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第25話 大事なものを失う

失ってから、それが大事だったと気づくこともあります。

 愛璃は、別れたあともしばらくその場から動けなかった。


 彼の最後の言葉が、まだ耳の奥に残っている。


「……もう疲れた」

「別れよう」


 怒鳴られたわけじゃない。

 責められたわけでもない。

 それなのに、静かだったぶんだけ余計に冷たかった。


 愛璃は何も言い返せなかった。


 さっきまであれだけ言葉があふれていたのに、その一言で全部止まった。

 部屋に戻ってからも、しばらく端末を見つめることしかできない。


「……やっぱり」


 小さくつぶやく。


「やっぱり、嫌いだったんだ」


 そう思うと、胸の奥がひどく静かに痛んだ。


 でもその痛みさえ、今の愛璃にはどこか馴染みがよかった。


 悲しくて、重くて、報われなくて。

 まるで今の役の続きを、そのまま生きているみたいだった。


 端末を開く。

 しばらく迷ってから、SNSの画面を開いた。


 指先が少し震える。

 それでも、書き始めると止まらなかった。


 今は少し失恋中です

 こういう時ほど、悲しい役は上手くできるのかもしれません


 書いてから、一度消す。

 でもまた打ち直す。


 また一つ、大切だと思っていたものがなくなりました

 でも、こういう痛みがあるから私は悲しい役に呼ばれるのかもしれません


 愛璃はその文章を見て、少しだけ息を吐いた。


 悲しかった。

 でも、それをそのまま書いたことで、少しだけ整った気もした。


 投稿する。


 しばらくすると、すぐに反応がついた。


 大丈夫ですか

 無理しないでください


 だから最近の演技に深みがあったんですね


 そういう繊細さが役に出てるんだと思います


 愛璃はその言葉を見つめた。


 心配されている。

 でも同時に、ちゃんと役と結びつけられている。


 それが少しだけ嬉しくて、少しだけ気持ち悪かった。


 翌日、芸能関係の仕事用端末に新しい連絡が入った。


 次回案件の相談があります

 面談希望


 面談相手は、欲望区側の演出関係者だった。

 愛璃は少し迷ってから、そのまま会いに行く。


 そこで言われたのは、思っていたよりずっと露骨な言葉だった。


「最近の愛璃さん、すごくいいよね」


 男は資料を見ながら、軽い調子で言った。


「失恋したんだって?」


 愛璃の肩がわずかに揺れる。


「……はい」


「今の感じ、使えると思うんだよね」


 その言葉に、愛璃は少しだけ目を伏せた。


「次の役、不幸な恋愛ものなんだけど」

「今の君にやらせたら、かなりはまると思う」


 愛璃は何も言わなかった。


 驚きはした。

 でも、まったく予想していなかったわけでもない。


 今の自分が、悲しい役に近いことくらい、自分でもわかっていたからだ。


「もちろん、無理なら断っていいよ」


 そう言いながら、その男はもう断られないと思っている顔だった。


「でも今の空気、たぶん今しか出ない」


 その一言が、愛璃の胸の奥に刺さる。


 今しか出ない。

 今の痛み。

 今の重さ。

 今の報われなさ。


 それが役になる。

 それなら、この別れにも意味があるのかもしれないと、ほんの少し思ってしまった。


「……やります」


 そう答えると、相手は満足そうに笑った。


「やっぱりね」


 その笑い方は少し嫌だった。

 でも、断れなかった。


 帰り道、欲望区の明るい通りを歩きながら、愛璃はぼんやり思う。


 彼を失った。

 でも、その失った痛みでまた役が来る。


 不幸なのに、仕事は来る。

 悲しいのに、評価はされる。


 だったら、私はどうすればいいんだろう。


「……私には、こういう役がお似合いなのかな」


 小さくつぶやく。


 端末が小さく震えた。


 画面には、今の愛璃にぴったり寄り添うような勧誘が並んでいた。


 報われない恋心 表現補助

 喪失感の深度調整 利用可能

 悲劇のヒロイン感情 強化版あります


 そのすぐ下に、逆向きの勧誘まで並ぶ。


 新しい恋人を呼ぶ効果 利用可能

 恋愛をする心 売ります

 幸せな心 売ります

 不幸 買います


 愛璃はその画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 彼を失ったばかりなのに、もう次を差し出してくる。

