詩乃は、アリスに近づこうとしている。


けれど、それだけではなかった。


詩乃は、アリスに近づきたい者たちを集める側でもあった。


さらに今は、レオに近づきたい者たちも増えている。


女性には、アリスコース。


男性には、レオコース。


顔。


声。


姿勢。


歩き方。


食事。


朝の習慣。


表情。


憧れの相手に近づけると思わせれば、人は何度でも金を払う。


詩乃は、その仕組みをよく知っていた。


一方、玲司も朝から端末を確認していた。


夜に動き回る必要はない。


玲司の仕事は、昼間に欲望区をさまよう初心者や、冒険の仕組みに詳しくない者へ声をかけることだった。


住む場所を探している者。


特別席を欲しがる者。


近道を欲しがる者。


権利を買いたがる者。


仕事を選べずに困っている者。


そういう相手を見つけるのが、玲司の仕事だった。


夜の仕事へ送り込めば、手数料が入る。


住む場所を紹介すれば、紹介料が入る。


店舗を貸せば、家賃が入る。


さらに売上の一部も入る。


裏チケットを流せば、大きな金が動く。


権利を買わせれば、さらに金が動く。


欲望区で商売をしたい者は、場所がいる。


客がいる。


紹介がいる。


許可がいる。


その流れのどこかに、玲司がいた。


端末には、今日の取引予定が並んでいる。


【裏チケット販売】


【住居紹介】


【店舗貸出】


【初心者向け仕事斡旋】


【空エリア入場権 相談】


【海底神殿探索権 問い合わせ】


【売上徴収予定】


玲司は画面を見て笑った。


欲望区では、欲しいものがある者ほど動く。


動けば、誰かに金を払う。


部屋を借りる。


店を出す。


仕事を探す。


席を欲しがる。


権利を欲しがる。


近道を欲しがる。


そのたびに、金の流れが生まれる。


玲司は、その流れをつかむのが好きだった。


窓の外には、朝の光を浴びたレオさま公式ショップの看板が見えた。


朝はまだ、人の数が少ない。


けれど昼になれば、また列ができる。


レオに近づきたい者。


レオのように選ばれたい者。


レオという名前に、金を払う者たち。


玲司は、その看板を見て、少しだけ口元を歪めた。


「レオ様、レオ様ってさ」


小さくつぶやく。


「みんな、いつまであいつの名前をありがたがってるんだよ」


その売上は、玲司のものではない。


レオコースも、公式ショップも、詩乃の領域だった。


それでも玲司は、客が動く場所を押さえる。


部屋。


店。


席。


裏ルート。


権利。


人が欲望を持って動くかぎり、そこには必ず金が流れる。


「俺は俺のやり方で上に行く」


玲司は端末を閉じた。


昼になると、欲望区の通りは少しずつ賑わい始めた。


夜の店とは違う。


昼の通りには、レオさま公式ショップと、アリスさま公式ショップが並んでいる。


どちらも詩乃が仕切っている店だった。


レオの写真を買う者。


アリスの香水を試す者。


同じ髪型に近づくための道具を選ぶ者。


同じ声に近づくための教材を買う者。


同じ表情を作るための練習プログラムを申し込む者。


レオコースの案内を受ける者。


アリスコースの説明を聞く者。


憧れも、信仰も、欲望区では商品になる。


その通りを見下ろせる高級レストランで、詩乃と玲司は向かい合っていた。


白い皿に盛られた料理。


透き通った飲み物。


静かな音楽。


窓の外には、公式ショップに並ぶ人々の列が見える。


「最近、レオコースの申し込みが増えているわ」


詩乃は端末の売上を確認しながら言った。


「アリスになりたい子だけじゃない。レオみたいになりたい男の子も増えているの」


玲司は、窓の外の列を見た。


「レオ様みたいになれば選ばれるって思ってる連中は多いからな」


「女性にはアリスコース。男性にはレオコース。憧れの形が違うだけで、欲しがっているものは同じよ」


詩乃は静かにグラスを置いた。


