20 何を恐れているのか
時計を見れば二十時半。
炊出しが二十一時までと聞いているので、船員の首実検に必死な笹木は、まだ船室に戻っていないのに、彼の部屋を訪ねるのだから、目当ての人は笹木ではない。
笹木は、奥山と梶原を殺した実行犯が旅客船の乗組員だと決めつけていれば、絢子が犯行を目撃したと確信している素振りだった。
「絢子さんは、こちらにいますね」
私はドアをノックすると、昨晩から姿を見せない絢子が、笹木の船室にいると考えて声を掛ける。
笹木は『部屋に連れ込んでいない』と言っているが、実行犯である船員が、合鍵を持っているだろう二人の船室を交換していないとは、言っていない。
「どうして解ったの?」
「私が笹木さんなら、そうすると思うからです」
「貴方も、私が犯人に襲われると考えているのですね」
絢子が犯行を目撃したと考えている笹木は、自分の船室に絢子を匿って、彼は彼女の船室で、口封じに来るだろう犯人を待ち構えていた。
犯人が目撃者の口封じするような短絡的な人物ならば、笹木の船室だって安全とは言えないのだが、彼にしてみれば、一先ず自分の命より彼女を守りたかったのだろう。
「どうぞ、お入りください」
綾子に勧められて笹木の船室に入ると、丸窓を開けて右舷側の展望通路をガラスに反射して覗き込んだ。
【3階層】
左舷 右舷
階段↑
A04 A03
A05 A02
A06 A01
階段↓
B07 B19
B08 B18
B09 B17
B10 B16
B11 B15
B12B13B14
【3階層の乗客名簿】
A03 窪坂倉雄
A04 黒羽武
A06 奥山高貴
B11 中条絢子
B16 笹木正男←
笹木の船室からは、右舷側の展望通路が見えるものの、後方過ぎて通路中程まで見えなかった。
Bから始まる二等船室は、満室なのだが、Aから始まる一等船室の乗客は、黒羽、窪坂、奥山の三名だけで、空部屋が施錠されている。
つまり船員が管理している合鍵を使わなければ、通路中程まで見通しが効く、船首側にある左舷側の一等船室から、奥山と梶原が密会していた展望通路を監視することができない。
それでも丸窓から顔を外に出せば、覗き見ることも可能だが、それでは二階層から丸見えであり、用心していた二人を、こっそり覗くのは不可能だろう。
奥山を殺した実行犯は、やはり合鍵を持っている船員に限られるのか、それとも犯人は、何かしらのトリックを使って、見えないはずの展望通路を覗き見ているのか。
私は左舷側の二等船室の乗船客を洗えば、新たな容疑者が見つかると踏んでいたのだが、どうやら見当違いだったらしい。
「何か気になることでも?」
「いいえ。ただ絢子さんは、海が怖いと仰っていましたが、波音を聴いても平気なのですか」
「え、ええ……。あのときは、人が船から落ちたと聞いて、気が動転していたので慌てましたが、今は落ち着いています。本国から朝鮮半島に渡るときも、とくに問題がなければ、克服したと思っていましたわ」
「そういうものですか」
絢子は子供の頃、高波に襲われたことがあり、奥山の騒動を聞き付けて恐怖心が蘇ったと証言していれば、船室に閉じ籠もって滅入った気分を晴らすために、展望通路で夜風にあっていたとも証言している。
であれば、絢子が恐怖したのは海ではなく、犯行直後の犯人に詰め寄られたことが原因だと思われた。
彼女は、やはり犯行現場を見ているのではないのか。
「笹木さんは今、船内食堂で『男が身投げしたぞ』と騒いだ船員を探しています。彼は、あなたに詰め寄った船員が、奥山を海に突き落としたと考えているのです」
「その話は、笹木さんから聞かされました。でも本当に、私は何も見ていないのです」
「音はどうですか」
「音ですか?」
「笹木さんは、何かが水に落ちる水音を聴いた直後、絢子さんの悲鳴を聞いたと言っています。笹木さんが、あなたが犯行を目撃したと疑っている訳合は、そこにあるのです」
笹木には申し訳ないが、その証言があるから、私は絢子を容疑者から外せないのである。
船尾側から現場に向かった絢子には、梶原が船首側から船内食堂に戻った後、一人きりになった奥山を突き落とす好機があったからだ。
梶原が船橋甲板から下りてきた船員に気付いて、船内食堂に戻ったと言うのは、私の見立てに過ぎなければ、絢子が奥山を突き落とした直後、悲鳴をあげて人を集めた可能性がある。
現場付近にいた絢子が、三階層から吹抜け階段を下りてきた笹木が聴いた水音を知らないのは、やはり辻褄が合わない。
「覚えていません。私はあのとき、子供の頃に高波に襲われて、桟橋から落ちて溺れたことを思い出して、思わず叫んでしまったことです」
「梶原が転落したと聞かされたときも、同じように思い出したのですか?」
「いいえ。今朝の騒動のときは寝ていましたし、笹木さんに逃げるように言われても、とくに昔を思い出すことがありませんでした」
絢子は、梶原が海に転落したと、笹木から聞かされても動揺しなかったらしい。
彼女は、誰かが海に突き落とされたから、心の痛手を想起したわけではない。
「なるほど。絢子さんは、誰かが海に落ちたと聞かされても平常心でいられるのに、奥山のときは、自分が海に落ちて溺れた苦痛を思い出したのですね」
絢子が頷くので、彼女が何を恐れて悲鳴をあげたのか考えれば、奥山が海に転落する水音が、彼女に海に転落したことを思い出させたのではないだろうか。
犯行現場を目撃していなかった絢子が、奥山の落水する音を引き金にして、恐怖心が蘇ったと言うのであれば、確かに話の筋が通る。




