14 九重中尉の独白
九重は船が動き出すと、人気のない展望通路から渡り鳥が飛び立つのを眺めて、誰に話し掛けるでもなく口を開いた。
「俺の任務で救われる連中もいる」
吐き捨てた九重は、重圧から解き放たれた気分となり、今日までの出来事を振返り、高幡が売国奴と罵った弓田宗介の正体に思いを巡らす。
弓田は、九重の人脈や情報を使って倒閣を声高に叫ぶ、陸軍青年将校をクーデターに駆り立てて一掃していれば、日本帝国の立憲主義を崩壊させて、統制派の軍閥組織の台頭を促しており、陸軍省の思惑と一致しているのだから、高幡の言うところ売国奴ではないように感じていた。
弓田が皇道派の青年将校に接近して革命思想を煽った上で、これを一網打尽にするのは、高幡の流儀に反するだけで、結果的に見れば、立憲主義の統治理念である天皇機関説を否定した国体明徴声明により、政治的主導権を掌握した統制派の軍部を手助けしている。
「高幡は、弓田を国家転覆を企む狂人だと言うが、俺には、ただの陸軍省の過激派と穏健派の派閥争いにしか思えない」
陸軍省は遡ること昭和六年三月、陸軍中堅幹部によって計画されたクーデター未遂事件(三月事件)の発覚により、陸軍の不祥事を未然に防ぐことを目的とした特務機関を軍務局内で秘密裏に設立している。
陸軍省情報士官の高幡は陸軍士官学校を卒業後、若輩の身でありながら、陸軍内で倒閣を企む者の情報収集を命じられており、同卒だった第一師団の九重を通じて、日本帝国の軍事国家化などの政変を企む軍閥組織に接近していた。
九重は当時、実直な性格を買われて第一師団の中堅幹部に重宝されていれば、中学を卒業して陸軍士官学校に進学しており、高幡より歳が若く、使い勝手のいい友人だったのである。
特務機関の任務に九重を巻き込んだ高幡は、彼を利用して皇道派に影響された第一師団の陸軍青年将校を内偵しており、九重から聞き出した情報で、海軍青年将校が武装蜂起した五・一五事件を事前に察知して、血気に逸る陸軍青年将校の説得工作に成功した。
高幡は陸軍青年将校を慰留させた功績により、特務機関での評価を高めたものの、実直な性格と評されていた九重は、陸軍省に情報を漏らした自責の念に苛まれる。
「高幡に利用された俺は、仲間に汚名を着せなかった自己欺瞞で陸軍省の手先に成り下がったのに、弓田の正体を見抜けず、陸軍青年将校を暴走させてしまった」
そして九重が所属していた第一師団は昭和十一年二月二十六日、皇道派の影響を受けて元老重臣さえ殺害すれば、天皇親政が実現して、政治腐敗や農村困窮などの政治問題が解決すると、帝都不祥事件を主導した陸軍青年将校が所属していた部隊である。
九重が新聞記者である佐野の対談を受けた理由は、皇道派の陸軍青年将校の歓心を買うと同時に、青年将校運動を内閣の脅しに利用していた陸軍首脳が、彼ら(主に第一師団)の切捨てを画策していると警告するつもりだった。
そんな折に、弓田宗介なる陸軍幼年学校卒が陸軍士官学校の陸軍教授である山城博明の推薦により、九重の直属の部下として二等兵で第一師団に配属される。
恩師だった山城の話では、内々の話として陸軍省軍務局の特務機関を軍紀・風紀の監督部署に独立させる動きがあり、陸軍幼年学校卒の弓田を教練してほしいとのことだった。
陸軍省の特務機関しか知らない内情を明かした山城が、九重に弓田を預けるのだから、内偵として面倒を見ろと解釈すれば、少年に青年将校運動の人脈を紹介しており、この中に新聞記者の佐野も含まれている。
こうして弓田を連れ歩いた九重だったが、特務機関との関係を示唆する山城の言葉を鵜呑みにしなかった。
なぜなら恩師が所属する参謀本部は当時、政治的主導権に直接介入していれば、軍政を司る陸軍省との折合いが上手くないと知っており、だから帝都不祥事件が起きるまでは、弓田の存在を高幡に報告しなかったのである。
九重は、そもそも第一師団の所属であれば、第一師団は、参謀本部の置かれた帝都東京が師管なので、恩師の期待を裏切れるはずがなかった。
この件が露顕した九重は、高幡に『高尚な趣味に付け込まれた』と、長らく揶揄されるのだが、美少年の容姿に絆されていないと反論している。
「弓田が国家転覆を目論む狂人だと気付いていれば、陸軍青年将校は死なずに済んだのか……。俺が連れ歩いた弓田と、陸軍青年将校や佐野を唆していた弓田が同一人物だったのか、それすらも陸軍省兵務局が調べても解らないんだ。身内から送られてきた弓田が、国家転覆を目論む狂人だと見抜けるはずがない」
弓田が八面六臂の活躍を見せたのは、九重が佐野との対談を終えて東京府に戻った直後だった。
九重の人脈を手掛かりにした弓田は、皇道派の陸軍青年将校の懐に潜り込めば、佐野が出版した本を足掛りに、貧困に喘ぐ大衆が青年将校運動を肯定していると、彼らがクーデターを実行するように欺瞞工作を開始している。
陸軍青年将校を思い留まらせようと九重が対談に応じた本が、なぜ弓田の思うがまま決起を煽る内容にまとめられたのか、そこにもカラクリがあった。
佐野は対談中、現内閣の醜聞として騒ぎ立てないと約束したものの、弓田が九重に威嚇された自分を嘲笑したと理解して、諸々の問題を現内閣の責任だと書いてしまった。
これは弓田に『陸軍将校の憂さ晴らしではなかったはずだ』と、詰め寄られた佐野が『あんただって、笑ったじゃないか』と、青年将校運動を後押しするような内容は、弓田も肯定していると、反論していることからも明らかである。
つまり対談本が九重の意図に反して、五・一五事件の海軍青年将校を英雄的に取り上げて、現内閣に否定的な本を仕上げたのは、新聞記者の反骨精神に火を付けた弓田の欺瞞工作である。
弓田は人心掌握術に長けた煽動家であり、今でも陸軍省兵務局の派閥争いだと疑う九重には、彼の正体に辿り着けない。
それに陸軍青年将校の暴走を止められなかった九重は、二・二六事件で満洲に派遣された第一師団を離れて、軍籍が朝鮮軍の所属となっていれば、弓田の正体を探るのが不可能だった。
「いいや、待てよ」
九重の知る弓田は、陸軍青年将校に反乱の兆しありとなった後、満洲派遣が検討されていた第一師団から関東軍に転属しているのだが、翌年には内地に引返して予備役になって姿を消した。
旅客船で取引する機密情報は、国家転覆を目論んでいる弓田の動向であり、その情報を掠め取ろうとする関東軍憲兵は、九重が知っている弓田と歳が離れているものの、言動から諜報員の素質が見て取れる。
「弓田の正体が人殺しそっちのけで、やたら俺の任務を嗅ぎ回っている憲兵だとすれば合点がいく。あの憲兵は、陸軍省に弓田の動向を知られたくないのから、二人を殺したんじゃないのか」
九重中尉が第一師団から関東軍に転属した弓田なる軍人が、機密情報に興味を引かれる私だと疑い始めたのは、どうやらこの頃だった。




