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第26話 戦いの日が近づく

戦いの日が近づいています。

けれど、久美子はまだ元に戻っていません。

 翌朝になっても、久美子の様子は戻っていなかった。


 髪は昨日と同じように乱れたまま。


 顔も洗ったのか分からない。


 服だけは着替えていたけれど、それもただ近くにあったものを身につけただけのように見えた。


 食堂に来ても、久美子はぼんやり座っているだけだった。


「久美子、今日も髪とかしてないの?」


 早希が声をかける。


「……めんどくさい」


「お風呂は?」


「入ってない」


「昨日もでしょ」


「別に、死なないし」


 その言い方に、かすみは胸の奥が冷たくなった。


 昨日の久美子は、ただ疲れているだけに見えなくもなかった。


 でも、今日も同じなら違う。


 一時的な気分ではない。


 何かが、まだ久美子の中に残っている。


 食事の途中で、誠司が端末を見ながら言った。


「そろそろ戦いの日が近いと思う」


 その言葉に、大地が顔を上げる。


「もうそんな時期か」


「街に強い敵がたくさん来る日だろ。前衛と後衛の動き、ちゃんと合わせておいた方がいい」


 早希もうなずいた。


「そうだね。ぶっつけ本番は危ないと思う」


「外の弱い敵で、連携だけでも確認しよう」


 誠司がそう言うと、みんなは自然に準備の話へ移った。


 誰が前に出るか。


 後衛はどの位置から支援するか。


 回復が必要になった時、どの合図で下がるか。


 そういう話をしている間も、久美子だけはほとんど反応しなかった。


 大地がふと思い出したように言う。


「ところで久美子、防具の補修って終わってる?」


「え?」


 久美子は、ぼんやりと大地を見た。


「こないだ頼んだだろ。肩の留め具と、内側のほつれ」


「……そうだっけ」


「そうだっけ、じゃないよ」


 早希の声が少し強くなる。


「戦いの日が近いのに、防具そのままなの?」


「別に、少しくらい大丈夫じゃない?」


「大丈夫じゃないから頼んだんでしょ」


 久美子は責められていることにも、あまり反応しなかった。


 怒るわけでもない。


 言い訳するわけでもない。


 ただ、どうでもよさそうに座っている。


 かすみは、その様子が怖かった。


 久美子が動かないだけではない。


 久美子に任せていたものまで、止まっている。


「久美子、連携練習に行くよ」


 かすみが声をかけた。


「……めんどくさい」


「戦いの日が近いんだよ」


「別に、いいじゃん」


「よくないよ」


「……私、別に死んでもいいかも」


 その場の空気が止まった。


 かすみは、久美子の顔を見た。


 冗談を言っている顔ではなかった。


 でも、深く絶望している顔にも見えなかった。


 ただ、本当にどうでもいいという顔だった。


「何言ってるの」


 早希が低い声で言った。


「久美子が一人でそう思ってるのは勝手かもしれないけど、私たちまで巻き込まないで」


「……巻き込む?」


「前衛が動かなかったら、後ろまで危ないんだよ」


 早希は久美子をまっすぐ見た。


「戦いの日は、このメンバーで戦うんでしょ。ちゃんと動いてもらわないと困る」


 久美子は黙った。


 けれど、その顔には危機感がなかった。


「久美子」


 かすみは、ゆっくり名前を呼んだ。


「もしかして、また何か売ったり買ったりしてない?」


「……別に」


「端末、見せて」


 久美子は抵抗しなかった。


 面倒くさそうに端末を差し出す。


「勝手にどうぞ」


 かすみと早希は、画面をのぞき込んだ。


 そこには、やはり案内が出ていた。


 羨望感情 一時手放し利用中


 お試し終了まで あと三日


「……やっぱり」


 かすみの声が小さく落ちた。


 さらに下には、別の表示が並んでいた。


 今すぐ取り消す

 ※高額な手数料が発生します


