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第23話 役が終わらない

借りたものは、切れる前がいちばん怖いのかもしれません。

 愛璃の端末が、小さく震えた。


 画面には、昨日から何度も見ていた感情名が出ている。


 悲劇のヒロインになれる感情

 効果終了が近づいています

 継続しますか?


 YES / NO


 その下には、細い文字が続いていた。


 ※継続には高額の更新料が発生します

 ※同一感情の再取得は保証されません

 ※使用停止後も残響が続く場合があります


 愛璃はその文を、しばらく黙って見ていた。


 高い。

 最初にガチャを回した時より、ずっと高い。


 初回は安かった。

 だから、少し試してみるだけのつもりだった。


 悲劇のヒロイン役のオーディションに受かれば、それで終わり。

 そのあとはまた別の感情を考えればいい。

 そんなふうに、どこか軽く思っていた。


 けれど、役は取れてしまった。

 しかも、この感情のおかげで。


 ここで切れたらどうなるのか。

 次の読み合わせで急に薄くなったら。

 昨日みたいに、自然に悲しめなくなったら。


 もう一回ガチャを回して、同じものが出る保証はない。


「……やだ」


 小さくつぶやいて、愛璃は指先で YES に触れた。


 端末が淡く光る。


 更新が完了しました

 悲劇のヒロインになれる感情

 効果が延長されました


 その文字を見た瞬間、愛璃は小さく息を吐いた。


 これでまだ続く。

 そう思ったのに、不安は消えなかった。


 次の読み合わせまでは持つのか。

 現場の途中で薄くなったらどうするのか。

 また役に入れなくなったら。


 まだ切れていないのに、切れたあとのことばかり考えてしまう。


 その不安ごと抱えたまま、愛璃は端末を閉じた。


 その日、愛璃は読み合わせの現場へ向かった。


 会場の空気は、まだ普通だった。

 スタッフ同士が軽く話していて、笑い声もある。

 台本を持った役者たちも、まだ声の温度は日常のままだった。


 けれど、愛璃が中に入った途端、その空気が少しだけ変わる。


 誰かが何かを言ったわけじゃない。

 でも、さっきまで続いていた軽い声が少しだけ小さくなる。

 笑い声も長く続かない。


 愛璃がそこにいるだけで、現場が少し沈む。


 そんな感じがした。


 レイナは後ろの方からそれを見ていて、腕を組んだ。


 少し前までの愛璃は、ここまでじゃなかった。

 華やかではないけれど、普通にそこにいる子だった。

 今はもう違う。


 役を演じているというより、役の空気をそのまままとって歩いているみたいだった。


 読み合わせが始まる。


 愛璃の台詞は、やっぱりうまかった。

 目の伏せ方も、声の細さも、言葉の終わりの沈み方も、全部がきれいにはまっている。


 悲しみを作っているというより、最初からそこに住んでいた人みたいだ。


「前回よりさらにいいですね」


 読み合わせのあと、スタッフの一人がそう声をかけた。


 愛璃はうれしそうにしなかった。


「……いえ」


 視線を少し落として、小さく首を振る。


「私なんて、まだ全然です」

「きっと、まだ足りませんよね」


 その返し方まで、もう悲劇のヒロインだった。


 褒められても、まっすぐ受け取らない。

 少し沈んで、少し不安げで、周りの空気までそちらへ引っぱる。


 レイナは横で見ながら、また少し寒くなった。


 愛璃がいるだけで、現場の温度が少し下がる。

 それが演技の深さとして歓迎されているのが、なおさら嫌だった。


 読み合わせが終わって少ししてから、レイナは愛璃をつかまえた。


「ちょっと」


「なに?」


「更新したでしょ」


 愛璃は一瞬だけ止まって、それから小さく笑った。


「……した」


「やっぱり」


「更新したこと、責めてるの?」


 レイナは少し眉をひそめた。


「え?」


「私を悪者にしたいの?」


 愛璃の目はもう少し潤んでいた。


「そんなつもりじゃ」


「だって、しょうがないじゃない……」


 声が細く落ちる。


「何回、私がオーディション落ちたと思ってるのよ」

「やっと取れた役なのに」

「これ逃したら、もう一生ちゃんとした役なんてもらえないかもしれないのに」


 レイナは黙ったまま聞いていた。


「私みたいな下手な役者は、ガチャの効果がないと生きていけないの」

「運も悪いし」

「もう一回ガチャ回したって、同じのが出るわけないし」

「更新するしかないの……」

「更新しなかったら、終わってしまうの」


 最後の方は、ほとんど泣きそうな声だった。


「……出た」


「何が?」


「悲劇のヒロインモード」


 愛璃は少し傷ついた顔をする。


「ひどい」


 レイナは小さく息を吐いた。


 もう途中であきれていた。

 何を言っても、愛璃は全部悲劇に変えてしまう。

 心配してもだめ。止めてもだめ。少し強く言えば、責められたみたいな顔をする。


 今はもう、この人に何を言っても変わらない。


 そんな気がした。


「ちょっと前に会った時は、まだここまでじゃなかったじゃん」


 それでも一応そう言うと、愛璃の目が少し揺れた。


「……そうかも」


「そうかもじゃないって」


「でも、これがあるとちゃんとできるの」


 愛璃は指先を胸元に当てる。


「役に入れるし、見てもらえるし、褒められるし」


 そこが厄介だった。


 壊れるだけなら、離れられる。

 でも、ちゃんと役に立っている。

 成功してしまっている。


 だから切りにくい。


 その夜、愛璃は恋人からの連絡を見ていた。


 今日どうだった?

