第27話 戻った感情
戦いの日の朝。
久美子の感情は、ぎりぎりで戻り始めます。
けれど、戻ってきたのは、明るい気持ちだけではありませんでした。
戦いの日の朝、久美子の端末に通知が届いていた。
羨望感情 一時手放し
お試し期間が終了しました。
久美子は、しばらくその文字を見つめていた。
終わった。
そのはずだった。
けれど、胸の奥にはまだ変な静けさが残っている。
何も感じないわけではない。
でも、全部が元通りになった感じもしない。
しばらくすると、遅れて嫌な感情が戻ってきた。
羨ましさ。
悔しさ。
置いていかれる感じ。
かすみと誠司が並んで話しているのを見た時の、胸のざらつき。
早希にきつく言われた時の、みじめさ。
それが、少しずつ戻ってくる。
「……最悪」
久美子は小さくつぶやいた。
楽だったのに。
何も感じない方が、ずっと楽だったのに。
端末が、もう一度震えた。
責任評価が低下しました。
担当していた防具補修を完了できませんでした。
久美子は、その文字を見つめた。
「……何これ」
自分の責任評価が下がった。
それだけは、画面を見れば分かった。
食堂に行くと、かすみたちはすでに集まっていた。
今日は戦いの日だ。
誰もが落ち着かない顔をしている。
大地は武器を確認していた。
誠司は配置の確認をしている。
早希は回復薬の数を見ていた。
かすみは久美子に気づいて、すぐに近づいてきた。
「久美子、戻ったの?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「お試しは終わった」
久美子は端末を見せた。
かすみは画面を見て、少しだけ安心したような顔をした。
「よかった……」
その声が、久美子には少し刺さった。
よかった。
本当に、よかったのだろうか。
戻ったせいで、また嫌な気持ちも戻ってきた。
比べる気持ちも、みじめな気持ちも戻ってきた。
なのに、よかったと言われる。
「でも、もう変なものを売ったり買ったりしないでね」
かすみが言った。
「本当に心配したんだよ」
久美子は何も返さなかった。
早希も近づいてくる。
「評価が下がるから、本当は言いたくないけど言うね」
早希は、自分の端末を一度見た。
「こういう言い方をしたら、たぶん私の対人評価も下がる」
「……じゃあ言わなきゃいいじゃん」
「言わない方が怖いから言うの」
早希は、久美子をまっすぐ見た。
「久美子が止まってた間、防具の補修も止まってたでしょ」
「……防具?」
「他の防具担当の人が気を利かせて、久美子の分までやってくれてたんだよ。だから間に合っただけ」
久美子は何も言えなかった。
「その人は協力評価が上がったらしいよ。でも久美子は、責任評価が下がった」
早希の声はきつかった。
「防具が間に合ったからいい、じゃないんだよ。久美子が責任を果たしたわけじゃない」
早希の端末が震えた。
対人評価が低下しました。
相手を追い詰める発言が確認されました。
早希は画面を見た。
「ほら、下がった」
それでも、早希は言葉を止めなかった。
「でも、言わなきゃいけなかった」
かすみも、小さく息を吸った。
「私も、言いたくない」
杖を握る手に力が入る。
「責める言葉になるのは分かってる。評価が下がるかもしれないのも分かってる」
「じゃあ、やめてよ」
久美子が言う。
かすみは首を振った。
「でも、言わないと久美子がまた同じことをするかもしれない」
かすみの声は震えていた。
「私たち、戦いの日に死にたくない」
かすみの端末も震えた。
対人評価が低下しました。
相手を追い詰める発言が確認されました。
かすみは、画面を見てから、静かに端末を伏せた。
久美子は二人を見た。
評価が下がると分かっていても、自分に言う。
そのことが、余計に苦しかった。
「じゃあ何?」
久美子の声が、思ったより強く出た。
「私が全部悪いって言いたいの?」
「久美子、そうじゃなくて――」
「評価が下がってまで責めるくらい、私ってそんなに迷惑だった?」
かすみが言葉を止める。
早希の表情も少し固くなる。
久美子は、止まらなかった。
「私は、ずっと比べてた」
久美子は、かすみを見た。
「かすみと誠司は、恋人同士で、お互いのことをちゃんと想い合ってる」
声が震える。
「他の男の人たちも、他の女の子には優しい。困っていたら声をかけるし、荷物だって持つし、ちゃんと見てくれる」
