第20話 少し違う疲れ方
今回は、新しい出会いと、久美子の小さな変化が入る回です。
魔法や服から少し離れて、前に進むために体を使う方向へ足を向けます。
朝食のあとだった。
食器を戻して席を立とうとしたところで、大地が声をかけてきた。
「俺たち前衛だから、少しトレーニング行かない?」
それを聞いた早希が、すぐに顔を上げる。
「いいね。行こ」
二人の返事は軽かった。
久美子は一瞬だけ黙った。
前衛、という言葉がまだ自分にしっくりきていない。
でも、大地が自然に「俺たち」と言ったことが、少しだけうれしかった。
自分もその中に入れてもらえた気がした。
「……私も行く」
そう言うと、早希があっさりうなずいた。
「じゃ、三人で行こ」
その一言だけで、少し胸が軽くなる。
訓練場へ向かう道すがら、大地はいつも通りの顔で歩いていた。
早希も気負う様子はない。
久美子だけが、少し背筋を伸ばしすぎていた。
最初はウォーミングアップだと大地は言った。
「とりあえず走ろう。軽く長めに」
軽く、と言われたのに、始まってみると全然軽くなかった。
一定の速さで、長い距離を走る。
大地と早希は前で普通に話しながら進んでいく。
「このくらいなら全然だね」
「まだ体あったまってないしな」
そんな声が前から聞こえる。
久美子はその後ろを、必死についていった。
息が上がる。
足が重い。
喉が痛い。
少しずつ距離が開きそうになるたび、置いていかれたくなくて、さらに足を動かした。
「久美子、大丈夫?」
早希が少しだけ振り返る。
「……だい、じょうぶ」
全然大丈夫じゃなかった。
でも、ここで止まりたくなかった。
ようやく走り終わったときには、久美子の肩は大きく上下していた。
息を整えるだけで精一杯だった。
けれど、大地はすぐに次を口にした。
「じゃ、次は腕立て」
「了解」
早希はすぐに床に手をついた。
大地も同じように姿勢を作る。
久美子も遅れて続いた。
一回。二回。三回。
十回を過ぎたあたりから、もう腕が震えはじめる。
肩がじんじんして、体を支えるだけで必死だった。
「次、腹筋」
それが終わるころには、息を吐くだけで体の芯が痛かった。
さらに体幹。
最後は重りを持ち上げる練習まで入る。
大地は一定の動きで淡々とこなし、早希も汗を拭きながら平気な顔をしている。
久美子だけが、途中で何度も動きを止めた。
「もう……できない……」
小さくつぶやいて、その場にしゃがみこみそうになる。
早希が額の汗をぬぐいながら言った。
「久美子、体力なさすぎ」
軽い言い方だった。
でも、冗談ではなかった。
大地も久美子を見る。
「前衛やるなら、このくらいでへばってたら厳しいぞ」
責める口調ではない。
ただ、それが事実なんだとわかる言い方だった。
久美子は返事ができなかった。
悔しい、と思うより先に、情けなさが来た。
せっかく誘ってもらえたのに、ついていけない。
仲間に入れてもらえたと思ったのに、自分だけ全然違った。
しばらくその場で息を整えてから、三人で訓練場を出た。
帰り道、早希がペットボトルの水を飲みながら言った。
「久美子さ、休みの日空いてる?」
「休みの日?」
「うん。私と大地、たまに倉庫の荷物運びバイト入ってるんだよね」
「結構きついけど、前衛にはちょうどいいぞ」
大地がそう続ける。
「体力もつくし、金にもなる」
久美子は少しだけ黙った。
さっきの自分の姿が、まだ腕や足に残っている。
「……行く」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
でも、ここで何もしないまま戻る方が嫌だった。
「じゃ、決まり」
早希は軽く笑った。
「最初は筋肉痛やばいと思うけど」
その言い方に、久美子も少しだけ笑う。
次の休みの日、久美子は二人と一緒に倉庫へ向かった。
大きな建物の中には、防具素材の入った木箱や、布の束、金属部品、武器用の資材が積まれていた。
奥には魔法素材らしい箱も並んでいる。
見ただけで重そうだった。
「こっちから運ぶよ」
早希がもう箱を持ち上げている。
大地もその隣で、大きめの荷を肩に担いだ。
久美子も一つ持ってみる。
「……重……」
思わず漏れる。
「最初は小さいのからでいいよ」
大地が言った。
「無理して腰やるほうがまずいし」
それでも久美子は、小さい箱を抱えて何度も往復した。
腕が痛くなる。
指先もじわじわ熱い。
足もだるい。
でも、訓練場で味わった息苦しさとは少し違った。
重いものを運ぶ。
置く。
また戻る。
次を持つ。
やることが単純で、余計なことを考える暇がない。
