第十二話 もっと知りたい、君のこと――
夏休みが始まって数日。
生徒会室のエアコンは、今日も朝からフル稼働していた。
夏休み明けには体育祭が控えている。
各クラスの競技種目の最終確認、部活動の夏期合宿や遠征に関する予算調整、協賛企業との広告デザインの確認――。
やるべき仕事は、まだ山のように残っていた。
「……午前中に終わらせる予定だった仕事が、まだ半分も終わってねぇ。」
凌が机の上に積まれた書類を見て、大きくため息をつく。
「体育祭って、ほんまにやること多いんやなぁ。」
環季も疲れたように椅子の背もたれへ寄りかかった。
「でも、地域の方々にも協力していただきましたからね。絶対に成功させましょう。」
ソノは資料を整えながら、穏やかに微笑む。
「うん。せっかくみんなで集めた協賛金だしね。」
斗真も柔らかな笑顔を浮かべた。
「ところで、大嶌。各学年の競技エントリー表、まだ確認が終わってねえぞ。」
「はいっ! すみません、黒崎先輩! すぐに確認します!」
体育委員長に就任した良樹は、額に汗を浮かべながら書類の山と格闘していた。
「その確認が終わったら、用具貸し出しリストと体育倉庫の備品数も照合してもらっていいかな?」
斗真が新たな書類を差し出す。
「一つでも数が違うと、当日の進行に影響するからね。」
「は、はいっ!」
「ほな、その次は備品移動計画やな。」
今度は環季が顔を上げた。
「搬入経路と倉庫の鍵の管理表も、まとめて確認しといてな。」
「……はい!」
良樹は元気よく返事をしたものの、その顔は少しずつ引きつっている。
「良樹は体格だけやのうて、ガッツもあるなぁ。」
環季が満足そうに笑った。
「ただし、まだ新人や。信頼は言うだけやのうて、ちゃんと仕事で勝ち取るもんやで?」
「はい! 頑張ります!」
その様子を見ていたヒマリは、少し離れた場所で目を丸くした。
「……よっちゃん、体育委員長になった途端、ものすごく忙しくなってませんか?」
「体育祭前ですからね。忙しいのは当然ですが……」
ソノは湯呑みにお茶を注ぎながら、生徒会室の中をゆっくりと見回した。
「……みなさんの場合は、少し別の理由もありそうですね。」
「え?」
ヒマリが首を傾げる。
凌、斗真、環季。
三人とも、それぞれもっともらしい理由をつけながら良樹へ仕事を振っている。
その様子を見ていたソノは、小さく苦笑した。
「良樹くんの指導に、少々私情が混ざっているようですね。」
「……?」
ますます意味が分からず、ヒマリが首を傾げた、その時だった。
廊下の向こうから、楽しげな話し声が聞こえてくる。
「今日、近くの神社で夏祭りあるよね?」
「そうそう! 屋台もいっぱい出るらしいよ。」
「しかも、最後には花火も上がるんでしょ?」
「あの神社、恋愛成就でも有名なんだよ?」
「えー! じゃあ、素敵な出会いがあるかも!」
楽しそうな笑い声が、生徒会室の前を通り過ぎていった。
「……夏祭り?」
その言葉に、ヒマリがふと顔を上げる。
窓の外には、夏の強い日差しが降り注いでいた。
書類と数字ばかりを見続けていたせいか、急に外の空気が恋しくなる。
「……そうだ!」
ヒマリはぱっと表情を明るくした。
「今日、近くの神社で夏祭りがあるらしいですよ!」
生徒会メンバーを見回しながら、楽しそうに続ける。
「ずっと仕事ばっかりで疲れてますし、今日くらい少し早めに切り上げて、みんなで気分転換に行きませんか?」
「夏祭り?」
凌が怪訝そうに顔を上げた。
「そんな時間あるわけ――」
「いいね!」
凌の言葉を遮るように、良樹が勢いよく顔を上げる。
「夏祭りなんて、僕、小さい頃にヒマちゃんと一緒に行って以来だ!」
「そうなの!? じゃあ、久しぶりに一緒に行こうよ!」
二人が懐かしそうに顔を見合わせる。
その様子を見た環季が、何気ない口調で言った。
「じゃあ、俺も行くで。せっかく夏休みやし、たまには息抜きも必要やろ。」
「僕も行こうかな。みんなで行った方が楽しそうだしね。」
斗真も柔らかく笑った。
凌は眉をひそめ、三人を順番に見比べる。
「……お前ら、普段だったらこういうイベント、面倒くさがって行かねぇだろ。」
「そうやったっけ?」
「そんなことないよ?」
環季と斗真がしれっと答えると、横でソノが小さく笑った。
