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第11話 売るのはだめ

今回は、新しいエリアでの暮らしの中で、人との距離の近さや遠さが少しずつ見えてくる回です。

一方、欲望区では、表には出ない仕事の気味悪さがはっきり形になりはじめます。

 朝、久美子は起きてすぐ、端末の黒い画面に自分を映した。


 昨夜、ほんの少しだけ変えた目元。

 腕も、お腹も、太ももも、自分で触れば昨日とは少し違う。


 昨日よりは、まし。

 そう思いたかった。


 部屋を出る。

 外の通路にはもう何人かの姿があった。

 食堂へ向かう者、先に外の水場へ行く者、朝のうちに片づける仕事を始めている者。


 久美子は少しだけ緊張しながら、その中へ入っていった。


 何か言われるかもしれない。

 雰囲気変わったとか、ちょっと違うとか。

 そのくらいはあるかもしれないと思った。


「おはよう」

 かすみが言う。


「おはよ」

 久美子も返す。


 誠司は手にしていた紙束から顔を上げて、軽くうなずいただけだった。

 優は眠そうな顔で片手を上げる。


 それだけだった。


 誰も、何も言わない。


 気づかれない。

 このくらいじゃ、変わったうちに入らないのかもしれない。

 いや、違う。

 そもそも誰も、自分のことなんて見ていないのかもしれない。


 そう思った時、端末が小さく震えた。


 自分の名前売りませんか?

