第八話 誰も犠牲にしない選択
「や、やったーーっ! 赤点回避! 補習なしですっ!!」
放課後の生徒会室に、ヒマリの弾けたような歓声が響き渡った。
手に掲げられたテスト用紙には、赤点ラインをわずかに数点上回る、努力の結晶が刻まれている。
「……って。確かに赤点回避だけど……平均点マイナス二点だぞ! ギリギリじゃねーか。」
呆れたように溜息をつきつつも、凌の口元は心底安心したように緩んでいた。
ツンとした態度とは裏腹に、胸を撫で下ろしているのは丸わかりだ。
「でも! ギリギリでも回避は回避です! 先輩たちが放課後付き合って教えてくれたおかげです! ありがとうございました!」
「っ……べ、別に。俺は生徒会長として、欠点者を出したくなかっただけだからな。」
その様子を、ソノ、斗真、環季が微笑ましく見守る。
「ふふ。ヒマリちゃん、本当によかったね。これで心置きなく夏休みが迎えられるね!」
「ほんまやで! ヒマリが補習になったら、うちの生徒会の看板娘が不在で、盛り上がらんようになるとこやったわ〜。」
環季もおちゃらけた調子でヒマリの頭をガシガシと撫で、生徒会室は和やかな安堵の空気に包まれていた。
「よし、じゃあみんな今日はこれで解散! 明日からは夏休み明けの体育祭の準備に、早めに取りかかっていこう!」
凌の号令でメンバーたちが鞄をまとめ、次々と部屋を後にする。
ヒマリも「お疲れ様でした!」と元気よく挨拶して帰り支度をした。
「あれ? 環季先輩は帰らないんですか?」
「おー。俺はちょっとだけ会計の最終計算が残っとるから。書類まとめてから帰るわ。先帰ってて〜!」
ひらひらと手を振りヒマリを見送った環季は、一人生徒会室に残った。
◇
夕暮れ時の生徒会室に、キーボードを叩く音と電卓の規則的な音が響いていた。
画面に並ぶ表計算ソフトの数字を前に、環季は額に滲む汗を拭うことも忘れて固まっていた。
「……嘘やろ。去年の予算を基準に組んだはずやのに……なんで、こんなに差が出とるんや……。」
体育祭まで、あと二ヶ月ほど。
各部活動への予算配分はすでに完了している。
今週はいよいよ、音響機器のレンタル、大型タープテントの補充、救護用品や競技用小道具など、本番に必要な物品の発注を確定させる手筈になっていた。
環季は、今年度の見積書と昨年度の会計資料を何度も見比べる。
今年度の予算案を組む際には、昨年度の実績を基準に、各項目に多少の余裕を持たせていた。
大きく予算を膨らませれば、その分だけ各部活動に回せる金額が減ってしまうからだ。
だからこそ、慎重に組んだつもりだった。
――けれど。
「音響機器が……去年より五万近く上がっとる。」
レンタル料金の改定。
「テントも……こっちは六万増えとるやん。」
資材価格の上昇に加え、昨年度まで学校が所有していた一部の備品が老朽化し、今年は新たにレンタルする必要が生じている。
さらに、救護用品や消耗品も軒並み値上がりしていた。
「……去年と同じ金額で計算したら、そら合わへんわ。」
環季は唇を噛んだ。
前年の資料をそのまま信じてしまった。
それ自体は、予算を組むうえで決して間違った判断ではなかった。
しかし、今年度は想定以上にレンタル費や備品価格が上昇していた。
そして――環季は、今年の実際の見積額をすべて反映した段階で、ようやくその差に気づいた。
電卓を叩く。
「……二十五万。」
