第2話 生活の質
コーデリア某が再びうちの敷居をくぐり、暖かい室内に入ったその瞬間。
俺の鼻腔を強烈な刺激臭が襲い、思わず本音が口から飛び出してしまった。
「――臭っせえ!!」
考えてみれば当然だった。男だろうと女だろうと、一週間も野宿を続ければ身体はしっかりと新陳代謝を起こす。ましてや、今日の雨が降る前は汗ばむような陽気だったのだ。
しかもこのバカ女、一週間のあいだ暇さえあれば「日頃の鍛錬」とか言って、庭で大剣をブンブン振り回して汗だくになってやがったからな。
うちに入ってきた牛乳を拭いたボロ雑巾――もとい、コーデリア某に向けて、俺は棚から引っ掴んだ清潔なバスタオルを全力で投げつけて言った。
「さっさと裏にある風呂に入ってこい! その臭いが完全に抜けるまで、リビングに戻ってくんな!」
「な、何を無礼なことを言うのだ! 私は臭くなどない! 現に私は自分の身体から何も感じないぞ!」
「自分の匂いは分からねえんだよ! いいからさっさと行け!」
コーデリア某は納得がいかない顔をしながらも、「そんなに匂うか……?」という感じで、己の小汚い袖のあたりをクンクンと嗅ぎながらおぼつかない足取りで風呂へと向かった。
まあ、ブツブツと文句を言っているが、うちの風呂に入れば一発で大人しくなるはずだ。
なにせ、うちの風呂は――。
「ふわわわ〜……っ!? な、なんなのだ、これは……!?」
案の定、脱衣所の向こうから彼女の素っ頓狂な歓声が上がった。
そう! これこそが、俺が魔王討伐の後に王様におねだりした、極上のご褒美プランの一つ。
この「砦」には、贅沢極まりない源泉掛け流しの露天風呂がついているのだ!
元々は、山の向こうから魔王軍がいつ襲ってくるかも分からない辺境の監視拠点。極度の緊張状態を強いられる前線の監視兵たちへの、せめてもの国営の福利厚生施設――という建前で、温泉露天風呂が設置されているのを、俺が魔王討伐の旅の途中にしっかりチェックしておいた場所だった。
あの温泉マニアの女神官エリスと希望物件が被ったらどうしようかと本気で胃を痛めていたが、第一回抽選で見事に俺がこの物件を引き当てたってわけさ。エリスが趣味より世俗の地位を欲する俗物でよかった、よかった。
ほどなくして、金属製の鎧や衣類を床へ乱暴に脱ぎ捨てる音が聞こえ、その直後に――ざぱーん!! と、盛大に風呂へ飛び込む音が家中に響き渡った。
「おいお客さーん、ここはプールじゃないんで飛び込まないでくださーい」
というか、あのアマ、一週間分の泥をまとった体のまま、洗わずに湯船に入りやがったな。
「ふおおおお〜……。溶ける、身体が、脳が溶けていく……。すべてのしがらみや悩みなど捨て去って、人類はこの温き湯と一つになるのだ……」
湯船の中から、うわ言のような恍惚のナレーションが聞こえてくる。流石にこの温泉に、そこまでの世界平和的な宗教的効用はない。
俺はお湯を汚されないうちに「ちゃんと体を洗え!」と脱衣所の外からクギを刺し、女性でも着られそうなダボっとした私服を脱衣カゴに放り込んでからリビングに戻った。
さて……。風呂から上がったら、次はあの腹ペコそうな女騎士に、飯でも食わせてやるか。
−−−−−−
「すまないな。着替えまで借りてしまって」
風呂から上がってきたコーデリア某を見た瞬間、不覚にも俺はゴクリと喉を鳴らしてしまった。
先程まで鎧という絶対防壁に隠されていた彼女のスタイルがどうなっているのか、全く興味がなかったといえば嘘になる。というか、すいません、めちゃくちゃ興味あります。
いや、俺とそう上背も変わらないし、ゆったりした男物の私服なら体の線も出ないだろうと、一応は配慮したつもりだったのだ。
