表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

30/62

第30話 本物の悲劇と次の場所

久美子の言葉を聞いたあと、かすみと早希は何も言えませんでした。

その沈黙の中で、防具担当の先輩女性が久美子に声をかけます。


そして欲望区では、レイナが愛璃へ写真と手紙を届けることになります。

 沈黙は、しばらく続いた。


 誰も、すぐには次の言葉を出せなかった。


 かすみも、早希も、久美子の痛みに答える言葉を持っていなかった。


 その時、少し離れた場所から、静かな声がした。


「久美子」


 声をかけたのは、防具担当の先輩女性だった。


 久美子が途中で止めてしまった防具の補修を、代わりに進めてくれていた人だ。


 以前、久美子に「今は鏡を見るところじゃない」と言った人でもあった。


 久美子は、ゆっくり顔を上げた。


「あなたの気持ちに、うまく答えられるほど私は器用じゃない」


 先輩女性は、補修済みの防具を手に取った。


「でも、一つだけ言うね」


 久美子は黙って聞いた。


「恋愛が悪いわけじゃないよ」


 思いがけない言葉に、久美子の指が少し動いた。


「誰かに見てほしい。優しくされたい。選ばれたい。そう思う気持ちも、悪いものじゃない」


 先輩女性は、久美子の手元を見る。


「でも、恋愛だけに執着すると、自分の足元が見えなくなることがあるの」


「足元……」


「ないものを追いかけ続けるより、今あるものを磨いてみたら?」


 久美子は、自分の手を見た。


 この手で、防具を縫った。


 この手で、欲望区のドレスも作った。


 けれど、それを自分の価値だと思ったことはなかった。


「欲望区のドレス、内職で作っていたでしょう」


 先輩女性が言った。


「……見てたんですか」


「遠くから少しだけね」


 久美子は、少し恥ずかしくなって視線を落とした。


「あのドレス、上手にできていたよ」


 久美子はすぐには返事ができなかった。


「防具も、ドレスも、縫うことには変わりない。あなたには、手を動かして形にする力がある」


「私に、ですか」


「そう。縫う力。直す力。作る力」


 先輩女性の声は静かだった。


「もっと技術を身につけたらいいと思う」


 久美子は、自分の手を見つめた。


 整形しても、誰も気づかなかった。


 フェロモンを買っても、望んだものは来なかった。


 羨望を手放しても、何も残らなかった。


 でも、自分が作ったものを見ていた人がいた。


「かすみさんだって、何もしないで誰かに見つけられたわけじゃないと思うよ」


 先輩女性は、少し離れたところにいるかすみを見た。


 かすみは驚いたように顔を上げる。


「薬剤師になるために勉強していたんでしょう。ここに来てからも、薬草のことを覚えたり、回復魔法の使い方を考えたりしていた」


 久美子は、かすみを見る。


 かすみは何も言わなかった。


「そういう地味な積み重ねって、自分では目立たないと思うかもしれない。でも、見ている人には見えていることがある」


 久美子は、黙っていた。


 かすみは、何もしなくても誠司に選ばれたわけではなかったのかもしれない。


 薬草を覚え、回復のタイミングを考え、仲間の傷を見ていた。


 その姿を、誰かが見ていたのかもしれない。


「恋愛だけを追いかけていたからじゃなくて、自分のやることに向き合っていたから」


 先輩女性は言った。


「そういう人は、少しずつ輝いて見えることがある」


 久美子は、胸の奥が少し痛くなった。


「私も……そうなれますか」


「なれるかどうかは、これからのあなた次第」


 先輩女性は、淡々と言った。


「でも、あなたには磨けるものがある」


 久美子は、自分の手を握った。


「次のエリアには、服飾工房があるよ」


「服飾工房……?」


「防具だけじゃなくて、服の仕立てや修繕をする場所。私の知り合いがそこで働いてる」


 久美子は顔を上げた。


「欲望区のドレスを作っていたなら、向いているかもしれない」