 読み合わせ、うまくいった?


 昨日よりやわらかい文だった。

 気をつかっているのもわかる。


 なのに愛璃は、それを素直に受け取れなかった。


 どうしてそんなことを聞くんだろう。

 本当に、うまくいってほしいと思っているのか。

 それとも、また失敗していないか確かめたいだけなのか。

 そんなふうに考えてしまう。


「……もうやだ」


 そうつぶやきながら、返信を打つ。


 何でそんなこと聞くの?

 本当に、私にうまくいってほしいと思ってる?

 どうせ私ができないのを、どこかで面白がってるんじゃないの?


 送ってから、少しだけ息を吐く。

 でもすぐに、別の感情が湧く。


 もっとちゃんとわかってほしい。

 この苦しさも、重さも、全部。


 しばらくして返ってきた文は、戸惑ったようなものだった。


 ごめん

 何か気に障った?


 その一文にすら、また胸が沈む。


 何もわかってない。

 どうせこの人にはわからない。

 そんな感情が、先に立つ。


 愛璃は端末を伏せた。


「しんどい……」


 小さくつぶやく声まで、誰かに聞かせるようだった。


 でもそのあと、もう一度端末を開いてしまう。


 悲劇のヒロインになれる感情

 継続利用中


 まだ続いている。

 それなのに、不安は消えない。


 次の現場ではどうなるのか。

 このままうまくいくのか。

 切れた瞬間、自分は空っぽになるんじゃないか。


 そういうことばかり考えてしまう。


 初期エリアでは、久美子が朝から顔をしかめていた。


 体力お試し初級の効果は、もう切れている。

 そのせいか、昨日までよりもずっと体が重かった。


「っ……」


 起き上がるだけで、腕も脚も痛い。

 倉庫の荷物運びでたまった疲れが、まとめて戻ってきたみたいだった。


 昨日までの軽さがない。

 一度楽を知ってしまったあとだと、元のしんどさが余計につらい。


「筋肉痛……つら……」


 久美子は端末を開いた。


 前衛向け基礎体力 初級

 効果終了が近づいています

 継続しますか?


 YES / NO


 その下には、更新料が表示されている。


 久美子はしばらく黙って見ていた。


「高い……」


 倉庫バイトで少しずつ貯めた分では、足りなかった。

 今の自分に払えない額ではない。

 でも、払ってしまったら次が苦しい。

 それに、これは初級だ。


 中級。

 持久力補助。

 筋出力補強。


 その先にも、また別の金がかかる。


 久美子は画面を見ながら、小さく息を吐いた。


「……無理」


 指は NO の上で少し止まった。

 でも結局、そのまま閉じた。


 更新できなかった。


 その瞬間、体のしんどさが急に増したわけではない。

 なのに、昨日までの軽さを思い出してしまうぶんだけ、今の重さが余計につらい。


 食堂へ行くと、かすみが久美子の顔を見て首をかしげた。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない……」


「そんなにひどい?」


「筋肉痛が……やばい」

「腕も脚も、もう全部つらい」


 かすみは少し笑った。


「がんばった証拠だね」


「証拠いらない……」


 久美子は椅子に座るのも慎重だった。


 痛みそのものを何とかできないかと思って、小さくつぶやく。


「筋肉痛、取れないかな……」


 半分冗談みたいな声だった。

 でも、その直後に端末が小さく震えた。


 久美子は思わず画面を見る。


 トレーニング後の痛みがつらい方へ

 痛み軽減サービス 案内中

 筋肉痛・関節痛・疲労痛 対応可能


「……え」


 久美子はその画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 最近、こういうことが増えていた。

 自分がしんどいと思った時。

 足りないと思った時。

 弱気になった時。

 そんなタイミングを見計らったみたいに、端末がぴたりと反応してくる。


 この世界では、ときどき人の心と端末の表示がぴたりと重なる。

 こうなったらいいのにと思ったこと。

 これが欲しいと願ったこと。

 そういうものが、ちょうどその瞬間に現れる。


 ただ便利なだけなら、まだよかった。

 でも、あまりにもぴったりすぎて、久美子はときどき怖くなった。


 まるで、自分の弱みや悩みに、この世界そのものがつけこんできているみたいだった。


 筋肉痛はつらい。

 少しでも軽くなるなら、正直ほしかった。


 でも久美子は、その画面を閉じた。


 欲しいと思った瞬間に差し出されるのが、少し怖かった。


 欲望区では、愛璃が高い更新料を払って、借りた悲しみをつなぎとめた。

 初期エリアでは、久美子が更新できず、元の重さへ戻された。


 けれど、その違いより先に、二人に同じものが残っていた。


 一度でも楽を知ってしまえば、人はもう知らなかった頃の自分には戻れない。

 久美子は、この世界の気味悪さにうすうす気づき、欲しくても買わなかった。

 愛璃は、その怖さよりも役をつかめる手応えの方へ引っぱられ、更新した。

 そしてそのまま、少しずつ深くはまり始めていた。

今回は、愛璃は更新して役のための感情をつなぎとめ、久美子は更新できずにしんどさが戻る形にしました。

どちらも違うようでいて、一度知ってしまった「楽さ」や「うまくいく感覚」をまた欲しがってしまうところは同じです。

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