26 佐世保港まで半時
私は翌日の正午、佐世保港で下船する乗客を見送るために船内食堂で下りると、旅行鞄を膝に抱える絢子の向かいに笹木が座っていた。
笹木は横浜港まで乗船するので、博多界隈で教員に就く絢子との別れが名残惜しいのだろう。
絢子が年頃のお嬢さんであれば、笹木も年頃の男ということだ。
「宵っ張りの朝寝坊とは、よほど余裕があるらしい」
黒羽少佐は、笹木と絢子の様子を見ていた私に話しかける。
私が椅子を引くと、少佐は恩賜刀に身体を預けながら座った。
機密情報に書かれている『Y』が、九重の探している弓田かどうかは扠措いて犯人ならば察しがついている。
ただ犯人が帝都不祥事件を策謀した怪人ならば、私に機密情報を明かした訳合だけがわからなかった。
「私の仕事は粗方片付きましたが、問題は始末の付け方ですね」
「始末の付け方?」
「少佐は九重を何度も部屋に呼びつけていれば、私の目を盗んで密会していましたね。私は当初、陸軍省の動向を探っているのだと考えましたが、少佐は中尉の上司である情報士官をご存知でした」
「お前は、俺が船内取引を察知していたと思うのか」
「ええ、端的に言えばそうです。我々が船に乗り合わせた訳合は、兵務局の情報士官から情報が漏洩していたと考えられます。少佐は九重中尉が言い出す前に、帝都不祥事件で暗躍した弓田の存在を知っていました。もしかすると兵務局は、弓田が我々の身内だと探っているのではありませんか?」
少佐は『どうしてそう思う』と、口元を手で隠して声を殺したのだから言い当てた。
「帝都不祥事件の恩恵を受けたのは軍部の統制派であり、統制派を統べているのが関東都督府の東條英機閣下です。兵務局が疑うとすれば、東條麾下にある関東軍憲兵隊でしょう」
兵務局の情報士官が満州での不穏な行動を察知していたのならば、手の内を明かしても思いとどまるように仕向けるだろう。
九重の上司は陸軍青年将校を懐柔して革命を阻止しようとしていれば、満州独立を策謀した十月事件の関東軍を舞台にして、弓田の暗躍を再び許すわけにいかないからだ。
陸軍省の特務機関は、黒羽少佐を抱き込んで先手を取るつもりだった。
少佐が弓田や船内取引を心得ていたのは、そのための情報開示である。
「少佐は船内取引を聞かされており、ここには身内が取引にかかわっていないか確かめにきた。しかし船内取引は情報どおり実行されたものの、関東軍の身内を見つけることがなかった」
これには『私を除けば』と、付け加える必要があった。
九重が言うとおり、これが軍内部の異なる意思決定機関のお家騒動であるのならば、陸軍省を置いて統制派の躍進を喜んだのが東條英機なのである。
皇道派を一掃した弓田が、東條麾下の関東軍に所属していると考えても不思議ではない。
兵務局の情報士官が黒羽少佐に白羽の矢を立てた訳合は、東條麾下の憲兵隊にあって確執のある石原莞爾の信任が厚いからだろう。
関東軍の内情に明るい黒羽少佐には石原閣下から密命が与えられており、その点において統制派の陰謀を知れば愛想をつかす可能性がある。
「お前の推察は、概ね的を得ている。陸軍青年将校を利用した弓田が、関東軍を使って二匹目のドジョウを得ようとする恐れがあった。兵務局は、そう考えている」
それが機密情報に書かれていた十二月事件の再演、関東軍による満州国独立計画だろう。
では『Y』の計画は、陸軍省に把握されている。
となると、首謀者と賛同者の名簿が機密情報の核心ということだ。
陸軍省が統制派の東條閣下を首謀者だと考えているのならば、九重は、それを後押しする偽情報を掴まされたことになる。
東條閣下が日本帝国からの独立を画策しているとなれば、関東都督府総司令官の更迭を免れない。
弓田の狙いが東條閣下の更迭ならば、それは石原閣下と懇意にある黒羽少佐に利するのだろうか。
「少佐は、事件の顛末に愚か者がいると言っていました。愚か者とは、怪人に利用されていると知りながら転身できない私でしょうか」
「俺は、お前に踊らされている気分だ」
「少佐は、やはり私が弓田だと思っているのですね」
「お前が軍務に忠実であれば、上官の命令に異を唱える奴ではない。沈黙を美質としていれば、お前が密命を帯びても見抜くのは難しいからな」
「冗談は止してください」
黒羽少佐は『俺の弟には、そういう資質があるだけの話だ』と、小馬鹿にした態度で笑うのだから、九重の入れ知恵を根っから信じていないのだろう。
「お前は、この事件の始末をどうつけるつもりだ」
「海上は関東軍の管轄外であれば、私たちは警察でもありません。兵務局の特務機関に渡った情報は、情報提供者が殺されていれば慎重に扱わざるを得ません」
「事件の顛末は、全て包み隠さず報告しろ」
私が頷くと、黒羽少佐は肩をすくめる。
犯人が見せつけた名簿であれば、一先ず真偽がわかるまで胸の内に留めておくのが良いだろう。
「それに犯人の身柄を取り押さえたところで感謝するのは、任務失敗を恥じない九重中尉だけでしょう」
「何もしないのか?」
「私たちは、いずれ黒幕が見つかるまで犯人に騙されたままということです」
「お前の慎み深さには、いずれ限界がくるだろう」
「それは、まだ先の話だと思います」
旅客船は左舷に陸を眺めながら佐世保港に向かっており、書生の相田を伴った窪坂も下船準備で船内食堂に集まってきた。
階段を下りてきた二人は、私と黒羽少佐に会釈してから笹木と絢子のテーブルについた。
笹木は絢子と二人で会話したい様子だが、彼自身が親しくなった相田を呼び寄せた張本人であれば、席を外してくれとは言えないのだろう。
「情報提供者を海に突き落とした犯人は、彼らの誰かなのだろう」
「おそらくは、あの人物を置いて他にありません」
笹木は不貞腐れていれば、絢子は一瞥するだけで外方を向くし、彼女に『紳士的な振舞い』と称された窪坂は私に訝しげな視線を送っている。
そして背中を向けている相田が椅子の背もたれに手を回して振り返る素振りだったので、これ以上の詮索を止めた。