画面に表示された不足額を見つめ、環季の表情が強張った。
体育祭関連で、約二十五万円が不足している。
生徒会に残された体育祭用の予備費は、わずか五万円程度。
つまり、どうやっても二十万円が足りない。
「……これ以上の予備費を使ったら、秋の文化祭の予算が吹っ飛ぶ……。」
環季は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
これ以上の生徒会の予算は使えない。
各部活動の予算は、すでに決定済みだ。
ここから削るとなれば――。
「……俺のせいで、みんなの頑張りを削るってことやんか。」
環季は慌てて首を振った。
「いや……あかん。」
自分の判断で、誰かを犠牲にする。
それだけは、絶対にしたくなかった。
「俺のミスで……他人の予算を削り取るなんて、できるわけないやろ……。」
環季はもう一度、体育祭の予算表を見直した。
削れるものはないか。
大型タープテントは、今回は購入やなく借りる。
音響機器のレンタルも、必要最低限まで縮小する。
競技用の小道具も、代用品で済ませられるものを探す。
「これで……十万くらいは削れそうや。」
しかし画面の数字を更新しても、赤字は消えない。
残り十万円。
「……それでも、十万足りへん。」
電卓のボタンを叩く指が、ガタガタと震え始める。
その規則的な機械音は、いつしか環季の脳裏で、何年も昔の「あの音」へとすり替わっていった。
◇
――パチ、パチ、カタ……。
暗い居間で、毎晩遅くまで電卓を叩いていた父親の背中。
中学生の頃、父の長年の知人が経営する会社が傾き、「一時的に名前を貸してほしい」と頼み込まれた。
父は「昔からの世話になった人やから」と笑って保証人になった。
数ヶ月後、知人の会社は倒産した。
数百万円に及ぶ返済の請求が家に届き、家の貯金は一気に減っていった。
母親はパートの時間を限界まで増やし、家族旅行はなくなった。
環季が欲しかったものも、何一つ買えなくなった。
それでも父親は、頭を下げて泣き詫びる知人を責めなかった。
「ええって。お前も大変やったんやろ。」
そう言って、いつものように笑っていた。
(ええって、じゃないやろ……!)
家族がどれだけ血の滲むような思いをしているか。
いい人だから損をする。
情に流された人間が、周囲の人間まで巻き込んで不幸になる。
『助けるんやったら、自分で最後まで責任取れる範囲にせえよ!』
あの夜、父親に言い放った言葉は、そのまま環季自身が生きていくための鎧となった。
「善意には限界を決める」
「人の問題には首を突っ込まない」
「金に関してだけは、一切の情を挟まない」
父親と同じ失敗をしないために。
自分と、大切なものを守るために。
環季はシビアな防衛術を身につけたはずだった。
それなのに――。
「俺は……親父と同じようにはなりとうないのに……。」
環季の視線が、赤字の数字へ落ちる。
「自分の不始末で……誰かを犠牲にしようとしとる……。」
ぽとり、と大きな雫がキーボードの上に落ちた。
情けなくて、悔しくて、目元を固く拭う。
「親父は……こんな気持ちで、毎晩電卓叩いとったんかなぁ……。」
けれど、どれだけ計算し直しても、目の前の十万円という現実の壁は消えない。
「……俺が小遣い程度で埋められる額やない。」
環季は両手で頭を抱えた。
「一体……どうしたら……。」
絶望が部屋を支配しかけた、その時――。
バァンーーッ!!
