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第16話 夜の縫い目

今回は、前回の戦いのあとに残ったものと、久美子が次に手を伸ばそうとするものを描く回です。

もう変なものでは失敗した。けれど、それでも「変わりたい」は消えませんでした。

 戦いの翌朝、共同食堂の空気はいつもより静かだった。


 誰も大声では話さない。

 パンをちぎる音と、スープを飲む音だけが妙にはっきり聞こえる。


 久美子は少し遅れて席についた。

 昨日のことが、まだ身体の奥に残っている。


 フェロモンは全部売った。

 甘い匂いも、獣っぽさも、もう消えていた。

 虫も来ない。

 猫も犬も寄ってこない。


 それなのに、胸の中だけは昨日より重かった。


 誠司はいつも通りに見えた。

 かすみも、優も、食事をしている。

 でも、昨日までより少しだけ、久美子のまわりに薄い膜ができたような感じがした。


 話しかけられないわけじゃない。

 無視されているわけでもない。

 でも、何もなかったことにはならない。


 久美子はパンを小さくちぎった。


「……昨日は、ごめん」


 やっとそれだけ言う。


 かすみが顔を上げた。

 誠司も少しだけ視線を向ける。


「もう売ったの?」

 かすみが聞く。


「うん」

 久美子はうなずく。

「全部」


 短い沈黙が落ちた。


「なら、もういいよ」

 かすみが言う。

「次から気をつけて」


 責める声ではなかった。

 でも優しいとも違った。

 昨日の線を、これ以上広げないための言葉だった。


 久美子は小さくうなずいた。


 それ以上、何も言えなかった。


     ◇


 午前の作業は、防具の補修だった。


 昨日の戦いで傷んだ留め具や、曲がった金属板を直していく。

 久美子は黙々と手を動かした。

 その作業だけは、今の自分にもできる。


 かすみは向こうで薬箱の補充をしている。

 誠司は槍の柄を削っていた。

 優は使い切った回復薬の瓶を仕分けている。


 誰も久美子を避けてはいない。

 でも、昨日みたいに同じ戦場で一緒に冷や汗をかいたあとだと、余計に自分だけが浮いて見えた。


 しばらくして、かすみが立ち上がった。


「補充の札、取ってくる」

「俺も行く」

 誠司が言う。


 二人はそのまま作業場の端へ歩いていく。

 小さな会話。

 自然な距離。

 それは前から変わらない。


 久美子はそれを見て、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。

 昨日、怒られたばかりなのに、まだ見てしまう。

 まだ比べてしまう。


 何をやっているんだろう。


 自分でもそう思う。


     ◇


 昼、共同食堂の端末にまた通知が流れた。


 戦闘経験、買いませんか?

 連携感覚、買いませんか?

 回避本能、買いませんか?


「今度はそっち?」

 誰かが言った。


「何でも売るよね、この世界」

「連携感覚って何」

「そこまで来たかって感じ」


 みんなは半分笑って流していた。


 久美子はトレーを持ったまま、その表示を見つめる。


 昨日までなら、きっとまた揺れていた。

 足りないものを見つけた気がして、手を伸ばしていたかもしれない。


 でも今は、画面の文字が少し違って見えた。


 買ったところで、また何かおかしなものを呼ぶかもしれない。

 また自分だけじゃなく、周りまで巻き込むかもしれない。


 足りないから欲しい。

 でも、欲しいものが本当にそこにあるとは限らない。


 久美子は、そっと端末を閉じた。


 その時、別の通知が一件だけ遅れて届いた。


 欲しいもの、もっと買えるように夜内職しませんか?


