第十三章 向暮楊風(十)
だが、その決断は少し遅かったかもしれない。安世の身体は、既に病魔に蝕まれていた。
その年の暮れに、安世は一度清涼殿で意識を失って倒れた。
「いっそ右近大将を辞して、静養した方がよいのでは―――」
見舞いに駆けつけた三守は言ったが、安世は断った。
「まあ、そんな大したことじゃないよ。ただの風邪だから」
あっさりと言う。心配そうな表情の三守に向かい、いつもの屈託のない、明るい微笑を見せた。
「大納言なら辞してもいいけど。折角、君というお手本もあることだし」
「安世どの」
三守は苦笑する。安世はからりと笑った。
「大丈夫。わたしはまだそう簡単にはくたばらないよ」
その言葉の通り、快復してからの彼は、傍目には何事もなかったように普段の生活を続けていた。それどころか、むしろ充実し、生き生きしてみえたほどである。朝議が長引いた日などは台閣の面々を私邸に招いて酒をふるまい、右近衛府の部下たちや、篁を誘い出しては遠乗りや狩に精を出し、ときおりひとりで、あるいは三守や篁を連れて冷然院の門をくぐっては、神野と楽を合わせたり、酒を呑んだり―――と、溌剌と動き回ったおかげで、
「静養しては―――」
などと言う人間は誰もいなかった。むしろ、
「その若さの秘訣を教えて頂きたいですね」
と言われる方がよほど多かったのである。
神野でさえ、
「大病を患うとかえって元気になると聞くが、本当らしいな」
と笑ったほどで、安世はそれに答えて言った。
「実は、倒れてからふと眼を覚ましたら、目の前に閻羅王が立っておりまして」
「―――ほう」
神野は笑う。
「わたしに言うんですよ。お前はあまりにも清らかすぎてわたしには裁きようがない。ここに来るなら、もう少し、こっちの世界ではめを外してから出直して来い、ってね」
☆
そしてわずかな暇を見つけては、安世はよく机に向かっては、熱心に書き物をしていた。
「何を書いておられますの?」
安世の妻となり、二年前に一男をもうけた伊那は、そう言って安世の手元を除き込む。それは日によって、詩であったり、あるいは譜であったり、絵であったりした。安世は笑って、伊那を抱き寄せる。
「見たもの、聞いたもの、会った人、感じたこと、考えたこと―――」
並べ立てられて、伊那は微笑する。
「それを全部? ―――わたくしのことも?」
安世は伊那の頬を、両の掌でそっとはさむ。優しい眸で妻を見つめた。
「ああ。わたしの中にあるものを、ひとつ残らずね」




