第十話 僕を好きにならないで
――あれから数日。
生徒会室には、いつになく明るい空気が満ちていた。
「……よし。これで正式決定だ。」
凌が手にしていた書類を机の上へ置く。
そこには、校長印の押された体育祭開催許可書と、協賛金の最終報告書が並んでいた。
「体育祭――予定通り開催できるな!」
「やったぁーーーーっ!!」
ヒマリが両手を突き上げる。
「ほんまにギリギリやったけどなぁ。」
環季が椅子の背にもたれながら、しみじみと息を吐いた。
「不足していた十万円を集められたのも、商店街の皆さんやPTA、OBの方々が協力してくださったからですね。」
ソノが穏やかに微笑む。
「それに、最初のアイデアを出したのはヒマリちゃんだよ。」
「えへへ……!」
斗真に褒められ、ヒマリは照れくさそうに笑った。
「でも、私一人じゃ絶対無理でした!」
ヒマリは指を折りながら、みんなの顔を見回す。
「凌会長が先生たちを説得してくれて、ソノ先輩がPTAとの調整をして、斗真先輩がOBの皆さんに声をかけてくれて、環季先輩が予算をまとめてくれたおかげです!」
「俺たちは、それぞれできることをやっただけだ。」
凌が照れ隠しのようにそっぽを向く。
「せやせや。……まあ、俺はちょっとばかし頑張ったけどな?」
「自分で言うなよ。」
「ええやんか!」
「ふふ。」
ソノが笑い、斗真も柔らかな笑みを浮かべる。
生徒会室に、明るい笑い声が広がった。
つい数日前まで、体育祭そのものが危ぶまれていたとは思えない。
誰か一人が無理をするのではなく。
誰かを犠牲にするのでもなく。
五人がそれぞれの力を持ち寄って――自分たちの手で掴み取った結果だった。
「では、次は夏休み前に競技種目と各クラスの役割を確定させる必要がありますね。」
ソノが資料を確認する。
「それと、体育委員長も決めないとな。」
凌が腕を組む。
「空席のままじゃ、当日の運営が回らへんからなぁ。」
環季が頭を掻いた。
「じゃあ体育委員長の件は、僕が候補を何人か当たってみるよ。」
斗真がいつもの笑顔で答える。
「さすが斗真。頼む。」
「うん。」
そんな会話を交わしながら、時間は過ぎていく。
やがて――。
「今日はここまでにしよう。」
凌の号令で、全員が帰り支度を始めた。
「お疲れ様でした!」
ヒマリも鞄を肩に掛け、生徒会室を後にする。
――そして。
「あっ!」
廊下を歩いていたところで、ふと足を止めた。
「そういえば……教室にノート忘れてた……!」
慌てて踵を返し、教室へ向かった。
◇
忘れていたノートを取りに戻る途中。
校舎裏へ続く廊下を通りかかった、その時だった。
「……水川くん。」
女子生徒の声がした。
「ん?」
ヒマリは足を止める。
どうやら校舎裏から聞こえてくるようだ。
(……誰だろう?)
何気なく廊下の角から、そっと覗く。
そこにいたのは――斗真だった。
そして、その前には一人の女子生徒が立っている。
両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にしていた。
「ずっと……水川くんのことが好きだったの。」
「……。」
「一年生の頃からずっと見てた。優しくて、誰にでも笑顔で……それに、生徒会で頑張ってるところも素敵だなって。」
ヒマリの目が大きくなる。
(え……。この状況……もしかして――)
「だから……付き合って?」
女子生徒が、勇気を振り絞るように顔を上げた。
斗真は、ほんの一瞬だけ黙った。
そして――ふっと笑う。
「……ありがとう。」
いつもの斗真の笑顔だった。
誰に対しても向けられる、優しい笑顔。
「でも、ごめんね。」
女子生徒の表情が曇る。
「今は勉強と、生徒会活動に専念したいから。」
「……そっか。」
「うん。本当にごめんね。でも、気持ちはすごく嬉しいよ。」
最後まで優しい。
相手を傷つけないように。
余計な期待を持たせないように。
完璧な断り方だった。
――けれど、そこには何の熱も込められていなかった。
「……ううん。こっちこそ、ありがとう。」
女子生徒は小さく笑い、頭を下げる。
「じゃあね、水川くん。」
「うん。またね。」
女子生徒が去っていく。
その背中を、斗真は笑顔で見送っていた。
――ヒマリは、動けなかった。
(……水川先輩って、やっぱり人気なんだ。)
優しくて。
穏やかで。
誰に対しても笑顔で。
そんな斗真を好きになるのは、当然だと思う。
(……私だって、水川先輩のこと……素敵だなって思ってる。)
そこまで考えたところで、ヒマリはハッとした。
(な、何考えてるの、私!?)