 久美子の指が止まる。


 夜内職。


 開いてみると、仕事内容が並んでいた。


 衣装の補修・縫製補助

 針仕事経験者歓迎

報酬は出来高制


 久美子はしばらく画面を見つめた。


 フェロモンみたいな、よくわからないものはもう怖かった。

 虫も、獣も、敵まで引き寄せた。

 ああいうものはだめだ。


 でも、顔を少し変えるとか、胸を大きくするとか、そういうものなら。

 それなら少なくとも、誰かに迷惑はかけないんじゃないか。


 欲しいものを買うには金がいる。


 縫うだけなら、自分にもできる。


 久美子はその依頼を開いたまま、長く息を吐いた。


     ◇


 その夜、最初の内職用の包みが届いた。


 部屋へ戻って開いてみると、出てきたのは普通の服とは少し違う布だった。

 妙に艶のある生地。

 光の当たり方で色が少し変わって見える。


 型紙も、見慣れた作業着とは全然違った。

 胸元は深く、腰のあたりはきゅっと絞られている。

 裾は揺れるのに、全体の線はやけに身体に沿う。


 こんな服、着るんだ。


 久美子は布を広げたまま、しばらく動かなかった。


 こんな色艶のある、大胆なデザインの服を。

 欲望区の人たちは、こういうものを平気で着るのだろうか。


 指先で布をつまむ。

 柔らかいのに、安っぽくはない。

 ちゃんと身体に沿って、きっと目立つように作られている。


 これを着る人は、きっと自分とは違う。

 立っているだけで目を引いて、こういう服がちゃんと似合う人なんだろう。


 こんなにウエスト細いんだろうか。

 胸も、きっともっと大きいんだろう。

 だからこういう形が似合うんだろう。


 そう思うと、針を持つ指先が少しだけ重くなった。


 服を縫っているのに、欲しくなるのは服そのものじゃなかった。


 その服を着て、ちゃんと似合う身体。

 その服を着て、誰かに見られる側の雰囲気。

 欲しくなるのは、そっちの方だった。


 久美子は小さく首を振って、針を進めた。


 今は内職だ。

 まずはお金を稼ぐ。

 それだけだと、自分に言い聞かせる。


 けれど布をひと針ずつ縫い合わせるたびに、頭のどこかで別のことを考えてしまう。


 もっと痩せていたら。

 もっと胸があったら。

 もっとこの服が似合う顔だったら。


 針先が少しぶれて、久美子は慌てて縫い目をほどいた。


     ◇


 一方その頃、欲望区では、レイナと翔が昨日の敗北を引きずったまま装備屋の前に立っていた。


 装備は一通り揃った。

 それなのに届かなかった。


 剣も、防具も、回復薬もある。

 見た目も整えた。

 周りからは褒められる。

 でも、戦場では足りなかった。


「……むかつく」

 レイナが言う。


 翔は返事をしない。

 手元の端末に表示された募集条件を見ている。


 戦闘レベル

 連携実績

 固有スキル所持者優先


「またこれ」

 レイナが舌打ちする。

「装備だけじゃ意味ないってこと?」

「意味はある」

 翔がようやく言った。

「でも、それだけじゃだめってことだろ」


 その時、端末が震えた。


 戦闘経験、買いませんか?

 連携感覚、買いませんか?

 回避本能、買いませんか?


 レイナが画面を見て、息を止める。


「……ねえ」

「やめとけ」

 翔がすぐに言った。


「まだ何も言ってないんだけど」

「顔に出てる」


 レイナは唇を尖らせた。

 でも視線は端末から動かない。


「だって、昨日ああ言われたのよ」

 声が少し低くなる。

「せめてレベル上げとスキル上げしてから来て、って」

「だから、地道にやるしかないだろ」

「地道にって、いつまで?」


 その言葉に、翔は黙った。


 欲望区では、地道に積み上げるほど先に削られる。

 装備を揃えても、今度は経験が足りないと言われる。

 経験を積もうとすれば、そもそもパーティーに入れてもらえない。


 堂々巡りだった。


     ◇


 その日の闇の仕事は、気分のいいものではなかった。


 欲望区に入って間もない初心者が、敵に襲われて死んだ。

 その死体を運び、装備を回収し、残された遺品を整理する。


 皮肉なくらい、高級装備はきれいなままだった。

 剣も、防具も、回復薬も揃っている。


 けれど、それだけだった。


 装備は立派だった。

 でも、その装備を使いこなせるだけの戦闘レベルも、スキルも、その死体にはもう残っていないのだと見るだけでわかった。


「……最悪」

 レイナが小さく言う。


 翔は何も言わず、黙って装備を外した。

 血のついていない高級防具が、妙に重く見える。


 仕事を終えて外へ出た時、翔が低い声で言った。


「仕事終わったら、地道に雑魚の敵相手にレベル上げ行くぞ」


 レイナは露骨に嫌そうな顔をした。


「面倒だな……」

「でも、ああはなりたくないだろ」


 レイナは返事をしなかった。

 それでも、少し遅れて翔の後をついた。


     ◇


 夜更け。


 久美子の部屋には、まだ細かな縫い音が残っていた。


 針を進めて、ほどいて、また進める。

 小さな机の上に広がるのは、自分とは別の世界のための服だ。


 この服を着る人は、どんな顔をして笑うのだろう。

 どんな身体で、どんなふうに見られるのだろう。


 久美子は糸を切って、縫い上がった部分を指でなぞった。


 欲しいものは、まだ消えない。

 でも今は、すぐには買わない。

 買うためのお金を、自分で作る。


 それが正しいのかどうかは、まだわからなかった。

読んでくださりありがとうございます。


今回は、前回の戦いのあとに残った空気と、久美子が次に手を伸ばそうとするもの、そして欲望区で見えた「装備だけでは足りない現実」を描く回になりました。

足りないものを埋める方法が、本当に足りないものへ届くとは限らない。その感触が少しずつ濃くなってきています。

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