 買取キャンペーン中


 久美子の指が止まる。


 名前。


 昔、言われたことがあった。

 なんか古臭くてダサい名前だね、と。

 笑いながら、軽く。


 みんな今風で可愛い名前なのに。

 どうして自分だけ、こんな古臭くてダサい名前なんだろうと、その時は本気で思った。


 この名前のせいか。


 その考えが、一瞬だけ胸をよぎる。


 売りたい。


 でも、すぐに首を振った。


 違う。

 今じゃない。


 まだ、そこじゃない。


 久美子は通知を閉じて、端末を伏せた。


     ◇


 午前中は、言われた仕事をこなすだけで精一杯だった。


 新しいエリアは、動きそのものが速い。

 誰もが自分のやることをわかっていて、立ち止まる時間が少ない。

 久美子はその流れに遅れないようにするだけで、息が詰まりそうだった。


     ◇


 昼になって、共同グループで食堂へ入った。


 長机が何列も並び、焼きたてのパンと野菜の多いスープの匂いが広がっている。

 朝より人の声が増えて、少しだけ空気がやわらいでいた。


「今日も変な買取キャンペーン出てたね」

 合同グループの女の子が言った。


「何の?」

「名前とか、昔のあだ名とか」

「なにそれ」

「この世界、変なものばっかり買い取るよね」

「まあ私たちには関係ないけど」


 机の上の空気は軽かった。


 みんな、のんきでいいな。


 久美子はそう思いながら、トレーを持ったまま立っていた。


 気づけば、席の並びはもう自然に決まっていた。

 仲のいい者どうしが隣に座り、空いたところへまた誰かが入っていく。

 誰が決めたわけでもないのに、そこにはもう輪ができていた。


 かすみは、もう誠司の隣にいた。

 向かいではなく、隣。


「午前中のやつ、どうだった?」

 誠司が聞く。


「思ったより多かった」

 かすみが答える。

「でも、かすみならすぐ覚えそう」

「そういう言い方ずるい」

「事実だろ」


 その会話は、朝からの続きみたいだった。

 久美子が近づく前から、二人のあいだにはもう流れができている。


 久美子はトレーを持ったまま、少し立ち止まった。

 そこへ優が、何も気にしない顔で歩いていく。


「ここ空いてる?」


 そう言いながら、返事も待たずにそのまま誠司とかすみの向かいへ座った。


「遠慮ないな」

 誠司が言う。


「空いてるならいいだろ」

 優が返す。


 かすみが少し笑った。


「優って、そういうとこ強いよね」

「何が?」

「普通に入っていけるところ」

「そうか?」


 三人の会話は、そのまま自然に続いていった。


 優は何も考えずにその輪へ入っていける。

 自分は、そこに入れないと思って最初から少し外れた席を選ぶ。


 その違いが、胸にじわりと残った。


 久美子は少し離れた席に腰を下ろした。

 同じ机なのに、そこだけ少し遠い。


 女の子が席に着くと、少しして男の子が飲み物を持ってきた。


「忘れてたよ」


「あ、ありがとう」


 その自然さが、久美子にはやけに目についた。


 昨日も今日も。

 みんなは少しずつ近づいていくのに、自分だけが取り残されていく気がした。


 やっぱり、自分はブスだから誰も気にかけてくれないんだ。


 久美子はスープに目を落とした。


     ◇


 夕方になると、見張りの係が何度も同じことを繰り返した。


「夜は外に出ないように」

「このエリアは日が落ちると敵が出る」

「必要がない限り、部屋から部屋への移動もしないこと」


 初期エリアでも夜の注意はあった。

 でも、ここはそれよりひとつ上の場所だ。

 言い方に冗談がなかった。


 みんな、暗くなる前に急いで部屋へ戻っていく。


 久美子も部屋へ入って、ようやく一息ついたころだった。


 遠くで、短い悲鳴が上がる。


「きゃあっ――!」


 通路がざわつく。

 扉が次々に開く音。

 誠司の声もした。


「外だ!」


 久美子も反射的に外へ飛び出した。


 少し離れた外通路の先に、女の子が倒れ込んでいた。

 昼間、向こうの席で男の子に飲み物を持ってきてもらっていたあの子だった。


 その前に、小型の獣型の敵が低く唸っている。

 夜の影の中で、目だけがぎらついて見えた。


「下がってろ!」


 誠司が前へ出る。

 優も横から短剣を抜いた。

 共同グループの男たちも駆けつける。


 敵が飛びかかった瞬間、誠司の槍がそれを押し返す。

 優が横から足元を払う。

 別の男が後ろから一撃を入れる。

 短い攻防のあと、敵はようやく地面へ崩れた。


「かすみ!」

 誠司が振り返る。


 かすみはすぐに薬箱を抱えて女の子のそばへ膝をついた。

 肩口をかすっていて、浅い傷がある。

 血は多くない。

 でも呼吸が乱れていた。


「これ飲んで」

 かすみが回復薬の小瓶を開ける。

「ゆっくりでいいから」

「ご、ごめんなさい……」

「今は謝らなくていいから」


 女の子は震える手で瓶を受け取り、少しずつ飲んだ。

 かすみはその背を支える。


「大丈夫。落ち着いて」

「……ごめんなさい、ちょっとだけ、会いたくて……」


 その言葉で、周りの空気が少し変わった。


 会いに行ったんだ。

 夜なのに。


 すると、呼ばれて駆けつけた男の子が、その子の前にしゃがんだ。


「……来てくれたのは嬉しいよ」


 その一言に、女の子の肩が小さく揺れる。


「でも、夜は危ないから」

 男の子は責めるようには言わなかった。

「心配する。次はやめて」


 やわらかい声だった。

 それが余計に胸に残った。


「……うん」

 女の子は泣きながらうなずく。


 危ないのに、と思う。

 迷惑なのに、とも思う。


 でも、それでも。


 危険をおかしてでも会いに行きたい相手がいて、

 来てくれたことをそんなふうに受け止めてもらえるのが、少しだけ羨ましかった。


 自分には、そういうものが何もない気がした。


     ◇


 翌朝。


 久美子が食堂へ向かおうと通路へ出た時だった。


 ひとつ向こうの部屋の扉が静かに開く。


 昨夜、騒ぎを起こした女の子が、そっと外へ出てきた。

 髪は少し乱れていて、顔にはまだ眠たそうな気配が残っている。


 そのすぐあとで、部屋の中から男の子が顔を出した。


「今度はちゃんと朝にして」

 困ったように笑う。

「……うん」


 女の子も小さく笑ってうなずいた。


 そのやり取りを見た瞬間、久美子は足を止めた。


 昨夜のあと、その子は結局そこにいられた。

 会いに行きたい相手がいて、その相手の部屋に入れて、朝まで一緒にいられる。


 胸の奥が、静かに沈んだ。


     ◇


 一方その頃、欲望区では、レイナと翔が昨日よりさらに奥まった場所へ連れていかれていた。


 「遺品整理だよ」


 そう言われて入った部屋は、思ったより普通だった。


 小さな机。

 安い食器。

 畳まれた服。

 誰かがちゃんと生活していた気配が、まだ残っている。


 けれど、その部屋はもう「片づける場所」として扱われていた。


 レイナが棚の上の写真を手に取る。


 若い。

 年寄りの遺品ではない。

 笑っている顔は、自分たちとそう変わらない年齢に見えた。


「……歳じゃないのに」


 思わずこぼすと、見張りの男が冷たく言う。


「余計なことは考えなくていい」


 翔は黙ったまま、机の引き出しを開けた。

 中には折れたペンと、くしゃくしゃの紙切れが入っている。


 広げると、乱れた字で一行だけ書いてあった。


 売るのはだめ


「何これ」

 レイナが言う。


 翔は紙を見たまま答えなかった。

 ただ、その文字だけが妙に頭に残った。


 部屋の片づけが終わると、今度は封をされた荷物を運ばされた。

 黒い布で包まれ、紐で何重にも縛られている。

 大きさは人の胴ほど。

 でも中身の形はわからない。


「これ、どこに運ぶの」

 レイナが聞く。

「指定の場所」

「中身は?」

「見るな」


 男の声は低かった。


「開けて中を見たら殺されるから、絶対に見るな」


 冗談の言い方ではなかった。


 翔が荷物の重さを確かめるように持ち上げる。

 ずしりと重い。

 でも、何が入っているのかはわからない。


 一体何を運ばされているのか。


 レイナは聞かなかった。

 聞いても答えは返ってこないとわかっていた。


 欲望区の夜は、派手な灯りの下で、見てはいけないものばかり運ばれているのかもしれなかった。

読んでくださりありがとうございます。


今回は、新しいエリアでの暮らしの中で、人との距離の近さや遠さが少しずつ見えてくる回でした。

一方、欲望区ではただ危ないだけでは終わらない、もっと気味の悪い仕事が動きはじめています。

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