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第21話 個性を買う街

今回は、欲望区の「変な商品」を前に出す回です。 綺麗さも感情も買える世界で、それでも足りないものがある人たちを描きます。

 久美子は、端末の画面を何度も見返していた。


 体力、お試ししませんか?

 初回限定

 前衛向け基礎体力 一日体験キャンペーン中


 昨日の倉庫バイトで痛めた腕が、まだ少し重い。

 足もだるい。肩も張っている。


 けれど、あのきつさを思い出すたびに、画面を閉じきれなかった。


 上位プランは高い。

 今の自分にはとても手が届かない。


 買えるとしても、初級だけ。

 一日だけ。

 しかも気に入ったら、その先は段階ごとに買い足しだ。


「……うまいことできてる」


 小さくつぶやき、久美子は申し込み欄に触れた。


 指先が止まる。

 でも、もう一度昨日の訓練場を思い出した。


 大地と早希の背中。

 ついていけなかった自分。

 息が上がって、何も言い返せなかった時間。


 久美子は、初級の一日お試しを押した。


 前衛向け基礎体力 初級

 一日体験の適用を開始しますか?


「……はい」


 決定の文字に触れた瞬間、端末が淡く光った。


 それだけだった。

 薬みたいな匂いも、何かを飲む感じもない。

 なのに、しばらくすると体の奥の重さが、少しだけ薄くなっていく。


 朝の支度をしているあいだも、昨日ほど腕がだるくない。

 階段を下りる足も、少しだけ軽い。


「これだけで……?」


 驚いたようにつぶやく。


 楽だった。

 それが怖いくらいに。


 その日、久美子は倉庫の荷物運びでも、昨日よりましに動けた。

 木箱を持ち上げるときの腕の震えが少ない。往復の足取りも、ほんの少し楽だった。


「今日、少し動きいいじゃん」


 早希が箱を積みながら言う。


「そうかも」


 久美子はそれだけ返した。


 返しながら、端末の光を思い出していた。


 これが初級。

 これでこんなに違うなら、その先は。


 そこまで考えて、すぐに頭を振る。


 楽になった。

 でも、早希や大地ほどではない。


 まだ足りない。

 その「まだ」が、次を買わせるための言葉なのだとわかるから、余計に嫌だった。


 それでも、腕の軽さは本物だった。


 欲望区では、その頃、昼の通りに妙な色が増えていた。


 看板、旗、浮かぶ文字、光る案内板。

 いつもの売買広告に混じって、今日はひときわ騒がしい。


 感情ガチャキャンペーン開催中

 誰かが手放した感情を、あなたも受け取ってみませんか?