 静けさ継続プラン


 比較しない心 強化版


 向上心 一時取得プラン


 戦闘意欲 補助プラン


 生存意欲 再点灯


 早希が息をのむ。


「何これ」


「お試し」


 久美子は他人事のように答えた。


「お試しじゃないでしょ。防具の補修も忘れてるし、練習にも行こうとしないし」


「三日で終わるし」


「三日待ってたら、練習する時間がなくなるでしょ」


 早希の声がきつくなった。


「戦いの日に連携できなかったら、みんなに迷惑かけるんだよ」


「……迷惑なら、置いていけば」


「置いていけないから言ってるの」


 かすみは端末の画面を見つめた。


 苦しさを消すのも商品。


 静けさを続けるのも商品。


 戻すことさえ、商品。


 全部に値段がついている。


「今すぐ取り消せないのかな」


「高いよ」


 久美子は簡単に言った。


「払えないくらい?」


「たぶん」


 早希が歯を食いしばる。


「なんでそんなもの、簡単に使うの」


「だって、気持ちが楽になりたかったから」


 久美子は、かすみと誠司の方を少しだけ見た。


「羨ましくないし、むかつかないし、比べなくていいし」


「でも、やる気までなくなってる」


 かすみは言った。


「防具のことも、練習のことも、どうでもよくなってる」


「それの何が悪いの」


「命に関わるからだよ」


 かすみの声が震えた。


「久美子だけの問題じゃないから」


 久美子は黙った。


 けれど、その沈黙にも反省の色は薄かった。


 かすみは少し迷ってから、杖を取り出した。


「久美子、少しだけ試させて」


「何を?」


「回復魔法。効くか分からないけど」


「気持ちに?」


「分からない。でも、このまま練習に行けない方が怖い」


 久美子はしばらく動かなかった。


 剣も端末もそばにあるのに、手を伸ばそうとしない。


「……勝手にすれば」


 ようやく、久美子が小さく言った。


 かすみは杖を久美子に向けた。


「弱めにかけるね」


「……好きにすれば」


 杖の先に、淡い光がともる。


 かすみは、いつもの回復魔法より少し力を抑えて唱えた。


 光が久美子の体を包む。


 最初、久美子は何も感じていないようだった。


 けれど、少ししてから小さく眉を寄せた。


「……何か、きてるかも」


「効いてる?」


「分かんない。でも、ちょっと嫌な感じが戻ってきた」


「嫌な感じ?」


「比べる感じ。むかつく感じ。置いていかれる感じ」


 かすみは何も言えなかった。


 戻ったのは、明るい気持ちではなかった。


 久美子が消したかったものだった。


 でも、それと一緒に、久美子を動かしていたものも少し戻ってきたように見えた。


「練習、行けそう?」


 かすみが聞く。


「やる気はない」


「うん」


「でも、行かないとまたうるさいんでしょ」


「うるさく言うよ。命がかかってるから」


「……じゃあ、行く」


 久美子は、ゆっくり立ち上がった。


 剣を手に取る。


 けれど、その動きは重かった。


 前の久美子に戻ったわけではない。


 ただ、ようやく動いただけだった。


 練習には行けた。


 けれど、治ったわけではなかった。


 久美子は剣を構えた。


 弱い敵を相手に、前衛として最低限は動いた。


 けれど、踏み込みは浅い。


 声をかけられてから反応するまでに、わずかに遅れる。


 敵を止める動きも、どこか投げやりだった。


「久美子、右!」


 早希の声で、久美子がようやく動く。


 剣が敵の前をかすめ、動きを止める。


 止められた。


 でも、ぎりぎりだった。


「今の、実戦なら危なかったよ」


 早希が言う。


「止めたじゃん」


「遅いって言ってるの」


「動いたでしょ」


「動いたけど、やる気なしじゃん」


 久美子は面倒くさそうに剣を下ろした。


「……だって、ないし」


「ないまま本番に出られたら困るの」