勢いよく生徒会室の扉が開け放たれた。
◇
「滝沢先輩っ!? まだ残ってたんですか!? ……って、あれ? 先輩……泣いてる?」
忘れ物を取りに来たヒマリが、環季の前に駆け寄った。
慌てて環季は涙を拭う。
「ヒマリ……? お前、なんで……?」
「私は忘れ物を取りに来て……って、それより滝沢先輩? ……何があったんですか!?」
環季は、ヒマリにすべてを話した。
今年度の見積もりが、昨年度の実績を大きく上回っていたこと。
前年の資料を基準に予算を組んでしまい、発注直前になって二十五万円もの不足が判明したこと。
自分の責任だからと、他の部活動の予算を削ることもできず、一人でどうにかしようとしていたこと。
そして――自分の家庭のことまで。
ヒマリにすべてを話すほど、今の環季は切羽詰まっていた。
もともと抱えてきた想いを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない――。
ヒマリは、環季の話を黙って聞いていた。
誰の予算も削らず。
環季一人が背負うこともなく。
それでも、お金を生み出す方法――。
ヒマリはふと、机の隅に置かれていた新入生歓迎用の生徒会ロゴステッカーに目をやった。
「これだっ! ……滝沢先輩! クラウドファンディングと駅前で、この限定ステッカーを販売して支援を募るのはどうですか!?」
「……へ? クラファン……?」
環季は涙の滲む目を瞬かせた。
一瞬差した希望の光も、彼は即座に首を横に振る。
「……待て、ヒマリ。気持ちはめちゃくちゃ嬉しいけど、そんな甘い話やない。うちの校則じゃ不特定多数からの集金は固く禁止されとるし、駅前の街頭販売なんて、学校の許可だけやなく、場所によっては道路使用許可やら何やら手続きも必要になる。それにクラファンの振込は、数日後の発注期限には絶対間に合わへん……。」
「そっかぁ……。」
現実の壁を突きつけられ、ヒマリはしょんぼりと肩を落とした。
しかし――。
「でも!」
ヒマリは顔を上げた。
「誰かの予算を削ったり、滝沢先輩が一人で抱え込んだりしない方法……絶対にあります!」
ヒマリの瞳の奥に、熱意の火が灯った。
「校外がダメなら、校内や地元の商店街ならどうですか!? 体育祭のパンフレットに協賛広告枠を作って、お礼にステッカーも渡すんです! PTAやOB会に限定ステッカー付きの寄付を呼びかけたり……。それなら筋も通るし、期限にも間に合いませんか!?」
環季は息を呑んだ。
ヒマリの思いつきを現実の形へと噛み砕いた瞬間、一気に視界が開けていくのを感じた。
(そうや……! 学校を通した地域協賛なら、正式な手続きを踏める。顧問の先生に相談して、商店街やPTA、OB会に協力をお願いする形なら……!)
一人で背負う必要なんてない。
部活動の予算を削る必要もない。
誰かを犠牲にするのではなく――。
自分たちの知恵と、周囲との繋がりで、足りない分を少しずつ補う。
そんな「第三の道」が、確かにあった。
かつて父親が残した言葉が、ヒマリの笑顔と重なって胸の中に響いた。
『誰かを助けることが間違いなんやなくて、助ける方法を間違えただけかもしれん。』
(そうや……。親父……俺、見つけたで……!)
環季の目に、温かな涙が滲んだ。
「ヒマリ……お前は、ほんまに……すごいやつやなぁ……!」
「た、滝沢先輩……!?」
感極まった環季は、勢い任せにヒマリの肩を強く抱きしめた。
しかし次の瞬間、伝わってきたヒマリの体温にハッと我に返る。
(あ、あかん……! いくら感極まったからって……放課後の生徒会室で二人きり、女の子を抱きしめるとか何考えてるんや俺は……!?)
「っ!? すまんっ、つい……っ!」
弾かれたように腕を解き、真っ赤になった顔を慌てて背けて激しく咳払いをする。
ヒマリも突然のことに目を丸くし、少し顔を赤らめながらも照れくさそうに唇を尖らせた。
「ふ、不意打ちですよ、もう……!」
甘酸っぱい気まずさを振り払うように、環季はパンッと自分の頬を叩き、力強く微笑んだ。
「よし! 明日速攻で凌たち集めて作戦会議して、地域協賛とPTAへの協力要請を盛り込んだ完璧な企画書、徹夜で仕上げたる! 怒られるのは覚悟の上や! それでも……俺たちの手で、絶対体育祭を成功させようや!」
「はいっ!」
夕闇が迫る生徒会室に、二人の弾けるような声が重なった。