「でも、私なんかが……」


「私なんか、で止まるなら何も始まらないよ」


 先輩女性は、少しだけ表情を緩めた。


「紹介してあげる。次のエリアに行けたらね」


 その時だった。


 食堂のあちこちで、端末の通知音が重なった。


 一人だけではない。


 かすみ。


 誠司。


 優。


 早希。


 大地。


 そして、久美子。


 全員の端末が、ほぼ同時に震えていた。


 久美子は、少し遅れて画面を見る。


 今回のエリア評価を確認しました。


 戦闘評価 達成


 共同作業評価 達成


 生活職評価 達成


 次の街エリアへの移動条件を満たしました。


「……合格?」


 久美子が小さくつぶやく。


 早希も端末を見ていた。


「みんな、同じ通知?」


「俺も来てる」


 大地が答える。


「僕も」


 誠司が言った。


 優も画面を見ながら、小さく息を吐く。


「次のエリアに行けるってことだね」


 かすみは通知の文字を見つめていた。


 このエリアで、みんな傷ついた。


 失敗もした。


 評価が下がったこともあった。


 それでも戦いを越えた。


 役割を果たした。


 そして、次へ進める。


 先輩女性が久美子を見る。


「次は、もっと街に近いエリアになるよ」


「街……」


「工房も増える。仕事の種類も増える。服飾工房もある」


 久美子は、端末を握ったまま黙っていた。


 ないものを追うより、今あるものを磨いてみたら。


 その言葉が、胸の奥に残っていた。


 すぐに前向きになれたわけではない。


 けれど、次の場所には、自分の手を使える場所がある。


「……服飾、やってみようかな」


 久美子は、小さく言った。


 誰もすぐには何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は、少しだけあたたかかった。


 その頃、欲望区では、レイナが封筒を持ったまま、戦闘後処理の部屋の出口で足を止めていた。


 このまま持っていくつもりだった。


 捨てていいものではない。


 愛璃に渡した方がいい。


 そう思った。


 けれど、翔の言葉が頭に残っていた。


 勝手に持ち出していいのか。


 レイナは封筒を見下ろす。


 写真。


 手紙。


 最後のメモ。


 どれも市場に出せるようなものではない。


 でも、だからといって勝手に持っていっていいものでもない。


「……確認する」


 レイナは、処理担当者のところへ戻った。


 端末に写真と手紙をかざすと、すぐに分類が出た。


 処分対象。


 私的記録物。


 市場価値なし。


 レイナはその文字を見つめた。


 市場価値なし。


 写真の中では、愛璃と彼が並んで笑っている。


 手紙には、愛璃の名前が何度も出てくる。


 最後のメモには、短い言葉が残されていた。


 俺にはもう守る人がいない。


「これ、関係者に渡せませんか」


 レイナが聞くと、処理担当者は面倒そうに画面を見た。


「処分対象だよ。市場価値もない」


「でも、写真に写っている人に渡したいんです」


「関係者?」


「愛璃さんです」


 その名前を出すと、処理担当者の手が少し止まった。


「……受取希望者がいるなら、個人保管扱いに変更できる。こちらから届ける義務はないけど」


「私が届けます」


「じゃあ、受け渡し記録だけ残して」


 レイナはうなずいた。


 端末に記録が残る。


 処分対象だった封筒は、個人保管扱いに変わった。


 市場価値なし。


 その文字は、まだ画面に残っていた。


 でもレイナには、それがどうしても捨てるものには見えなかった。


 愛璃のいる場所へ行くには、少し手続きが必要だった。


 愛璃は主演女優として扱われている。


 誰でも簡単に会えるわけではない。


 それでも、戦闘後処理で見つかった遺品の受け渡しだと伝えると、しばらく待たされたあと、短い面会だけが許された。


 通された部屋は、レイナが普段いる場所とはまるで違っていた。


 白い壁。