ところが、男と女ではまるで体型が違うらしい。
なんと言うか、上半身の特定の部位は、オーバーサイズの服ですら誤魔化せないほどはっきりとした盛り上がりを見せ、むしろ生地が突っ張ってきつそうだ。下半身も引き締まっていると見せかけて、腰のくびれが凄まじいせいで、つんとした形の良い臀部のラインが逆に強調されてしまっている。
十代のすべてを色気の欠片もない学院での学究に捧げた俺には、少々刺激が強すぎるというものだ。
身惚れそうになるのをブンブンと頭を振って打ち消し、俺は慌てて料理の盛り付けへと戻った。
コーデリア某は野宿の間、軍用レーションくらいは食べていたようで、栄養失調というほどでもなさそうだ。
魔王討伐の旅の途中に、剣聖の野郎が行動食として持っていた軍用レーションを試しに一口かじらせてもらったことがあるが、正直に言って人間の食い物ではなかった。なんでも小麦と大豆の粉を練り合わせて塩だけで味付けし、限界まで乾燥させたカチカチの代物らしい。
剣聖は『慣れれば味覚の耐性が付く』などと嘯きながら、光を失ったような死んだ魚の目でそれを咀嚼していたが、俺はその瞬間、「絶対に軍関係の進路にだけは進まない」と固く心に誓ったものだ。
ともあれ、この温泉村にいるなら、そんな悲しい食事をする必要はどこにもない。
裏の山で獲れた新鮮な猪の肉を適当な大きさに切って、村の畑で採れた人参や玉ねぎなどの根菜と一緒に炒め、トマトと王都産の赤ワインを入れてじっくりと煮込む。煮崩れしないよう、最後の十分でジャガイモを加える。
こうして、特製『猪肉のシチュー』の完成だ。
オーブンで小麦の香ばしさを引き立てた炙りパンを添えてテーブルに並べると、横に突っ立っていたコーデリア某は、ほけっとしたおマヌケな目で料理を見つめていた。口が半開きになって、あ、端っこからよだれが今まさに垂れそうだ。
自然な生理現象として、彼女のお腹が「ぐぅ~……」と盛大に不満を訴え、彼女は慌てて腹を抑えて顔を真っ赤にした。
「そんなところに突っ立ってないで座れよ。――エールは飲むか?」
別に俺がサービス精神旺盛なわけではない。これから一緒にメシを食うのに、俺一人だけ酒を飲むのも決まりが悪ってだけだ。だが今度は、彼女がごくりと重そうに喉を鳴らすのが聞こえた。
「……いただこう……」
「あいよ」
俺は手早く、樽からジョッキへとエールをなみなみと注ぎ、濡らした紙をその周囲にピタリと貼りつけた。
「何をしているのだ?」
「こうすると、すぐに冷えるんだぜ」
怪訝な顔をしている彼女を尻目に、俺は初歩の生活魔法である「冷却」を唱える。
この魔法、本来は出力が低すぎて、せいぜい赤ちゃん向けに熱いミルクをほんの少し冷ます程度にしか使えない。一方で、これより上位の氷属性魔法になると、今度は一瞬で物体を芯までカチンコチンに凍らせてしまうため、日常での使い勝手が非常に悪い。
だが、このようにジョッキに濡れた紙を貼りつけてから「冷却」を流し込むと、気化熱の作用が合わさって超高効率で温度を下げることができる。絶妙な出力調整を施せば、氷を入れずとも、中身だけを限界までキンキンに冷やしたエールが呑めるってわけ。
「なんだ、これは……!? まるでジョッキそのものが氷の塊のようだ!」
目を丸くする彼女に極冷えのジョッキを一つ差し出し、俺も席に着いた。
「じゃあ、いただきますか。えーと、何にってわけでもないけど、とりあえず一週間お疲れさん。――乾杯!」
「あ、ああ、乾杯……」
乾いた音が響き、ジョッキ同士がこつんとぶつかり合った。