慌てて首を振る。
その瞬間だった。
「……あれ?」
斗真がこちらを向いた。
「――ヒマリちゃん?」
「ひっ!?」
目が合った。
「いつからそこに……?」
斗真が少しだけ目を丸くする。
「……もしかして、ずっと見てた?」
「ち、違っ……! 違わないですけど……!」
ヒマリは慌てて両手を振る。
「その、偶然なんです! 教室に忘れ物をして、それで……!」
「ふふ。そうなんだ。」
斗真はいつものように笑った。
「……ヒマリちゃん。」
「はい。」
「今日、体育祭の開催が決まってよかったね。」
「……はい!」
「みんな頑張ったもんね。」
「はいっ!」
「だから……。これからも、ずっと一緒に頑張ろうね!」
「はいっ!」
ヒマリは笑顔で頷く。
いつもと変わらない会話。
いつもと変わらない笑顔。
なのに、なぜだろう――。
ヒマリの胸の奥には、ほんの小さな違和感が残った。
斗真はそんなヒマリを見つめたまま、静かに口を開く。
「……だから、ヒマリちゃん。」
「はい?」
「ヒマリちゃんは――」
そこでぴたりと、言葉が途切れた。
廊下に差し込む夕暮れの光の中で、斗真の顔から「いつもの笑顔」が消える。
「……僕のこと、好きにならないでね?」
「…………え?」
ヒマリの思考が止まった。
斗真の顔を見る。
何の感情も映さない、どこまでも平坦な瞳。
「……どうして、ですか?」
ヒマリは尋ねずにはいられなかった。
さっきまで、いつも通り普通に和やかに会話していたはずなのに――。
どうして、そんなことを言うのだろう。
斗真は笑った。
いつものように、誰にでも向ける、あの仮面のような優しい笑顔で。
「だって……。いつまでも、こうやって笑い合っていたいから。」
「……っ」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
意味が分からない。
どうしてそんなことを言うのかも。
どうして自分が――こんなにも悲しい気持ちになるのかも。
「水川先輩……?」
「じゃあ、また明日ね。」
斗真は、それだけ言った。
そして、ヒマリの横を通り過ぎていく。
「……あのっ。」
呼び止めようとした。
けれど、声が出なかった。
遠ざかっていく背中を、ただ見つめる。
遠ざかる足音が消えても、その言葉だけが夕暮れの廊下に残響のように残り続けていた。
『好きにならないで』
『好きにならないで』
『好きにならないで――』
呪文のように何度も頭の中で繰り返されるたび、胸の奥を冷たい風が通り抜けていくようだった。
さっきまで、体育祭の開催が決まって嬉しかったはずなのに。
みんなと一緒に頑張れることが、楽しみだったはずなのに。
今はただ――胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような気がする。
「……好きにならないで、って……」
ヒマリは俯いた。
(『好きになられたら迷惑』ってことなのかな……?)
胸の奥が、またきゅっと痛む。
(それって……『嫌い』ってこと?)
けれど。
『いつまでも、こうやって笑い合っていたい』
その言葉が、どうしても引っかかる。
(……だったら、どうして?)
斗真の真意が、分からない。
ただ、そう言われて――
自分が、とても悲しいのだけは分かった。
◇
その日。
部屋に帰ってからも。
ベッドに入ってからも。
ヒマリの頭から、あの言葉が離れることはなかった。
――僕のこと、好きにならないでね?
「……好き……」
小さく呟いてみる。
たった二文字の言葉。
けれど今まで、深く考えたことなんてなかった。
好きな食べ物。
好きな漫画。
好きな友達。
好きな人。
――全部、同じ「好き」という言葉だけど、意味はちょっとずつ違う。
「水川先輩の言う『好き』って……どれなんだろう?」
答えは、まだ見つからない。
「好き」という言葉が、こんなにも身近にあるのに。
その意味は、思っていたよりずっと曖昧なのだと――
ヒマリは、この日初めて知った。
そして、この日を境に――。
ヒマリの中で、曖昧だった「好き」という言葉が。
少しずつ、特別な意味を持ち始めていくのだった。