 高揚感あふれるプラス感情

 報われない恋に酔えるマイナス感情

 価格帯は感情の希少度によって変動します


 今だけ、マイナス感情はお手頃価格


 レイナは仕事帰りの足を少しだけ止めた。


「ほんと、何でも売るよね」


 そうつぶやいたところで、横から明るい声がした。


「見てた?」


 振り向くと、同じバイト先の女の子が立っていた。

 軽く巻いた髪。大きな目。華やかに見えるのに、どこかまだ作りきれていない感じがある。


「愛璃」


「うん」


 愛璃は笑って、レイナの隣に並んだ。


 最近同じ仕事場で顔を合わせるようになった子だ。

 まだそこまで深い仲ではないが、休憩中に少し話すくらいの距離にはなっていた。


 愛璃は感情ガチャの広告を見上げたまま、楽しそうに言う。


「ちょうどいいかも」


「何が?」


「今度、悲劇のヒロイン役のオーディションあるんだよね」


 レイナは愛璃の顔を見る。


「悲劇のヒロイン?」


「うん。結構大きいやつ」


 愛璃は端末を開いて、広告の詳細を指で送った。


「感情ガチャのマイナス系、安いし、一回回してみようかなって」


 レイナはすぐに眉をひそめた。


「それ、やめておいた方がいいんじゃない?」


「そう?」


 愛璃は意外そうな顔をする。

 けれど、次の瞬間にはまた笑っていた。


「これで当たったら、ヒロインだよ?」

「こんなチャンス、ないって」


 その言い方が軽くて、レイナは余計に引っかかった。


「でも、感情って……」


「うん、危ないのかもね」


 愛璃はあっさり認めた。

 そのくせ、端末を閉じない。


「でもさ」


 少しだけ声の温度が下がる。


「今まで私、ずっと通行人とか、ちゃんとした名前の役をもらったことないの」


 レイナは黙った。


「いつも個性がないって言われるし。どこでもいる子だよね、って」


 愛璃は笑っているような顔で、画面を見ていた。


「芸能の仕事って、綺麗なだけじゃ通用しないのよ」

「この世界じゃ、綺麗なんて簡単に買えるし」

「それだけで埋もれないなら、誰も苦労しないって」


 通りの向こうでは、本当にいろんな顔が売られていた。


 目元の調整。

 唇の艶の追加。

 髪の光沢増量。

 儚さ演出プラン。

 あどけなさ一時付与。


 綺麗なんて、たしかに簡単に並んでいる。

 金さえ出せば、どこにでもある。


 愛璃は小さく息を吐いた。


「だから、個性が欲しいの」


 レイナはすぐに返せなかった。


 やめた方がいい、と言いたい。

 でも、その理由がわからなくなるくらいには、少しだけ気持ちもわかってしまう。


 欲望区にいると、足りないものを買うことが、そこまでおかしなことに見えなくなってくる。


「……でもさ」


 レイナはようやく口を開いた。


「個性って、そういうので作るもんなの?」


 愛璃は肩をすくめる。


「作れたら得じゃない?」


「いや、そういう……」


「だって、自然に出せるなら苦労してないし」


 その返しに、レイナは言葉を切った。


 強く否定できないのが嫌だった。


 少しだけ気になる。

 安い感情で、演技が本当に変わるのか。

 もし変わるなら、それはそれですごい。


 そう思ってしまう自分が、少しだけ気持ち悪い。


 欲望区では、そういう「ちょっと気になる」が一番危ないのだと、レイナはもう知っているはずなのに。


「まあ、見るだけ見てみる?」


 愛璃は端末を傾けた。


 感情ガチャの一覧が並ぶ。


 プラス感情ガチャ

 高揚感あふれる感情

 圧倒的自信

 誰からも愛されている気分

 ※高価格帯


 マイナス感情ガチャ

 悲劇のヒロインになれる感情

 報われない恋に酔える感情

 誰にも理解されないと思える感情

 世界に見捨てられたような気分

 ※お手頃価格


「露骨すぎない?」


 レイナが言うと、愛璃は笑った。


「露骨だからいいのかも」


「よくないでしょ」


「でも安い」


 愛璃は本当に軽い口調でそう言った。


「プラス系は高すぎるし。今の私には無理」

「でもマイナス系なら回せる」

「今度の役に使えそうな感情が当たれば、むしろ得じゃない?」


 その理屈が、欲望区っぽかった。


 届かないものは、高い。

 届くものは、たいてい安くて、安いぶんだけ危ない。


 愛璃は迷わず支払い欄を開いた。


「え、ほんとにやるの?」


「一回だけ」


 そう言って、愛璃はにっこり笑う。


「これで当たったらヒロインだよ」

「回さない方がもったいないって」


 レイナは止める言葉を飲み込んだ。


 愛璃の指先が、画面の中央を押す。


 端末が光った。

 通りの広告板も連動したみたいに、淡く明滅する。


 抽選中……


 数秒だけ、変な静けさが落ちた。


 それから、表示が切り替わる。


 当選

 悲劇のヒロインになれる感情


 愛璃が息をのむ。


「うわ」


 目を見開いて、それからすぐ笑った。


「やば、ほんとに出た」


 レイナは端末の文字を見つめたまま、何も言えなかった。


 もっと変なハズレが出るのかと思っていた。

 でも、愛璃が欲しがっていたものが、そのまま来た。


 愛璃は画面の説明を読み上げる。


 一時的に、喪失感・報われなさ・繊細な孤独感・救われたがる心情が付与されます

 演技・表現活動との相性が高い商品です

 使用後も残響が続く場合があります


「残響って何」


 レイナが思わず口を挟む。


「えー、ちょっと残るってことじゃない?」


「ちょっとで済むの、それ」


「大丈夫でしょ」


 愛璃はまだ笑っていた。

 でも、その笑いの奥に、もう少し熱っぽいものが混じり始めている気がした。


「これで役に入れたら最高じゃん」


「……ほんとに使うの?」


「使う」


 愛璃は即答した。


「ずっと通行人だったんだよ?」

「やっと、名前のある役に手が届くかもしれないのに」


 レイナは口を閉じた。


 その言葉だけは、まっすぐで、止めにくかった。


 少し離れた場所では、別の広告が浮かんでいる。


 恋人向け高揚感シェアプラン

 今までにない刺激を、二人で


 圧倒的自信 時間貸し

 面接・接客・告白前におすすめ


 穏やかさ一日体験

 比較しない心を、少しだけ


 この街では、感情まで商売になっている。


 綺麗も買える。

 自信も買える。

 悲劇も買える。


 それを使って上へ行こうとする人間まで、もう何人もいる。


 レイナは愛璃の横顔を見た。


 売れたい。

 目立ちたい。

 名前のある役がほしい。


 その気持ちは、変じゃない。


 でも欲望区は、その普通の願いに、変な形で答えようとする。


「……当たったからって、すぐ使わなくてもいいんじゃない?」


 レイナは最後にそう言った。


 愛璃は端末を胸の前で握りしめる。


「ううん」


 その返事は思ったより静かだった。


「今度のオーディションで使う」


 レイナはもう何も言わなかった。


 そのころ、久美子は倉庫バイトの帰り道で、自分の足取りが昨日より軽いことに気づいていた。


 体力お試し初級。

 たった一日、それだけ。


 なのに、楽だった。

 その小さな違いが、次を買わせるための入口に見えてしまう。


 元のエリアでも、欲望区でも。

 少し足りない人間に向かって、この世界はちゃんと商品を差し出してくる。


 久美子は端末に残った通知を見た。


 体験終了後、上位プランの案内が解放されます


 レイナは愛璃の端末に残った文字を見た。


 悲劇のヒロインになれる感情

 使用期限まであと三日


 足りないものを埋めたい人間に、この世界はやさしい。

 そして、そのやさしさはたいてい、あとで高くつく。

今回は、感情ガチャの初登場と、愛璃の「個性がほしい」という願いを前に出しました。

綺麗さが簡単に買える世界だからこそ、それだけでは埋もれてしまう苦しさがあります。久美子の体力お試しも含めて、「足りないところに商品が差し出される世界」を強めた回にしています。


読んでいただきありがとうございます。

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