「顔、声、仕草、食事、習慣、服、表情。全部、近づけると思わせれば売れる」


「相変わらず上品な顔してえげつないな」


玲司が笑う。


「あなたに言われたくないわ」


詩乃は、玲司の端末を見る。


「あなたは、場所も席も権利も全部お金に変えているでしょう」


玲司は肩をすくめた。


「俺は公式ショップの売上には関係ない。けど、その客が動く場所は押さえられる」


「場所?」


「部屋、店、特別席、裏チケット、限定ルート。憧れているだけじゃ何もできないだろ。近づきたいなら席がいる。店を出したいなら場所がいる。上に行きたいなら権利がいる」


玲司は端末を軽く振った。


「そこは俺の仕事だ」


詩乃は少しだけ笑った。


「なら、ちょうどいいわ。あなたのところに来る客で、レオやアリスに憧れている人がいたら、私に回して」


「紹介料は?」


「当然、払うわ」


玲司は口元だけで笑った。


「こっちにも回せよ。住む場所を探してるやつ、店を出したいやつ、特別席が欲しいやつ。そういう客は俺向きだ」


「分かっているわ」


二人は、何でもない昼食のように話していた。


住む場所。


美容。


特別席。


仕事。


合言葉。


アリスコース。


レオコース。


人の憧れも、不安も、迷いも、二人の端末の中では客情報として並んでいる。


欲望区では、欲しがる者ほど、誰かの商売に組み込まれていく。


詩乃は、窓の外の列を見ながら言った。


「憧れている人たちを、ただの客で終わらせるのはもったいないもの」


玲司は、少し笑った。


「客で終わらせない?」


「アリスみたいに食べる。アリスみたいに笑う。アリスみたいに話す。レオみたいに歩く。レオみたいに選ばれる。そういう日常ごと売るの」


詩乃は、何でもないことのように続けた。


「一度入り込めば、朝食もサプリも服も講座も買い続けるわ」


玲司は笑った。


「信仰って便利だな」


「私は、信仰の輪と呼んでいるわ」


「俺には、金の流れにしか見えないけどな」


「どちらでもいいのよ」


詩乃は静かに飲み物を口に運んだ。


「流れが続くなら」


玲司は、端末に並ぶ高額取引を指で弾いた。


「場所を押さえたやつが勝つんだよ。店を出したいやつには店舗を貸す。住みたいやつには部屋を回す。夜の仕事には人を流す。席が欲しいやつには裏チケットを売る」


玲司は軽く肩をすくめた。


「家賃。紹介料。売上の取り分。みかじめ料。欲望区で商売するなら、金の流れを押さえたやつが一番強い」


詩乃は、玲司を見た。


「だからあなたは、総合商社みたいな顔をしているのね」


「悪いか?」


「褒めているのよ」


詩乃は微笑む。


「私が憧れを育てる。あなたが場所と流れを押さえる。悪くない組み合わせだわ」


玲司は、窓の外の行列を見下ろした。


レオさま公式ショップの看板が、昼の光の中で輝いている。


その隣では、アリスさま公式ショップにも人が並んでいた。


玲司は、その列を見ながら、口元だけで笑った。


「レオより成功してやる」


詩乃は何も言わなかった。


彼女の端末には、アリスコースとレオコースの売上が表示されている。


朝食セット。


サプリ。


ヨガプログラム。


声の調整レッスン。


表情同期講座。


歩き方の講座。


選ばれるための会話講座。


紹介した相手が商品を買えば、紹介料が入る。


詩乃はそれを、信仰の輪と呼んでいた。


玲司はそれを、金の流れだと思っていた。


同じ欲望を扱っていても、二人のやり方は違う。


それでも、二人とも同じ場所にいた。


欲望を持つ者を見下ろし、その欲望を金に変える側に。


街エリアでは、新しい仕事の朝が始まっていた。


欲望区では、新しい欲望の商売が動き始めていた。


同じ朝でも、誰かは働くために起き、誰かは欲望を動かすために起きる。


その違いが、少しずつ一日を分けていった。

読んでいただきありがとうございます。

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