22 虚実皮膜
この事件を首謀している『Y』の書いた策謀劇は、内通者の奥山が朝鮮軍の九重と接触するのを確認した後、実行犯である船員が裏切り者を海に突き落として、これを自死や事故死に見せ掛けることで完結していた。
しかし『Y』にとっては、ままならない事態となる。
いざ策謀劇の幕が上がってみると、副船長の青木に奥山が転落するのを目撃されていれば、犯行現場では、仲介者の梶原、偶然に居合わせた絢子、駆け付けた笹木に実行犯の人相を見られてしまった。
それに船尾の絢子、船橋甲板から青木、そして書生の相田がいた船内食堂を通り抜けて、笹木まで階段から駆け付けたのだから、意図せずに密室殺人となったのも想定外だったはずだ。
なぜなら目撃者の証言によるところ、副船長の青木より先着した船員しか犯行可能な人物がいないからだ。
せめて実行犯の逃走経路を確保できていたのならぱ、犯行現場にいなかった全ての乗船客や船員が容疑者となり、犯人の特定を難しくしたのである。
また関東軍の憲兵隊が旅客船に乗り合わせて、事件の真相を調べることになったのも、『Y』の預かり知らぬ話だったのではないだろうか。
「いいや、そうとも言い切れないか」
私は絢子と笹木を船室に残すと、不用意に出歩かないように言付けてから、黒羽少佐のもとに向かっている。
関東軍上層部のクーデター計画を知る『Y』の策謀劇は、飛び入りの参加者が増えたことで書き直しを迫られたが、『Y』が私に機密情報を明かして手を引かそうとするのならば、石原莞爾の密使を疑わせる黒羽少佐は、『Y』自身か身内の可能性を否定できない。
そうと考えているからこそ、私は策謀劇に介入することを躊躇って、入手した機密情報を黒羽少佐に報告していなかった。
「私の報告を聞いた少佐は、関東軍上層部のクーデター計画が第三者に漏れていると慌てるか、それとも秘密が守られたと喜ぶか」
問題は、私の立場である。
関東軍の憲兵隊は、そもそも関東軍参謀長である東条英機の麾下にあり、黒羽少佐が参謀長と角を突き合わせる石原莞爾の密使だとするならば、これは軍紀違反も甚だしい。
私が黒羽家に忠義を尽くすと同等に、軍務に服することを美質として、ときに傍観者であることを好むと、黒羽少佐も心得ているからこそ、内地での任務について明らかにしていないのである。
それが黒羽少佐なりの配慮であるのならば、私が臆面もなく論えば、これを台無しにしてしまうので、少佐を蚊帳の外に置いて事件を解決しようとした。
だから問題は、やはり私の立場なのだ。
黒羽少佐が、そもそも本件に無関係である場合、報告を躊躇っている私は、上官命令を無視していることになり、『Y』なる人物の筋書きを主体的に受け入れたことになる。
私が軍務に服して知り得た機密情報を報告したとして、クーデター計画を知り得た少佐が情報を揉み消すのであれば、傍観者を決め込むのが不可能だ。
「首謀者の真意が分からない私は、心ならずも『Y』の思惑通りに動いているわけだ」
私は今、恰も『Y』の身内のように振舞っているのが、何とももどかしい状況だった。
後頭を三回ほど叩いたものの、名案が浮かぶわけではないのだが、心が晴れないときの癖である。
黒羽少佐に任務の詳細を尋ねれば、包み隠さず話してくれるだろう。
しかし私は、今に至るまで聞き出そうと思わないし、少佐だって深入りさせる気がないから、わざわざ話そうと思わなかったはずだ。
それもこれも、黒羽少佐が『Y』の身内との疑念が芽生えたからで、その原因は策謀劇の首謀者が、私に手の内を明かしたからだ。
「これは踏み絵だな」
黒羽少佐の船室から九重の声が聞こえるので、ドアをノックする前に気持ちを整える。
