23 弓田宗介
九重は昭和十年、陸軍士官学校の恩師である山城陸軍教授から、第一師団に配属された弓田の教練を依頼される。
弓田の素性を知り得る山城だが、帝都不祥事件の直後に所在不明らしく、九重の推察によるところは、不穏分子を招き入れた自責の念に耐えかねて自死を遂げたか、組織の口封じに殺されたのか。
九重は、自分の恩師が組織の構成員だった可能性を排除している。
山城が組織から与えられた役割は、謀反を企む陸軍青年将校の内偵である九重に弓田の身柄を預けることだった。
そう考えれば話が単純になる。
「山城は、陸軍省の出身だったな」
黒羽少佐が呟くと、九重は頷いて同意する。
つまり陸軍省には相反する二つの思惑があり、一つは陸軍青年将を諌めて革命の志しを頓挫させたかった者、彼らを憂国の士に祭り上げて政変を目論む者がいた。
九重が前者で弓田が後者であるならば、陸軍省内に存在するだろう異なる意思決定機関の主導権争いであり、この期に及んで騙されたと認めない中尉が、敵と味方を見誤ったのが発端に思う。
「九重中尉が弓田を身内だと考えたのが、彼に青年将校の人脈を明かした訳合ですね」
「俺は当時、弓田を後任だと思っていたからな」
「後任?」
「情報士官の高幡は、彼らと親しくなった俺が情に流されていると考えたんだろう。記者風情に手玉に取られて青年将校の活動を後押しした俺は、彼らの信頼を勝ち得ると同時に部局内の不信感を招いた」
九重は先ほど『内輪揉めを気にして義理を欠く』と言っていれば、帝都不祥事件で決起した青年将校の処遇に無情を感じている。
九重が三流の諜報員との見立てには、どうやら狂いがないようだ。
「第一師団から朝鮮軍への転属は、対象に阿った中尉への不信感が原因ですか」
「俺は、そう演じていただけだ」
陸軍青年将校らに取り入るためだとしても、人目に触れる記者の取材を受けたのは独断が過ぎる。
しかも弓田なる同業者に、まんまと利用されたのだから目も当てられない。
「陸軍青年将校の会合には他にも内偵がいたが、それぞれの素性を明かされていないとなれば 弓田を後任に据えるしかあるまい」
高幡なる情報士官は、記者の取材を受けて矢面に立った下働きの諜報員が、いずれぼろを出すと踏んで情報を与えず事態から遠ざけたのだろう。
九重の話からするに、敵対する諜報員が彼を踏み台して陸軍青年将校らに近付いて、甘言を駆使して帝都不祥事件を扇動したと理解しても、正体不明の弓田なる人物が全ての首謀者というのは頷けない。
九重は自分を出し抜いた弓田が、一介の諜報員ではなかったと思いたいのか。
弓田が行動で定義付けられているのならば、弓田の行動を主導している者こそ首謀者であり、この策謀劇の脚本を書き続けている『Y』が相応しい。
それに弓田宗介の名前が複数人で使い分けられていると示唆するならば、ただの秘匿名に過ぎないので、これを首謀者と断言するのが難しい。
「九重中尉は弓田を主導する者が弓田本人だと確信しており、彼らは総体として陸軍省と別の行動原理で活動していると言うのですか?」
「俺が面倒見ていた弓田は、誰かの指示を受けていたと思えない。俺の知っている弓田も、佐野の取材を受けた弓田も、その行動において同一人物と思わせる特質を持ち合わせている」
九重の話を聞くに、弓田は十代の聡明な美少年であり、佐野なる新聞記者の取材を受けたのは、異様な風貌の帝国軍人だった。
つまり容姿の点で一致するところがなくても、彼は出会う者に弓田だと認識させる奇術が使えるらしい。
しかし初対面の相手を前にして、他人に成り済ますのは容易だとしても、佐野がよほど間の抜けた人物でない限り、何某かの事情を心得て協力しているのが疑わしい。
九重が新聞記者の佐野から伝え聞いた情報の信憑性は、格段に精度が落ちると考えて良さそうだ。
「九重中尉の話が事実だとすると、奥山と梶原を葬った犯人が弓田の頭目とは思えません」
「なぜだ?」
「乗り合わせている弓田も、これまで確認されている模倣品である可能性が否定できません」
