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第22話 借りた悲しみ

今回は、愛璃が感情ガチャで手に入れたものを実際に使う回です。

当たりだったはずなのに、少しずつ嫌な気配も混ざっていきます。

 オーディション当日、愛璃は朝から静かだった。


 いつもなら仕事場でもよく喋るのに、その日は無駄な言葉が少ない。

 鏡の前に座っている横顔も、少し違って見えた。


「緊張してる?」


 レイナが声をかけると、愛璃は鏡越しに小さく笑った。


「してるよ」


 そう言った声が、もう少し低かった。

 落ち着いているというより、沈んでいるように聞こえる。


「……使ったの?」


 レイナが聞くと、愛璃は少しだけ黙った。


「うん」


 短い返事だった。


「昨日の夜に」


 レイナはそれ以上、何も言えなかった。


 止めた方がいいと思っていた。

 でも今日のために使うだろうとも思っていた。


 愛璃は立ち上がって、服の皺を軽く払った。

 仕草はいつも通りなのに、どこか薄い膜がかかったみたいに見える。


「変かな」


「変っていうか……」


 レイナは言葉を探した。


「ちょっと静か」


「そっか」


 愛璃はまた小さく笑った。


「でも、ちょうどいいかも」


 その笑い方に、レイナは少しだけ背中が冷えた。


 オーディション会場は、人が多かった。


 同じ役を狙う女の子たちが、控室や廊下に何人もいる。

 髪も服も整っている。綺麗な子は多い。

 欲望区では綺麗なんて珍しくないと、愛璃が言っていた意味が少しわかる気がした。


 レイナは付き添いのつもりで後ろにいた。


 愛璃は名前を呼ばれるまで、ほとんど喋らなかった。

 ただ台本を見て、時々目を閉じる。


「愛璃」


 呼ばれて立ち上がる。


「行ってくる」


「……うん」


 レイナはそれだけ返した。


 愛璃は扉の向こうへ入っていく。

 背中は細い。なのに今日は、少しだけ違うものを背負っているみたいだった。


 中の声は全部は聞こえない。

 でも、しばらくして空気が変わったのはわかった。


 さっきまで淡々と流れていた時間が、そこで少し止まる。


 誰かの低い声。

 台詞。

 短い沈黙。


 そして、愛璃の声。


 それはいつもの愛璃の声ではなかった。


 かすれているわけじゃない。

 大げさに泣いているわけでもない。

 でも、もう何かを失ったあとみたいな響きがあった。


 レイナは思わず扉の方を見た。


 愛璃は悲しんでいるというより、

 悲しみの中にずっと住んできた人みたいに喋っていた。


 審査の途中で、もう一度、愛璃の声が落ちる。


 細くて、静かで、それなのに耳に残る。

 救われたいような、でも最初から救われないと知っているような声だった。


 レイナは腕を組んだまま立っていた。

 鳥肌が立っているのに気づく。


「……すご」


 小さく漏れた。


 それは本心だった。


 やっぱり危ない。

 そう思っていたのに、同時に、すごいとも思ってしまう。


 しばらくして、扉が開いた。


 愛璃が出てくる。


 顔色は少し白い。

 でも、目だけが熱っぽかった。


「どうだった?」


 レイナが聞くと、愛璃は少しだけ首をかしげた。


「たぶん、よかった」


 言い方は静かだった。

 うれしそうに跳ねる感じがない。


「泣けた?」


「……泣こうとしなくても出た」


 愛璃はそう言って、自分の指先を見た。


「すごかった」


 レイナは素直に言った。


「正直、びっくりした」


 愛璃は笑った。

 でもその笑い方も、少し寂しそうだった。


「そう」


 その一言のあと、しばらく二人とも黙る。


 愛璃は控室の椅子に座って、窓の外を見た。


「なんかね」


「うん」


「ちゃんと苦しいの」


 レイナは愛璃の横顔を見た。


「役のために使っただけなのに」


 愛璃は窓の外を見たまま言う。


「ほんとに、報われない子になったみたい」


 レイナは返事ができなかった。


 そんなふうに言われると、なおさら、止めた方がよかったと思う。

 でもその苦しさが、さっきの演技を作っていたのも事実だった。


 合否の連絡は、その日のうちに来た。


 端末が震えたとき、愛璃は画面を見て、しばらく動かなかった。


「どうだった」


 レイナが横からのぞきこむ。


 愛璃は端末を少し持ち上げた。


 合格

 悲劇のヒロイン役 愛璃


「……受かった」


 その声は小さかった。


「受かったよ」


「ほんとに?」


 レイナが思わず言う。