昼休憩のとき、久美子は床に座って水を飲んだ。
背中が汗で張りついている。
「きつい……」
「でしょ」
早希は笑う。
「でも、こういうの続けると少し変わるよ」
大地も缶を開けながらうなずいた。
「前衛って、結局こういう積み重ねだしな」
久美子は水を飲みながら、小さく息を吐いた。
きつい。
腕も脚もだるい。
でも、不思議と気持ちは少しだけ楽だった。
欲望区の服を縫うときみたいに、知らない誰かの華やかさを想像しなくていい。
魔法のローブを縫うときみたいに、自分の外側にあるものを見せつけられなくていい。
ただ重いものを運んでいるあいだは、羨ましいとか、いいなあとか、そういうことを考える暇がなかった。
その日の帰り道、久美子は自分でも少し驚いていた。
疲れているのに、気持ちは昨日より静かだった。
それから久美子は、しばらく内職を休むことにした。
欲望区の服も、魔法訓練者の服も、一度手放す。
代わりに、休みの日は早希と大地と一緒に倉庫の力仕事へ行く。
きつい。
でも少し楽になる。
その繰り返しだった。
ある日の夜、久美子は部屋に戻ってからベッドの端に座った。
腕も脚も重い。
指先に、木箱のざらつきがまだ残っている。
端末を開く。
作業予定。
報酬。
倉庫バイトの入金予定。
その下に、新しい通知が出ていた。
体力、お試ししませんか?
初回限定
前衛向け基礎体力 一日体験キャンペーン中
久美子の指が止まる。
さらに画面を送る。
一日だけ、疲れにくい体を試してみませんか?
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その下には、細かい説明が続いていた。
※初回体験は初級プランのみ利用可能です
※上位プランは別料金となります
※高出力・高持久力プランは段階購入制です
久美子は、その文をじっと見た。
全部は買えない。
最初に使えるのは一番下の段階だけ。
その先が欲しければ、また買い足さなければいけないらしい。
「……うまいことできてる」
小さくつぶやく。
それでも、今日の倉庫での疲れや、訓練場で息が上がったときの苦しさを思い出すと、一日だけなら試してみたい気持ちが出てくる。
しかも次の文は、久美子の考えていたことをそのまま読んだみたいだった。
細さを大きく崩さず、前衛に必要な基礎体力だけ補いたい方へ
久美子は目を伏せた。
女らしいまま、少しだけ楽になれたら。
前に出るのに必要なものだけ、少しだけ手に入るなら。
そんなことを考えてしまう。
でも、その「少しだけ」が、きっと次へ続く入口なのだともわかる。
端末を持つ手に、まだ迷いが残っていた。
そのころ、欲望区では翔が新しい仕事場に入っていた。
酒と会話を売る、夜の接客の仕事だった。
いかにも欲望区らしい空気の店で、翔はまだ少しだけ場に馴染みきれていない。
「新人?」
声をかけてきた男は、店の空気に溶けきった顔をしていた。
服も笑い方も自然で、ここにいることに何の無理もなさそうに見える。
「……まあ」
「緊張してるね」
男は軽く笑った。
「大丈夫。最初はみんなそんなもんだよ」
それが、翔と玲司の最初の会話だった。
一方レイナは、別の日に高級クラブの入口近くで、ひときわ目を引く女を見かけた。
上品な服。
整いすぎるほど整った立ち姿。
自然なのに、少しも隙がない。
「あの人が詩乃先輩」
誰かが小さく教える。
「ほしいもの、だいたい手に入れた人」
レイナは思わずその姿を目で追った。
綺麗だった。
欲望区の上の方にいる人間の空気を、あの人はもう当たり前みたいにまとっていた。
でも、横顔を見たとき、少しだけぞっとした。
綺麗なのに、何かが静かすぎる。
詩乃は誰かと話しながら、ふと壁に飾られたアリスの写真へ目を向けた。
そのときだけ、表情の奥に別の熱が見えた気がした。
欲しいものを手に入れた先にも、まだ別の欲がある。
そんな空気が、あの女のまわりにはあった。
元のエリアでも、欲望区でも、それぞれ新しい出会いが始まっていた。
久美子はもう一度、端末の画面を見た。
前衛向け基礎体力 一日体験キャンペーン中
一日だけなら。
そう思う気持ちと、そこから先へ進んでしまいそうな怖さとが、胸の中で静かにぶつかっていた。
今回は、久美子が早希と大地に誘われて前衛側へ少し足を踏み入れ、そこから力仕事へ流れが変わる回にしました。
服を縫う時間から離れたことで、久美子の気持ちが少しだけ静かになる一方で、今度は体力を売る商品が近づいてきます。
読んでいただきありがとうございます。