九重は肩を竦めると、私の理解不足を嘆くように呟いた。
「この事態の首謀者が、俺の知っている弓田である必要はない。貴様の言ったとおり、弓田は総体として個の理があり、それは他者に依存しない」
そんなこと九重だって理解しているからこそ、弓田なる秘匿名をもつ間者を束ねる『Y』がいて、そいつを本物として謁見したいと考えているのではないのだろうか。
「弓田の名前を冠する者であれば、誰しもが弓田本人だと考えている?」
「馬鹿げていると思うだろうが、俺は弓田宗介が複数いると考えていない。弓田を役者に準えたのが、ボタンの掛け違いならば訂正しよう」
九重は一呼吸置いて丸窓から暗い海を眺めると、口元を手で隠した。
「弓田が登場人物だとしたら、一つの芝居に登場する弓田宗介は唯一無二ということだ」
「ええ、ですから弓田宗介を演じる役者は複数…」
「俺が知っている弓田も、佐野の取材を受けた弓田も、そして乗り合わせているだろう弓田も全て同一人物だ。年齢や容姿、性別、それらの外的要因を排除して、彼らの内側に弓田宗介が存在しているとしたら」
「彼は、変装の名人だと?」
「変装? 大名を演じるのに大名である必要はなく、弓田宗介を演じるのに弓田宗介である必要はない。しかし大名は存在するし、弓田宗介も存在する」
「九重中尉は、観劇にきた客ということですか」
「俺にも俺の役回りがあるはずだ」
得体の知れない怪人あいてに、帝都不祥事件で裁かれた者の無念を晴らすなんて役回りは、大根役者には荷が重いだろう。
それに九重は当初、旅客船に乗り合わせた弓田を本物と名指ししており、彼の知っている全員が弓田だとするならば矛盾している。
「九重中尉の話は、私の理解を超えます」
私が黙っている黒羽少佐に目配せすると、九重とのやり取りを目を閉じて聞き入っている様子だった。
黒羽少佐は、私が部屋を訪ねる前に展望通路で九重と密会していたが、何か吹き込まれているのだろうか。
よもや私が首謀者『Y』の思惑を測りかねて報告を怠っていること、九重から不穏な行動ありと密告されているわけでもなさそうだが、不満げな面持ちの訳合が読み取れない。
「俺は、貴様が弓田である可能性だって捨てたわけじゃないんだ」
私が『馬鹿げている』と鼻で笑うと、前置きしたはずの九重は少し憤慨した様子で部屋を出ていった。
九重は結局、弓田に一杯食わされた汚名を恥じて、件の人物を人智の及ばない化生の者だとの妄想に取り憑かれているのではないか。
複数の役者が一人を演じているなら理解するが、なぜ一人の人物が、自らの容姿を変えて自らを演じる必要があるのか、その行動に訳合がなければ支離滅裂で理屈に合わない。
「中尉は、お前が事件に深くかかわっていると考えている」
「少佐は、私を弓田宗介だと疑うのですか」
黒羽少佐は椅子に浅く座り、前のめりになった私に首を横に振る。
「弓田が人心掌握に長けた稀代の人誑しならば、俺たちだって知らぬうちに踊らされているかもしれない」
黒羽少佐は『俺たち』と注釈したものの、その対象が私だけに向けられているのが明白だ。
「お言葉ですが、九重中尉が言うような怪人が存在するとは思えません。しかし弓田の存在は否定しませんし、今回の事件の首謀者が、彼の追っている弓田で間違いないでしょう」
弓田宗介には事態を首謀する者と、彼を模倣する手下がいるというのならば、私に機密文書を開示した者が本物の弓田である可能性が高い
私に機密を明かして事態を収めようなんて奇策は、一介の諜報員が思いついても実行に移せる策ではないからだ。
「九重中尉は、自分を翻弄した弓田を架空の人物と認められないだけです」
「弓田が架空の人物であれば、それを作り出した奴がいるんだな」
「私は、そいつが全ての黒幕だと考えます」
それは目の前に座っている黒羽少佐かもしれないし、さらに上層部の意思かもしれないと思う。
黒羽少佐は『お目にかかりたいものだ』と、どこか話をはぐらかす素振りで、部屋を出ていけと手を煽った。