私が入室すると、少佐が難しい顔で九重に向き合っていた。
「九重中尉も同席するのですか?」
「俺がいると、不都合があるのか」
鼻を鳴らした九重は、私を一瞥してから椅子に座る。
私だって不機嫌に後ろ手を組んで斜に構えると、黒羽少佐はため息交じりに肩を落とした。
「九重中尉は、今回の騒動について情報提供があるそうだ。お前も聞きたいことがあるだろうと思って、中尉を待たせていた」
「二人も犠牲者を出して、今さら情報提供ですか?」
黒羽少佐は『つまらん意地を張るな』と、私に背を向けたまま椅子に腰を下ろした。
「今回の騒動は、貴様の推察したとおり、船内で行われた情報戦に他ならない。殺された奥山は、陸軍省に雇われた内偵に間違いないだろう」
知らぬ存ぜぬで白を切っていた九重だが、伝書鳩を使った機密情報の受渡しを終えたからなのか、随分と口が軽くなったものだ。
ただ九重は『間違いないだろう』と、奥山が内偵だと確信がなかったことを示唆している。
その意味では、九重も陸軍省に雇われた伝書鳩であり、策謀劇の端役に過ぎなかった。
「では殺された梶原は、九重中尉と奥山の仲介者だったと認めるのですね」
「俺は、むしろ梶原が陸軍省の雇った内偵だと勘違いしていた。だから野次馬の中に梶原の姿を見つけて、情報提供する機を逸した」
「海から身投げした者が、梶原ではないと分かって態度を改めたのか?」
「そうだ」
梶原は騒動を聞きつけて、野次馬に加わらず船底部屋に逃走したはずだが、現場に引き返してきたのだろうか。
しかし九重の言い分が正しかったとしても、奥山の騒動のとき、素性が知れない関東軍の憲兵に情報提供したとは思えないので、これは捜査協力を申し出るための屁理屈だろう。
そうであるなら、九重が身分を明かして関東軍に協力を申し出る訳合は、情報戦の後始末ではなさそうだ。
「九重中尉は、梶原と面識があったのですか?」
「いいや。俺が接触する相手は、船内食堂のテーブルで端の切れた注文表を見ている人物だ。俺は船内食堂で、その符丁を目印にして梶原に割符を渡して、情報を得る算段だった」
「それが、奥山の上着に残されていた紙の切れ端か。つまり梶原は、九重中尉から割符を受取った後、展望通路で奥山に受渡して情報と交換している」
「俺は奥山が殺された深夜、船内食堂で夜明かししていた梶原から情報を得た。奥山という男が、今回の任務と無関係だと考えたから素性を明かせなかった」
「梶原が殺されて状況が変わった? 九重中尉は、陸軍省の雇った内偵が殺されたので、関東軍の私たちと協力して犯人の身柄を確保したい」
「貴様は犯人探しよりも、事件の背景に興味がある様子だった。俺はからっきしだが、口ぶりから察するに門外漢ではないだろう」
九重は気付いていない様子だが、奥山が直後に転落しているのであれば、符丁である紙切れや割符である鍵札付きの鍵が、奥山の船室に残されているはずがない。
つまり上前をはねた第三者が割符を入手した後、梶原に接触して偽情報とすり替えたのが明白である。
九重が情報のすり替えに気付いてないであれば、なぜ今さら犯人探しに固執して関東軍の憲兵に協力を求めるのか、ますます理解に苦しむ。
「九重中尉の証言は、捜査の役に立ちそうか?」
黒羽少佐が振り返るので頷くと、九重は満足気に腕を組んだ。
九重が犯人探しに積極的ならば、よもや話を聞かせた私や黒羽少佐が犯人だと疑っていないのだろう。
否、そこまで頭が回っていないのかも知れない。
九重には、諜報員としての未熟さを感じるし、感情的な言動に私怨めいた気概を感じれば、黒羽少佐が黒幕との疑念を抱いている様子が微塵もない。
「九重中尉は、犯人を探してどうしたいのでしょう」