「ところで、凌会長はどうするんです? さっき、そんな時間あるわけないと言いかけてましたけど……。」
「――時間がないとは言ってない! ……俺も行く。」
体裁を繕うように、凌は少し顔を赤らめながら言い放った。
「こ、これは生徒会の夏休みの親睦行事だ! 会長権限で、今そう決めた!」
「ええっ!?」
ヒマリは驚いたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「それじゃあ、みんな一緒に行けるんですね! わぁ、楽しみです!」
向けられた満面の笑みに、凌はますます顔を熱くして視線を逸らす。
こうして忙しい夏休みの一日に、生徒会の夏祭りという予定が加わった。
◇
夕暮れ時。
夏祭りが開かれている神社の境内には、すでにたくさんの人が集まっていた。
参道の両脇には色とりどりの屋台が並び、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂っている。
提灯の柔らかな灯りと祭囃子、人々の笑い声が、夏の夜を賑やかに彩っていた。
「わぁ……! すごい人ですね!」
待ち合わせ場所に到着したヒマリは、目を輝かせながら境内を見渡す。
「焼きそばに、たこ焼き……あっ、りんご飴もある!」
屋台を見つけるたびに嬉しそうにしているヒマリを見て、良樹が笑った。
「ヒマちゃん、その浴衣すごく似合ってるね。」
「え?」
今夜のヒマリは、普段の制服姿とは違っていた。
黒地の浴衣には、大きな向日葵の柄があしらわれている。
いつものツインテールはすっきりとお団子にまとめられ、頬にかかる後れ毛が、彼女の表情をいつもより少し大人びて見せていた。
「本当ですね。」
ソノもヒマリを見て、柔らかく微笑む。
「いつものヒマリさんも可愛らしいですが……今日は、ずいぶん雰囲気が違います。」
そう言ってから、ヒマリを見つめたまま黙り込んでいる凌へ視線を向けた。
「……会長も、そう思いますよね?」
「あぁ……。」
突然話を振られた凌は、一瞬言葉に詰まる。
「その浴衣……似合ってんじゃねえの?」
照れ隠しのように、そっぽを向いた。
「俺もそう思うで!」
環季がすぐに続ける。
「いつものヒマリもええけど、今日は……その、特別に可愛いと思う!」
「本当だね。向日葵の柄がヒマリちゃんにぴったりだ。」
斗真も穏やかに微笑んだ。
みんなから次々と褒められ、ヒマリはほんのり頬を染める。
「ふふっ。みなさん、ありがとうございます!」
笑い合いながら、一同は屋台の並ぶ参道へ歩き出した。
◇
最初に足を止めたのは、ヨーヨー釣りの屋台だった。
「久しぶりに見ると、血が騒ぐなぁ。」
環季が、水に浮かぶ色とりどりのヨーヨーを眺めながら呟く。
「滝沢先輩、得意なんですか?」
「おん!」
環季は得意げに胸を張った。
「昔、近所じゃ『ヨーヨー釣りのたまちゃん』って呼ばれとったんやで!」
「絶対嘘だろ?」
「ホンマやし!」
凌と環季のやり取りに、ヒマリがくすくすと笑う。
「じゃあ、滝沢先輩。私の分、お願いできますか?」
「任せとき。一番可愛いヨーヨー、取ったるわ。」
こよりを受け取った環季は、袖をまくって真剣な表情で水面に向き合った。
慎重に狙いを定め、ゆっくりとヨーヨーを引き上げる。
「取ったぁ!」
「わぁ!」
環季が釣り上げたのは、一番大きな淡い黄色のヨーヨーだった。
「ほら。ヒマリ色のヨーヨーや。」
「すごいです、滝沢先輩! 一発で取っちゃうなんて、かっこいいです!」
ヒマリが嬉しそうに受け取ると、環季は照れ隠しのように鼻をこすった。
「これくらい、楽勝やし!」
「お前、顔真っ赤だぞ?」
「う、うるさい!」
凌の言葉に、みんなが笑い出す。
その中で、斗真だけが静かに目を細めていた。
ヒマリが環季へ向ける、無邪気な笑顔。
それを見て嬉しそうにしている環季。
その光景を眺めていると、胸の奥が小さく疼いた。
◇
次に足を止めたのは、射的の屋台だった。
「あ……あのウサギのぬいぐるみ。」
ヒマリの視線の先には、大きな薄桃色のウサギのぬいぐるみが飾られている。
「ヒマちゃん、欲しいの?」
「え? いや……昔、お気に入りだったぬいぐるみにそっくりだなって。」
「じゃあ、任せて!」
良樹が迷わずコルク銃を受け取った。
一九〇センチ近い身体を少し屈め、真剣な表情で狙いを定める。
パンッ!