 かすみは二人の間に入るように声をかけた。


「もう一回やろう。今度は、敵が横に流れたら久美子が止めて。大地は前に出すぎないで。私は後ろから回復の位置を見る」


 何度か繰り返すうちに、形だけは少し整った。


 久美子は動いた。


 剣も振った。


 前衛として、敵を止める動きも何度かできた。


 けれど、かすみの胸の不安は消えなかった。


 これは、治ったのではない。


 無理に身体だけを起こしたようなものだ。


 練習を終える頃、久美子は疲れた顔で剣を下ろした。


「……もういいでしょ」


「今日は、ね」


 早希が答える。


 けれど、その声は軽くなかった。


 戦いの日までに、久美子は本当に戻るのか。


 お試し期間が終われば元通りになるのか。


 それとも、何かが欠けたまま残るのか。


 かすみには、まだ分からなかった。


 同じ頃、欲望区にも戦いの日の案内が届いていた。


 レイナと翔は、端末に並ぶ文字を見つめていた。


 戦いの日が近づいています。


 配置区域を確認してください。


 それだけなら、もう驚かなかった。


 けれど、その下に別の案内が続いている。


 武器強化を推奨します。


 現在の装備では、一定以上の敵に対して火力不足となる可能性があります。


 翔が小さく舌打ちした。


「まだ足りないのかよ」


 レイナも画面から目を離せなかった。


「この前、強化したばかりじゃない」


「練習もした。スキルも前よりは出せる」


「それでも足りないって言うの?」


 通知は、さらに続いていた。


 戦いの日 対策強化キャンペーン


 攻撃力上昇


 耐久値補正


 スキル発動率補助


 今なら分割支払い可能


「お金ばっかりかかるな」


 翔が低く言う。


「強くなるにも、守るにも、全部お金」


 レイナは画面を閉じようとして、別の通知に気づいた。


 資金が不足している方へ


 高報酬の戦闘後処理業務があります。


 遺品整理あり。


 未経験可。


 翔の表情が沈む。


「また来た」


「断れないの?」


 レイナはそう言いかけて、途中で声を弱めた。


 断れない理由は、もう分かっていた。


 欲望区に来たばかりの頃、二人は闇関係の人間に関わってしまった。


 最初は、親切そうに見えた。


 稼げる仕事を紹介してくれると言われた。


 困っているなら助けると言われた。


 でも、一度入れば簡単には切れない。


 借りも、履歴も、弱みも、全部向こうの手に残っている。


「最初に関わった時点で、簡単には切れないんだよ」


 翔は、画面を閉じなかった。


「戦って、終わったら片づけて、また金を作って、武器を強くして」


 レイナは、画面に並ぶ文字を見つめた。


「これ、いつまで続くの」


 その時、別の場所で、愛璃の端末にも通知が届いていた。


 主演女優保護対象


 戦いの日は、特別シェルターへ移動してください。


 芸能活動における価値保護のため、前線参加は免除されます。


 愛璃は、その文字をじっと見つめた。


 戦わなくていい。


 それは、ありがたいことのはずだった。


 でも、「価値保護」という文字が、妙に冷たく見えた。


 自分が守られるのは、自分が大切だからなのか。


 それとも、商品としてまだ使えるからなのか。


 答えは、どこにも書かれていなかった。


 欲望区では、守られる者がいる。


 戦わされる者がいる。


 そして、戦いのあとまで逃げられない者がいる。


 かすみたちの場所では、久美子がまだ戻っていない。


 欲望区では、レイナと翔がまだ足りないと言われている。


 動けない者。


 動くしかない者。


 守られる者。


 戦わされる者。


 それぞれの端末に、同じように戦いの日の通知が残っていた。


 戦いの日は、もうすぐそこまで来ていた。

読んでいただきありがとうございます。

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