第3話 人生の楽園
コーデリア某は、最初はしおらしく楚々(そそ)とした動作でジョッキに口をつけた。だが、冷えたエールが喉を通り抜けた瞬間、彼女の緑がかったブルーの瞳が見開かれた。
そこからは猛烈だった。ジョッキの底がだんだんと垂直に持ち上がっていき、グビグビ、ゴクゴクと、とても美人のものとは思えない豪快な音を立てて喉を鳴らす。
彼女の首はどんどん後ろへと傾いていき、もはや天井を真上から凝視しているんじゃないかと思わせる状態になったあたりで、ようやく動きがピタリと止まった。
今度は勢いよく前のめりになりながら、ジョッキの底をドシン! とテーブルに叩きつける。
顔を上げ、口の周りを白いエールの泡だらけにした彼女は、大音声で言い放った。
「くぅ~~っ!! うまいっ! オヤジ、おかわりだ!」
「誰がオヤジか!」
なんて遠慮のない奴だ。出会った時の凛々しいエリート騎士の面影はどこへ行った。
決して小さなジョッキではないのだが、見事なまでに一滴残らず空っぽになっていた。
とはいえ、あまりにも見事な飲みっぷりに、見ているこっちまで何だか気持ち良くなってしまう。
俺はやれやれと首を振りながらも、苦笑交じりにエールのおかわりを注いでやった。
さすがにここが王都の居酒屋ではなく、初対面の男の自宅(庵)であることを思い出したのか、彼女は少し赤面しながら口元を袖で拭う。
新しいジョッキを受け取った彼女は、今度は『猪肉のシチュー』へとスプーンを伸ばし、一口運んだ。
仕上げに生クリームを垂らしたトマトベースのスープと、スプーンで簡単に崩れるほどホロホロに煮込まれた猪肉のハーモニーは格別のはずだ。
スプーンを咥えた彼女は、その瞬間、それまでのトゲトゲしさが嘘のように目尻を下げ、蕩けそうな表情を浮かべた。
そこに、再び冷えたエールをゴクリと一口。
もはや恍惚としか言いようのない、完全に緩み切った顔つきだ。
そこからは、ひたすらシチューを一口、エールを一口、時にはちぎったパンを濃厚なスープにたっぷりと浸しながら、彼女は黙々と食べ続け、呑み続けた。
俺の作ったシチューも、大盛りのパンも、見る間に空になっていく。
「――そろそろ、こっちに行くか?」
さすがに大ジョッキ二杯も炭酸を飲めば腹が膨らむだろう。
俺も自分の一杯目が終わったタイミングだったので、食糧庫からこの温泉村で生産している赤ワインのボトルを取り出して彼女に尋ねてみる。
すると彼女は、らんらんと輝く獣のような目で、首をブンブンと壊れんばかりに縦に振った。
見た目に反して、かなりいける口(大酒飲み)らしい。
王都の高級店で振る舞われるような長期間熟成した逸品ではないが、産地でのみ楽しめるフレッシュでフルーティーな味わいは、また別の良さがある。
何より価格がアホみたいに安くて、マナーも何も気にせず、こうしてぐいぐい飲めるのが最高なのだ。
シチューのおかわりをドサッと追加してやり、赤ワインのグラスを渡すと、今度はじっくりとワインを口の中で転がしながら、猪肉との調和を楽しみ始めた。
シチューのベースにも全く同じワインを使っているのだから、相性が最高に良いのは言うまでもない。
だんだんとふわふわした、締まりのない目つきになってくる彼女は実に幸せそうだ。
俺もそんな彼女の様子をアテにしながらいつもより多めに飲んだから、ワインボトルが一本空になるまで、さほど時間はかからなかった。
二杯目のシチューも綺麗に空にすると、さすがに飢えた腹が満たされたようで、コーデリアは静かになった。
俺は空いた皿を片付けると、今度は口の中をすっきりとリセットできる、この温泉村特産の辛口の白ワインのボトルを取り出した。例によって濡れた紙をペタリと貼り付け、生活魔法で軽く冷やしてやる。
さらに、これまた村の牧場で作られている、少しクセと匂いの強いハードチーズを薄くスライスし、指で摘まみやすいように木皿へと盛り付けた。
(――よし、そろそろ本題か……)
腹も満たされ、温泉で気持ちも落ち着いてきたことだろう。
一週間前、俺の手から紹介状をガバッとひったくった時の彼女は、何というか、今にも限界を迎えそうなほど精神的に追い詰められている雰囲気があった。