放たれたコルクが的に当たり、ぬいぐるみが棚から落ちた。
「わぁ! すごい!」
「よし!」
良樹は嬉しそうにぬいぐるみを受け取ると、そのままヒマリへ差し出した。
「どうぞ!」
「えっ!? 本当にいいの?」
「もちろん!」
「ありがとう、よっちゃん!」
ヒマリはぬいぐるみを大事そうに抱きしめた。
「すごいね!」
「海外に住んでた時、父さんとよく射撃をやってたんだ。」
「だからこんなに上手なんだぁ!」
褒められた良樹は、まるで大型犬のように嬉しそうだった。
その隣で、凌と環季があからさまに面白くなさそうな視線を良樹へ向ける。
斗真はいつもの笑顔を浮かべていたが、その瞳は笑っていない。
その様子を見ていたソノだけが、小さく息を吐いた。
◇
境内の奥から、賑やかな声が聞こえてきた。
「カラオケ大会やってるで!」
環季が指差した先には、特設ステージが設けられている。
ちょうど司会者が、飛び入り参加者を募集していた。
「誰かステージで歌ってくれる人、いませんかー!?」
「凌会長!」
ヒマリが隣にいた凌を振り向く。
「カラオケ得意なんですよね? 歌、聴いてみたいです!」
「……は? お前、なんで知ってんだ?」
「ソノ先輩が言ってました!」
「ソノ、お前……」
凌が振り返ると、ソノは知らないふりをしてそっと視線を逸らした。
「私も会長の歌、聴きたいです。お願いします!」
期待に満ちた目で見つめられ、凌は大きくため息をつく。
「……一曲だけな。外しても笑うなよ?」
「はい!」
凌は照れくさそうに首筋を掻きながら、ステージへ向かった。
「凌が学校以外でステージに立つの、初めて見るなぁ。」
環季が驚いたように凌を見る。
「あの恥ずかしがり屋な凌くんが、珍しいね。」
斗真も意外そうに笑った。
「……それほど、会長にとってヒマリさんの言葉は大きいのでしょうね。」
ソノがぽつりと呟く。
ステージの上で、凌がマイクを握った。
そして、イントロが流れた瞬間――空気が変わる。
よく通る低い声。
力強く、それでいて情感のこもった歌声に、境内にいた人々が次々とステージへ視線を向けていく。
普段のぶっきらぼうな姿からは想像できないほど、堂々と歌う凌。
ヒマリは瞬きを忘れたように、その姿を見つめていた。
曲が終わると、大きな拍手が起こった。
「すごかったで、凌! さすがや!」
「いつ聞いても、凌くんの歌声はいいね。」
斗真も素直に感心したように言う。
「今度の文化祭で歌ってみたら?」
「おい、勝手に決めんな! その時はお前らも巻き添えにするからな!」
いつもの調子で言い返す凌だったが、ふと気づいた。
ヒマリが、何も言ってこない。
いつもなら真っ先に騒いでいるはずなのに、黙ったまま俯いている。
「……おい、ヒマリ?」
凌が不安そうに声をかける。
「大丈夫か?」
よく見ると、ヒマリの目には涙が浮かんでいた。
「えっ!? お、おい! なんで泣くんだよ!? そんなに俺の歌、変だったか!?」
「違います!」
ヒマリは慌てて首を横に振った。
「すごく……良かったです。上手く言えないんですけど、温かくて、切なくて……気づいたら涙が出てきて――。」
「……。」
「凌会長と初めて会った時みたいに、すごく心に残りました。」
「……そうか。」
凌は意味を完全には理解できなかったものの、悪い意味ではなさそうだと分かり、ほっと息をついた。
そのやり取りを、斗真は黙って見ていた。
◇
環季へ向けられた、弾けるような笑顔。
良樹へ向けられた、気を許したような親しげな笑顔。
そして凌へ向けられた、尊敬と憧れの混じった眩しい眼差し。
そんなヒマリの表情を見るたびに、斗真の胸の奥がざわついた。
最初は気のせいだと思った。
けれど、もう誤魔化せない。
「……嫌だな。」
誰にも聞こえない声で呟く。
今まで、誰かを特別にしたいと思ったことなどなかった。
誰にでも優しく、誰にでも同じように接する。
誰か一人に深く踏み込まなければ、自分も傷つかないし、相手を傷つけることもない。
だからこそ、ヒマリとの距離がこれ以上縮まらないように。
『僕のこと、好きにならないで』
そう言ったのだ。
けれど今になって、その言葉をひどく後悔していた。
その時だった。
ヒュゥゥゥン――。
夜空へ、一筋の光が昇っていく。
ドォォン――!