「どうしたいとは?」
「あなたが陸軍省の諜報員なら、犯人の身柄確保を置いて、身分を明かして何の得があるのですか」
「陸軍省と関東軍の折合いが悪いとは言え、敵同士ってわけじゃない。それに俺が身内を売るような仕事に従事している理由は、二・二六事件を未然に防げなかった自責の念からだ。内輪揉めを気にして義理を欠くほど、まだ落ちぶれていない」
九重自身が苦々しく言うのだから、諜報活動に従事する境遇を恥じていると思った。
しかし義理を欠くとは、いったい誰のことだ。
九重が義理立てするべきは、陸軍省ではないらしい。
「貴様は、『弓田宗介』の名前に心当たりがあるか」
私が首を横に振ると、九重は大きく息を吐いて椅子に深く座り直した。
「第一師団に所属していた俺が、陸軍省軍務局の依頼で青年将校運動を内偵していたとき、弓田宗介なる二等兵の教練を引き受けたが、とんだ食わせ者だった。弓田は、俺が不祥事を未然に防ぐことを目的とした特務機関の人間と知りながら、陸軍青年将校らを焚き付けて不祥事を扇動した」
「弓田が扇動した不祥事とは、帝都不祥事件ですね。では九重中尉が義理立てしているのは、事件に関わって処罰された第一師団の青年将校ですか?」
「そうだ」
弓田宗介とは、黒羽少佐が評した帝都不祥事件に介在した第三者だろう。
黒羽少佐は、弓田が『国民七千万人のために、青年将校ら二十余人を犠牲にした』と言っていたが、それは陸軍上層部が血気にはやる青年将校を粛清することで、政治的主導権を掌握したからに他ならない。
なぜなら長引く不況に喘ぐ国民の大半が、その原因を天皇の取り巻きによる独裁状態にあると、革命による天皇親政を訴える青年将校運動に好意的であり、彼らの不満の捌け口の矛先が当時の政権に向っていた。
だから支配階級にある当時の政権と話がまとまっていた陸軍上層部には、先鋭化する青年将校の粛清が必要だった。
つまり弓田が帝都不祥事件を扇動しなければ、爆弾を抱えた陸軍上層部が政治的主導権を握るに至らず、保身に走る支配階級による独裁政治が続いていたはずだ。
弓田は、たった二十余人の犠牲にして目的を果たしたのだから、これを黒羽少佐は好手と評したのである。
「弓田なる人物は、今回の騒動と関係があるのですか。九重中尉は、よもや弓田が事件の首謀者だと考えておいでか?」
「俺は、そう思う」
弓田が陸軍上層部の執権に一役買ったのであれば、いくつか疑問がある。
九重が不祥事件を未然に防ぐために内偵していたのならば、そこに弓田を送り込んだ者は、なぜクーデター計画を実行するように仕向けたのか。
陸軍上層部が政治的主導権を掌握するためだったとすれば、陸軍省の意向と相反するものではないのだから、陸軍省のお家騒動が疑わしい。
ただ弓田を今回の事件の首謀者だとするのならば、大日本帝国から離反を企む関東軍の計画を察知していながら、陸軍省の手柄としないのは矛盾している。
陸軍上層部に政治的主導権を掌握させることと、関東軍が率いて満州を大日本帝国から独立させることは、二律背反するからだ。
この事実に敢えて整合性を見出すのならば、弓田の目的は大日本帝国を騒乱に陥れること、そのものにある。
「弓田を教練していたのなら、この船に乗り合わせていれば見分けがつくはずです。九重中尉は、そんな人物に心当たりがあるのですか」
九重中尉が犯人探しに協力を申し出た訳合は、陸軍青年将校を陥れた弓田を捕らえたい一心だろうか。
私が探している『Y』と弓田が同一人物ならば、彼と顔見知りの九重中尉が身分を明かして、関東軍を頼ってくるのは、些か首を傾げることろだ。
「弓田は、その行動により弓田宗介であれば、誰でも弓田に足りる。貴様は、虚実皮膜論を知っているか」