久美子は、自分の手元を見た。
「でも、私のことは誰も見てくれない」
「困っていても、助けてくれる男の人なんていない」
次に、早希を見る。
「早希は運動もできる。体力もある。仕事もちゃんとできる」
「でも、私には何もない」
胸の奥から、押し込めていたものがあふれてくる。
「かすみが羨ましかった」
「早希も羨ましかった」
「羨ましくて仕方なかった」
「そんな惨めな自分が嫌だった」
久美子の声が、少しずつ崩れていく。
「だから、もう苦しみを手放したかったの」
「私だって、こんな気持ち持ちたくなかった!」
その声が、食堂に響いた。
久美子の端末が震えた。
対人評価が低下しました。
感情的な発言により、周囲との信頼が損なわれました。
久美子は、その画面を見た。
「……また下がった」
小さく笑った。
でも、その声は少しも楽しそうではなかった。
「本当のこと言っても、下がるんだ」
誰もすぐには何も言えなかった。
かすみは、言葉を探していた。
早希も、さっきまでの勢いを失っていた。
同じ頃、欲望区でも戦いの日の準備が進んでいた。
レイナと翔は、店の前で回復薬を確認していた。
腰の袋には、いつもより多めの薬が入っている。
その分、お金も減っていた。
「正式パーティーはいいよね」
レイナがつぶやく。
「魔法を使える人がいれば、回復薬もこんなに使わなくて済むのに」
「こっちは飲むたびに金が減る」
翔が言った。
「戦う前から金がかかるな」
レイナは端末を見た。
今回も、正式パーティーからの誘いは来ていない。
「やっぱり誘われないね」
「今さらだろ」
「この前、一緒に戦った人たち、探してみよう」
「野良同士なら、向こうも困ってるかもな」
二人は広場へ向かった。
そこには、同じように正式なパーティーに入れなかった者たちが集まっていた。
しばらく探していると、見覚えのある顔があった。
「あ」
レイナが声を上げる。
相手も気づいて、少しだけ手を上げた。
「また一緒か」
翔が言うと、相手の一人が苦笑した。
「正式パーティーに入れない者同士、ちょうどいいだろ」
「回復役は?」
レイナが聞く。
相手は首を振った。
「いない。薬で何とかするしかない」
「やっぱりね」
レイナは腰の回復薬を確認した。
不安はある。
それでも、一人で戦うよりはいい。
前に一度組んだ相手なら、少しは動きも分かる。
「今回も組もう」
レイナが言う。
相手はうなずいた。
「生き残れたら、それで十分だ」
翔は小さく息を吐いた。
「本当に、それだな」
別の場所で、愛璃の端末にも通知が届いていた。
主演女優保護対象
戦いの日は、特別シェルターへ移動してください。
芸能活動における価値保護のため、前線参加は免除されます。
戦いの日、愛璃の仕事はすべて休みになっていた。
撮影も、面談もない。
案内に従い、愛璃は敵が来ない場所で過ごしていた。
仕事がないと、急に時間が余った。
その空白に、ふと元カレのことが浮かんだ。
別れたあとも、愛璃は悲劇のヒロインの仕事のことばかり考えていた。
この痛みをどう役に使うか。
どう見せれば、もっと悲しく見えるか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は、何もすることがない。
外では戦いが起きようとしている。
彼も、どこかで準備をしているのだろうか。
「……大丈夫かな」
口に出してから、愛璃は少しだけ寂しくなった。
もう関係ないはずなのに。
かすみたちのいる場所では、まだ重い沈黙が続いていた。
久美子は端末を握ったまま、うつむいている。
かすみも早希も、何を言えばいいのか分からなかった。
その時だった。
遠くで、低い鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
続いて、外から叫び声が聞こえる。
「敵だ!」
「門の方に来てる!」
誠司がすぐに立ち上がった。
「話はあとだ。行こう」
大地が武器を持つ。
早希も端末をしまった。
かすみは一瞬だけ久美子を見る。
久美子は、まだ震える手で剣を握った。
胸の中は、ぐちゃぐちゃなままだった。
それでも、戦いの日は待ってくれない。
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