「すごいじゃん」


 なのに愛璃は、飛び上がるような喜び方をしなかった。

 ただ画面を見て、息を吐く。


「やっと」


 それから、少し遅れて笑った。


「やっと、名前のある役もらえた」


 その言葉だけは、切実だった。


 レイナもつられて笑う。


「よかったじゃん」


「うん」


 愛璃はうなずいた。


「よかった」


 でも、その「よかった」は明るくなかった。

 嬉しいのに、どこか泣きそうだった。


 その夜、愛璃は恋人に会った。


 付き合って長くはない。

 でも、下積みの頃から何度か支えてくれた男だった。


「受かったんだって?」


 顔を見るなり、相手は笑った。


「すごいじゃん。やったな」


 その言葉はまっすぐだった。

 本当に喜んでいるのもわかった。


 なのに愛璃は、胸の奥が少しだけ痛くなる。


「うん」


「ほんとよかったな。今日、なんか食べに行く?」


 優しい言い方だった。


 いつもなら素直に嬉しかったはずなのに、その日は違った。


 どうしてそんなに普通なんだろう、と思ってしまう。

 どうしてこの苦しさを知らないまま笑っていられるんだろう、とも。


「……何?」


「え?」


「そんな簡単に言うんだ」


 相手の顔が止まる。


「いや、簡単っていうか……受かったんだろ?」


「受かったよ」


 愛璃は自分でも少し驚くくらい、冷たい声を出していた。


「受かったけど、別に、軽く受かったわけじゃないし」


「そんな意味で言ってないって」


「じゃあどういう意味?」


 空気が急にずれた。


 目の前の男は困った顔をしている。

 それを見ると、また胸の奥が沈む。


 わかってもらえない。

 どうせこの人には、この苦しさはわからない。

 そんな考えが、勝手に浮かぶ。


 いつもの愛璃なら、こんなふうに受け取らなかったはずだった。


「愛璃、今日ちょっと変だよ」


「……そうかもね」


 愛璃は笑った。

 その笑い方が、自分でも嫌だった。


「今、そういう役だから」


「役って」


「悲劇のヒロイン」


 冗談みたいに言ったのに、冗談にならなかった。


 相手は黙ってしまう。

 その沈黙まで、自分から遠ざかっていく感じがした。


 帰り道、愛璃は一人で夜の通りを歩いた。


 欲望区の灯りは派手だ。

 笑っている人も、騒いでいる人もいる。

 高揚感シェアプラン。

 圧倒的自信。

 恋の刺激、時間貸し。


 そんな看板が並んでいる中で、愛璃だけが別の温度で歩いている気がした。


 受かった。

 ほしかった役を、ちゃんと手に入れた。


 なのに心の奥では、ようやく報われたというより、

 やっと不幸が似合うと認められたみたいな感覚が残っている。


「……やだ」


 小さくつぶやく。


 でも、完全に嫌とも言いきれなかった。


 今日の演技はよかった。

 あれは本当に刺さった。

 あれがあったから、役を取れた。


 部屋に戻ると、端末に新しい表示が出ていた。


 悲劇のヒロインになれる感情

 効果時間 残り41時間

 使用後も残響が続く場合があります


 愛璃はベッドに腰を下ろして、その文を見つめる。


 まだ続く。

 あと少し、この感情は残る。


 だからたぶん、次の読み合わせも大丈夫。

 今日みたいにできる。

 そう思うと、少しだけ安心した。


 でもその安心の形が、もうおかしい気もした。


 自分の実力で受かったのか。

 借りた感情で受かったのか。


 考えようとすると、胸の奥がまた沈む。


 その頃、久美子は自分の端末に残った通知を見ていた。


 前衛向け基礎体力 一日体験

 終了まであと6時間


 今日は少し楽だった。

 倉庫でも、昨日より動けた。

 でも、その楽さの先に上位プランが待っているのもわかる。


 元のエリアでは、体力が商品になっている。

 欲望区では、感情が商品になっている。


 どちらも最初は少し助かる。

 少しだけ足りないところを埋めてくれる。


 でも、その少しが次を呼ぶ。


 愛璃は合格通知を見ても、まだどこか沈んだ目をしていた。

 久美子は少し体が軽くなっただけで、その先を考えてしまっていた。


 この世界は、足りない人間にやさしい。

 そして、そのやさしさは、あとから少しずつ形を変えて返ってくる。

今回は、愛璃が感情ガチャの力で役を勝ち取る回にしました。

ちゃんと成功するからこそ厄介で、その感情が私生活の受け取り方まで少しずつ変えていく形です。


読んでいただきありがとうございます。

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