大きな花火が、夜空に咲いた。
「わぁ……!」
ヒマリが嬉しそうに空を見上げる。
赤、青、金。
次々と打ち上がる花火の光が、ヒマリの横顔を照らしていた。
その横顔を見た瞬間、斗真はもう自分の気持ちから目を逸らせなくなった。
「ヒマリちゃん。」
「はい?」
斗真は、ヒマリの手を取った。
「えっ……!?」
「こっち。」
「え? 水川先輩、どこへ――?」
斗真は答えないまま歩き出す。
人混みと祭囃子から少し離れ、神社の裏手にある石段を上っていった。
辿り着いたのは、境内を見下ろせる小さな高台だった。
遠くには、祭りの灯りが広がっている。
「ここなら、花火がよく見えるから……。」
「……そうなんですか?」
「うん……。」
斗真は笑った。
けれど、その笑顔はいつものように自然なものではなかった。
本当は、花火を見せたかったわけではない。
ヒマリの目に映るのが、自分だけならいいと思ってしまった。
他の男たちへ向ける笑顔も、憧れの眼差しも、見たくない。
そんな自分でも呆れるほど身勝手な独占欲を、斗真は初めて自覚していた。
斗真は、繋いだままの手を見つめた。
「ヒマリちゃん。」
「はい。」
「この前、僕が言ったこと……忘れてくれない?」
「この前、言ったこと……?」
「『僕のこと、好きにならないで』って言ったこと。」
ヒマリの表情が変わる。
「それって……どういう意味ですか?」
夜空では、次の花火が上がっていた。
斗真はしばらく迷ったあと、ゆっくりとヒマリへ視線を向ける。
「本当は……僕のこと――」
その瞬間。
ヒュゥゥゥゥン――――!
夜空へ何本もの光が昇った。
ドドドドォォォォォォン――――――!!
続けて、フィナーレの花火が夜空いっぱいに咲き乱れる。
「水川先輩!?」
斗真が何かを言っている。
けれど、轟く音に掻き消されて、ヒマリには聞こえなかった。
やがて花火が終わり、夜空に静けさが戻る。
斗真は空を見上げながら、小さく苦笑した。
「……ダメだな。」
「水川先輩、さっきなんて言ったんですか?」
不安そうに見つめるヒマリへ、斗真はそっと首を横に振る。
「ううん。何でもない。」
「でも、さっき……。」
「ただ、この前のこと、忘れてほしかっただけ――。」
斗真は繋いだ手を見つめた。
自分の気持ちに気づいたのに、いざ伝えようとすると勇気が出ない。
最後に、ほんの少しだけ指先へ力を込める。
「困らせてごめんね。でも、今はそれだけ伝えさせて。」
「……はい。」
ヒマリは、それ以上何も聞けなかった。
斗真はいつもの優しい笑みを浮かべる。
けれど、その笑顔はなぜか今までとは違って見えた。
「さあ、戻ろうか。みんな心配してるかもしれないし。」
そう言って、斗真は手を離した。
「……はい。」
斗真は先に歩き始める。
ヒマリは、その背中をしばらく見つめていた。
――僕のこと、好きにならないで。
――その言葉、忘れてくれない?
誰にでも優しく、誰にでも同じように笑いかける人。
なのに、ときどき自分をひどく困らせる。
この気持ちが何なのか、ヒマリにはまだ分からない。
けれど、胸の奥にはさっきまでとは違う感情が残っていた。
――もっと知りたい。
水川斗真という人のことを。
ヒマリは、先ほどまで斗真に握られていた自分の手を見る。
まだ、その温もりが残っているような気がした。
祭囃子が近づくにつれ、再び賑やかな声が聞こえてくる。
ヒマリは前を歩く斗真の背中を見つめながら、静かにその後を追った。