 整えられた椅子。


 静かな照明。


 戦いのあととは思えないほど、清潔で穏やかな場所だった。


 愛璃は、そこで一人座っていた。


 顔色は悪くない。


 けれど、どこかぼんやりしている。


 愛璃はレイナに気づくと、少し驚いた顔をした。


「レイナさん……?」


「急にごめん」


 レイナは封筒を両手で持った。


「戦闘後処理の仕事で、ある部屋に入ったの」


 愛璃の表情が、少しだけ変わる。


「ある部屋?」


「そこで、これを見つけた」


 レイナは封筒を差し出した。


 愛璃はすぐには受け取らなかった。


 何かを感じ取ったように、封筒を見つめている。


「……誰の?」


 レイナは答えに詰まった。


 でも、黙っていることはできなかった。


「あなたの、元カレの部屋だった」


 愛璃の指先が止まった。


 部屋の空気が、一瞬で変わった。


「……え?」


 愛璃の声は、とても小さかった。


「戦いのあと、戻らなかった人の部屋を整理する仕事だった」


 レイナは言葉を選びながら続けた。


「そこに、あなたと一緒に写っている写真があった」


 愛璃はゆっくり封筒を受け取った。


 指が震えている。


 中から写真を取り出した瞬間、愛璃の呼吸が止まったように見えた。


 写真の中には、彼がいた。


 愛璃の隣で、少し照れたように笑っている。


 その横で、愛璃も笑っていた。


 今の愛璃が、仕事で作る悲しい顔ではない。


 ただ、誰かの隣で安心している顔だった。


「……これ」


 愛璃の声が震えた。


「まだ、持ってたんだ」


 レイナは何も言えなかった。


 愛璃は写真を見つめたまま、少しずつ息を乱していく。


 封筒の中には、手紙も残っていた。


 愛璃はそれに気づき、震える手で開いた。


 そこには、彼の字で愛璃のことが書かれていた。


 愛璃は無理していないだろうか。


 悲しい役ばかりで疲れていないだろうか。


 戦いの日は、ちゃんと安全な場所にいるだろうか。


 別れたあとも、彼は愛璃のことを気にしていた。


 愛璃は文字を追いながら、何度も止まった。


 読み進めるほど、顔から色が抜けていく。


「なんで……」


 声がこぼれた。


「別れたのに」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


「もう疲れたって言ったのに」


 写真の上に、涙が一つ落ちた。


 愛璃は慌てて写真を胸元に引き寄せる。


 濡らしたくなかった。


 けれど、涙は止まらなかった。


 そして、最後の小さな紙を見つけた。


 愛璃はそれを開いた。


 そこには、短い言葉だけが残されていた。


 俺にはもう守る人がいない。


 愛璃は、その一文から目を離せなかった。


 戦いの日。


 いつも彼はそばにいた。


 怖い時は少し前に立ってくれた。


 危ない時は、自分の後ろにいるように言ってくれた。


 そのことを、愛璃は当たり前のように受け取っていた。


 守られていた。


 ずっと。


 でも、自分はそれを忘れていた。


 悲劇のヒロインの仕事に夢中だった。


 失恋の痛みさえ、役に使えるものとして考えていた。


 彼を失ったことより、次の悲しい役をどう演じるかを考えていた。


「……私」


 愛璃の声はかすれていた。


「私、何してたんだろう」


 レイナは、何も言えなかった。


 愛璃は椅子から崩れるように床へ座り込んだ。


 写真と手紙を抱きしめたまま、声を抑えることもできずに泣いた。


 それは、もう悲劇のヒロインの涙ではなかった。


「私、悲しい役ばっかり考えてた」


「この痛みを使えば、もっと悲しく見えるって」


「でも、違った」


 愛璃は、言葉を途切れさせながら続けた。


「本当に、いなくなったんだ」


 レイナの胸も苦しくなった。


 悲劇のヒロイン。


 その言葉を、レイナは何度も聞いたことがある。


 欲望区では、悲しみも、痛みも、才能も、魅力も、全部が商品になる。


 愛璃は、悲劇を演じることで評価されていた。