「虚実皮膜論は、浄瑠璃作家の近松門左衛門が唱えた演劇論ですね。芸事の真髄は、虚構と現実との微妙な狭間にある−−でしたか?」
「ああ、役者が演じるとき、写実だけではなく、虚構があることによって真実味が増す。つまり役者が大名を演じるとき、大名である必要がなければ、風貌を似せる必要すらない。ここに、浄瑠璃や歌舞伎などの芸事の真髄がある」
浄瑠璃の人形や歌舞伎役者の厚化粧は、写実的と言い難くとも、観劇する客は、人形や役者ではなく登場人物そのものとして没頭している。
本物の大名が歌舞伎役者のように大見得をきるわけがなければ、厚化粧で隈取するわけもないが、歌舞伎役者が写実的に大名を演じれば、舞台の照明や舞台装置の作り物が際立ち、観客が興醒めしてしまう。
浄瑠璃や歌舞伎などの芸事は、観劇という現実の娯楽を前にして、虚構と虚構を重ねることで真実味を増すのである。
「九重中尉が教練した弓田は、弓田を演じていた役者と言うことですか。だから弓田が船に乗り合わせていても、それが中尉の存じている弓田である必要がないと?」
私は、小馬鹿にして肩を竦めた。
事件の首謀者である『Y』が、仮に弓田だとするのならば、刻一刻と変化する状況を見ながら脚本を書換えており、そんな真似が出来る奴が、誰かの操り人形のはずがない。
「いいや。俺を唆した弓田が役者だとしたら、この船に乗り合わせているのが本物かもしれない。ここは逃げ場のない船上、本物の弓田と接触する千載一遇の好機なんだ」
九重は顔を高揚させると、椅子の肘掛けを握り締める。
「俺は、なぜ弓田が青年将校を死地に送り出したのか、その真意を確かめたい。陸軍省は、弓田を国家転覆を企む狂人だと言うが、俺は、奴の行動に大きな意味があると考えている」
「大きな意味?」
九重は立ち上がると、黒羽少佐が座っている椅子を押し退けるようにして、私に駆け寄り肩を掴んだ。
「軍部に政治的主導権を与えたのが、弓田の目的ではないのなら、その先にこそ、奴の求める答えがある。そうと考えなければ、陸軍省は……俺は、仲間の命を政争の具にしたことになる」
「九重中尉は、弓田という個人を買い被りすぎではありませんか。話を聞けば、某か組織の構成員が疑わしい」
弓田を名乗る人物が複数いるのであれば、帝都不祥事件を扇動した人物と事件の首謀者『Y』は別人であり、九重中尉が渇望する答えとやらは、犯人の身柄を押えても諒解するとは限らない。
いいや。
偽名を名乗る者が、歴史を動かす大物であるはずがなく、弓田なる人物だって誰かの手駒に過ぎないだろう。
私としては、今回の策謀劇を演出した『Y』と弓田が、別人であってほしいとさえ思う。
私の見立てた『Y』は、表舞台に立って大立ち回りを演じるような、そんな大胆不敵な真似ができる人物ではないからだ。
九重は『では聞かせよう』と、前置きしてから背広の襟元を整える。
弓田は昭和十一年年明け、神戸市郊外に居住を構える新聞記者の佐野俊二宅を訪ねると、九重との対談本が、陸軍青年将校らを革命に駆り立てるだろうと帝都不祥事件を予見した。
佐野は後日、匿名を条件にした陸軍関係者との対談本を出版したが、本を手にした九重が、記事の内容から対談相手を弓田だと決めつけて佐野を恫喝すると、彼の口から弓田の素性を聞き出すことに成功する。
弓田は満州生まれの日本人であり、幼くして内地の親戚に引取られて青年期を過ごした後、監軍部工兵会議(陸軍技術本部)に入隊したらしいが、その後の軍歴は不明だった。
それだって偽名を名乗る男の戯言であれば、どこまで信用できるのか疑わしいのだが、九重の考える人物像とは、重なるところがあるようだ。




