第十三章 向暮楊風(十一)
ドン、ドン、と三守の邸の門が激しく叩かれたのは、天長七年(八三〇年)七月六日、夜半過ぎのことだった。
おりしも激しい風雨が屋根に壁に叩きつける嵐の夜。危険なので灯りも灯されておらず、家人も邸内にこもっている。
三守がふと胸騒ぎを覚えて廊下に出なければ、門は誰にも気づかれぬまま朝まで叩き続けられたかもしれない。
物音に気づいた三守は家人を呼び、表を見にやらせた。
念のため数人の家人を控えさせた別当が門を開くと、同時に矢のような勢いで男が飛び込んできた。
なんと篁であった。三ヵ月前に父岑守を亡くしたため喪服姿であり、しかも全身ずぶ濡れで、まるで亡者のようである。見知っていた別当が驚いて理由を問い質そうとするよりも早く、噛みつくような勢いで篁は怒鳴った。
「至急、義父上にお取り次ぎをっ!」
「しょ……少々お待ち―――」
「早くっ!」
篁は家人を突き飛ばし、邸に向かって叫ぶ。
「良峰どのが!」
☆
「死んだ?」
翌朝、安世の訃報に接した神野はそう言ったきりしばらく絶句した。一瞬その場に棒立ちになり、それからどさりと床に座り込む。
「まさか―――あの男が……」
神野の前には、三守と篁が深く平伏している。そしてその背後に、落ち着いた雰囲気の様子の少年がひとり、やはり同じように伏していた。喪服姿のこの少年は、十六歳になった安世の長男で、名を宗貞という。面立ちは安世とよく似ている。
「そのような様子は、何もなかったではないか―――」
長い沈黙を破り、神野はようやく口を開いた。それから、まず三守に呼びかけた。
「三守。子細は」
三守は顔を上げ、神野を見る。激しく泣いたことが、赤く腫れた瞼から窺い知れた。だが、その声ははっきりして、ゆるぎがない。
「それにつきましては、篁の方が」
「では、篁」
神野は視線を移した。
「いきさつを申せ」
「―――は」
篁は顔を上げる。そして傍らの箱を取り上げ、神野に差し出した。神野はそれを取り上げ、紐を解く。入っていたのは、紙の束だった。
「―――譜(楽譜)ではないか。この詠は?」
「詠はわたしです。雅楽寮の方が手すさびに作曲されていたものを良峰どのが気に入ったとかで、編曲して舞をつけておられました。先日一通り出来上がったと仰って、わたしを邸に呼ばれたのです」
神野は黙っていた。
「二人舞ですので、ここにおります宗貞と組になり、良峰どのよりそれをご指導頂いておりました」
一通り伝え終わると、安世は満足気に微笑した。
『なかなか、よく舞うじゃないか。じゃあ、一度通してやってもらおうかな』
宗貞は首を振る。
『それよりも、是非小野どのと父上の舞を、見せて頂きたく思います』
『わたしが舞ったら、誰が笛を吹くのだ? ―――お前が吹くのか?』
『何なら、吹きますよ?』
宗貞はけろりと言う。血筋もあってか、若いながらも宗貞はなかなかの笛の名手だった。
『よし、申したな』
安世は笑って、
『それなら、着替えてこよう』
と部屋を出ようとした。
その瞬間、糸が切れたように、安世はその場に昏倒した。
『父上?』
『良峰どの!?』
すぐに駆け寄って助け起こしたが、既にまったく意識がない。揺すっても頬を叩いても反応はなく、家人に床の用意と薬師への連絡を命じるや、篁は単身馬に跨がり、嵐の中へ飛び出した。
しかし―――
「義父上に来て頂いたときには、もう―――」
そう言うと、篁はうなだれた。
三守が駆けつけたときには、安世は既にこの世の者ではなかった。全てが終わっていたのである。遺体に取り縋り、三守は泣き伏した。篁が声をかけることが出来ないほどに激しい、慟哭。
『何故だ、何故あなたが……! このわたしではなく、何故、よりによって何故あなたが―――!』
もしもあなたの魂を呼び戻すことが出来るなら、この命など、何千回でも差し出そうものを―――!
叫び、身悶えし、三守は幾度となく床に己れの拳を打ちつけた。獣が吠えるようだった。おびただしい涙を流しながら、一言も遺すことなく突然にこの世を去った友を、責めることさえもした。
だが、そんな義父を気づかって部屋を離れ、明け方再び戻ってきた篁に、三守は言ったのである。ただ一言、
『冷然院へ参る』
と。顔は蒼ざめ、憔悴しきっている。だが、そこから強い意志を映す眸が真っ直ぐに篁を射抜いていた―――