 悲劇をもっと濃くする道もある。

 逆に、幸せへ切り替える道もある。


 でも、どちらも結局は商品だった。


「……ほんと、最低」


 そうつぶやいたのに、画面は閉じられなかった。


 今の自分におすすめ、という感じで並ぶ文字が、妙に自然に見える。


 彼と別れた。

 それはたしかに苦しい。

 でも今の自分は、苦しい方が似合う。

 そんなふうに思い始めているのが、自分でも少し怖かった。


 怖いのに、役を失う方がもっと怖い。


 愛璃はやっと端末を閉じた。

 でも閉じただけで、心はもう離れていなかった。


 初期エリアでは、久美子が朝からぼんやりしていた。


 かすみと誠司が並んで食事をしていても、今日はあまり胸が痛まない。

 魔法組の話を聞いても、前みたいにざらつかない。


「……静か」


 それは楽だった。


 羨ましくない。

 比べなくていい。

 刺さらない。

 ただ、その代わりに別のものまで静かになっていた。


 髪をとかそうと思わない。

 顔を洗って整えようとも思わない。

 化粧もしない。


 彼氏ほしい、とも思わない。

 綺麗になりたい、とも思わない。

 バイトして鍛えよう、という気持ちも薄い。


 苦しくない代わりに、欲しいものまで遠くなっていた。


 食堂で顔を合わせたかすみが、すぐに眉を寄せる。


「久美子、大丈夫?」


「……別に」


「髪、とかした方がいいよ」


「どうでもいい」


「お風呂入った?」


「入ってない」


「いや、入りなよ。ちょっと臭うって」


 それでも久美子は、少しも気にしていない顔だった。


「前より楽だし」


「何が?」


「羨ましくなくなっただけ」

「だって、苦しくないし」


 その言い方に、かすみの表情が固くなる。


「久美子」


 声が少し強くなる。


「また売ったり買ったりしたでしょ?」


 久美子はぼんやりと返した。


「……別に」


「別にじゃないよ」

「そうじゃなきゃ、こんな急に変わらないでしょ」


「かすみは売ったり買ったりしないの?」


 その一言で、かすみの言葉が止まる。


 昨日、自分の端末に出た通知を思い出した。


 二人の愛を、もう少し深めませんか?

 初めての恋に戸惑う方へ

 関係補助プラン 案内中


 ほんの少しだけ、指が止まった。

 もっと相手の気持ちがわかったら、と少しだけ思った。


 でも今、目の前の久美子を見ていると、その“ほんの少し”すら怖くなる。


 やっぱり、こういうものに手を出しちゃいけない。


「……」


「どうしたの?」


 誠司が、かすみの顔を見る。


 かすみは少しだけ首を振った。


「……ううん。何でもない」


 誠司はそれ以上は聞かなかった。


 かすみが途中で黙ったことには気づいた。

 でも、久美子の変化そのものには気づいていないようだった。


 いや、気づいていなかったというより、最初から見ていなかったのかもしれない。

 誠司以外の男たちも同じだった。

 女子なら目につくような細かい変化にも、誰一人反応しない。

 久美子のぼさぼさ頭なんて、どうでもいいという感じだった。


「今日バイトは?」


 早希が声をかける。


 大地もその横で、久美子を見た。


「……休む」


「え?」


「欲しいもの、なくなったし」

「別にもう鍛えなくてもいいかなって」


 早希が少し眉をひそめる。


「何それ」


「だって、前より楽だし」


 久美子は本当にそう思っていた。


 羨ましくない。

 苦しくない。

 誰かと比べて胸がざらつくこともない。


 楽だった。


 でも、その楽さは、あまりにも静かすぎた。


 端末が震える。


 久美子は何となく画面を開いた。


 羨望感情 一時手放し利用中

 心の静けさを保てていますか?


 その下には、二つの方向の勧誘が並んでいた。


 現在の静けさを、もう少し続けませんか?

 羨望感情 継続利用可能

 比較しない心 強化版あります


 そして、そのすぐ下には逆向きのものも出ている。


 恋愛したい心 再点灯可能

 綺麗になりたい気持ち 再導入できます

 向上心 一時取得プランあります


 久美子はその文字を見つめた。


 静けさ。

 たしかに、そうだった。


 でもその静けさの中で、自分は何を失っているんだろう。


 少し離れた席では、かすみと誠司が小さく話している。

 その距離はやっぱり自然で、前の久美子ならまた胸がざわついたはずだった。


 でも今は何も起きない。


 羨ましくない。

 苦しくない。

 だけど、その代わりに大事なものまで消えていく感じがした。


 欲望区では、愛璃が彼氏を失った。

 それなのに、その失った痛みで次の役が来る。


 初期エリアでは、久美子が羨望を失った。

 その代わりに、恋をしたい気持ちも、綺麗になりたい気持ちも、頑張りたい気持ちも少しずつ遠くなっていた。


 愛璃は彼氏を失い、久美子は羨望を失った。


 失ったものは違うのに、二人とも少しずつ、自分の大事な輪郭を削られていた。

今回は、愛璃は彼氏を失った痛みさえ役につなげられてしまい、久美子は羨望を手放したことで苦しさと一緒に欲しい気持ちまで弱くなる形にしました。

強化する道と逆へ戻す道、その両方が商品として並ぶ世界のいやらしさも入れています。


読んでいただきありがとうございます。

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