 でも、今ここにいる愛璃は、役を演じているわけではなかった。


 台本もない。


 観客もいない。


 評価もない。


 ただ、大切だった人を失った女の子が泣いているだけだった。


「渡してよかったのか、分からない」


 レイナは小さく言った。


 愛璃は涙で濡れた顔を上げた。


「……ありがとう」


 その声は、ほとんど息のようだった。


「知らないままだったら、私」


 そこから先は、言葉にならなかった。


 知らないままなら、楽だったかもしれない。


 でも、知らないままなら、彼の最後の想いも処分されていた。


 どちらがよかったのか、レイナには分からない。


 愛璃にも、きっと分からない。


 ただ、写真と手紙は、愛璃の腕の中に残った。


 その日の夜、愛璃の端末には一つの通知が届いていた。


 悲劇のヒロイン効果


 利用期間が終了しました。


 愛璃は、ぼんやりとその文字を見た。


 そういえば、そんな効果を使っていた。


 悲しい役に入りやすくなる。


 悲劇的な表情が自然に出る。


 観る者に儚さを印象づける。


 そんな案内に惹かれて、利用したものだった。


 でも、今さらその効果が消えたところで、何も変わらなかった。


 胸の痛みは消えない。


 涙も止まらない。


 彼の最後のメモは、何度見ても心を刺した。


 俺にはもう守る人がいない。


 愛璃は、端末を伏せた。


 効果は消えた。


 それでも、悲しい顔はできた。


 悲しい声も出た。


 悲劇のヒロインを演じるための商品は、もう残っていない。


 けれど、本物の悲しみだけが残っていた。


 数日後、愛璃は仕事に戻った。


 周囲は心配した。


 けれど、仕事の場に立った愛璃を見て、すぐに空気が変わった。


「……すごい」


 誰かが小さくつぶやいた。


「前より、深いね」


「本物の喪失を知った人の表情だ」


「やっぱり、悲劇のヒロインは愛璃さんしかいない」


 愛璃は、その言葉を聞いても笑えなかった。


 褒められている。


 評価されている。


 でも、その評価は少しも嬉しくなかった。


 役に入っているのではない。


 戻れなくなっているだけだった。


 悲劇のヒロイン効果は、もう消えている。


 それなのに、愛璃は悲劇を演じられた。


 それは才能ではなく、失ったものが戻らない証拠だった。


 撮影が終わったあと、愛璃は一人で控室に戻った。


 鏡の中の自分を見る。


 泣きはらした目。


 疲れた顔。


 けれど、どこか役に合ってしまう顔。


「……最低」


 小さくつぶやく。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 この世界に対してなのか。


 自分に対してなのか。


 それとも、悲しみさえ評価する人たちに対してなのか。


 端末が震えた。


 新しい仕事の案内が届いていた。


 喪失を抱えたヒロイン役


 泣きの演技重視


 主演候補


 愛璃は、その文字を見つめた。


 涙はもう出なかった。


 ただ、胸の奥だけが静かに痛んだ。


 悲劇のヒロインを演じていた時よりも。


 本当に悲劇を抱えた愛璃の方が、ずっと求められていた。


 レイナは、その後もしばらく愛璃の泣き顔を忘れられなかった。


 欲望区では、何でも売れる。


 何でも買える。


 悲しみも、魅力も、強さも、評価も。


 けれど、失った人だけは戻らない。


 レイナは自分の端末を見た。


 武器強化の案内。


 戦闘後処理の案内。


 次の仕事の通知。


 欲望区は、相変わらず何かを差し出せと迫ってくる。


 レイナは端末を閉じた。


 久美子には、次の場所へ進む道が開いた。


 自分の手で何かを作る道が。


 愛璃には、戻らない悲しみが残った。


 演技ではない、本物の悲劇が。


 この世界は、それすら価値として数え始めていた。

読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