きっと、何か他人に言えない深い悩みがあって、
『ならば大賢者に相談してこい』
と、あの世話焼きの剣聖――もとい、上司である騎士団長に言われたのだろう。紹介状の中には、おそらく彼女の失態や悩みの詳細が書かれているはずだ。そりゃあ、人類を救った伝説の英雄である大賢者様(※彼女の脳内では立派なおっさんか老人設定)ならまだしも、初対面で同年代の男にそんな恥部を見せたいわけがない。
今の彼女を見ると、食欲が満たされて冷静になったのか、少し俯いて何かをじっと考えているように見えた。
−−−−−決して、「さっきまでボロ雑巾みたいだった癖に、めちゃくちゃ食い意地が張ったところを見られて恥ずかしい」という理由でフリーズしているわけではないと思う。多分。
俺はそんな彼女に、キンと冷えた白ワインのグラスを差し出しながら、努めて穏やかに語り掛けてみた。
「……前にも言ったと思うけど、師匠はいつ帰ってくるか分からないし、用件も分からずに魔導通信で呼び出すわけにもいかないんだ。俺じゃあ力になれないかも知れないけど、まずは差し支えない範囲で、何があったか話してみないか?」
彼女は少しだけ顔を上げて、じっと俺を見つめた。
最初の「たのもう!」と叫んでいた時の強気な目つきは完全に形を潜めている。目の前の俺が、果たして自分の弱音を吐くに値する信用できる人物なのか、葛藤しているような迷いの表情だ。
「……そういえば、食事までごちそうになりながら、まだ聞いていなかったな」
コーデリアはワイングラスを両手で包むように持ち、ぽつりと言った
。
「あなたの、名前は?」
「だから、ユ……」
言いかけて、俺は喉元で言葉を飲み込んだ。
ここで改めて「ユリウスです」と本名を出したところで、一週間前の『語るに落ちたな!』というマヌケなやり取りが再現されるだけだ。かと言って、咄嗟に『ボブ』とか『ジョン』とか適当な偽名を使っても、後で後ろから話しかけられた時に、絶対に反応できる自信がない。
「――『ユーリ』と呼んでくれ」
一瞬だけ脳内で計算し、勇者パーティーの仲間たちから散々呼ばれていた、本名ベースの愛称を使うことにした。これなら不意に呼ばれても100%自然に反応できる。
「ユーリ、か。……なるほど、大賢者ユリウス様の弟子だけに、そのお名前にあやかって付けられた名なのだな」
いや、大賢者の名前が世界中に広まった頃には、俺らの年代はもうとっくに生まれているし、あやかって改名したわけでもないので、その時系列的な説明は色々と破綻している。
まあ、大賢者の実年齢が十四歳だったことを知らない彼女の時点では、そんな矛盾はどうでもよさそうなので、俺もそのまま波に乗っておくことにした。きっと俺が生まれた頃、王立学院の裏事情に詳しい知る人ぞ知る感じで、大賢者の隠れたファンが俺の親だったんだろう!(大嘘)
「ん〜? まあ、そんなところ」
「そうか。ありがとう。そしてご馳走様、ユーリ」
少し無理をしているのかも知れないが、彼女は湿っぽかった顔を少しだけ和らげ、弱々しくも、とても綺麗な笑顔を浮かべた。
――あれ?
なんだろう。改めてその瑞々しい唇で名前を呼ばれて、俺……今、ちょっとドキっとしてる?
いや、違う! そんな不埒な感情じゃない! これはかつて世界を救った大賢者の崇高な責務として、迷える後進の若い騎士を正しい道へと導かなければならないという、ただの使命感だ! そうに決まっている!
俺は心の中で激しく弁解し、チビリと白ワインを口に含んで「賢者としての責務(建前)」を思い出すと、改めて彼女に語り掛けた。
「紹介状の内容は見なくてもいい。だけど、何か困ったこと――それも、君の騎士としての進退に関わることがあったんじゃないのか?」
びくっと、コーデリアの細い肩が分かりやすく震え、視線が再び手元のグラスへと落ちた。
しばしの沈黙。時計の針が二〜三分ほど刻んだ頃だろうか。
彼女は意を決したように静かに顔を上げ、ここへ来る前にこの辺境の村の近くで何があったのかを、トツトツと語り始めたのだった。




