第十三章 向暮楊風(九)
しかし、だからといって―――
安世も神野も、じっと返事を待っている。三守は、なおもためらいながら言った。
「しかし―――わたしが台閣に戻ったからといって……」
「三守」
三守の言葉を、安世は遮った。少し逡巡するようにその眸が揺れ、それから思い切った様子で言った。
「左大臣は空席で、大納言が一人もいないっていうのも不自然だし、わたしが大納言を拝命するのはやむを得ないと思う。だけど、今のままだと、少し―――しんどいんだよ、正直言って」
「え―――」
思いがけず友人が吐露した弱音に三守は驚き、おもわず相手の顔をまじまじと見てしまう。安世は苦笑する。
「年のせいかもしれないけどね。わたしも四十二だし。でもまあ、冬嗣も逝ってしまっただろう。もしもわたしに何かあっても、君が戻っていてくれれば台閣は安心だから―――」
「安世どの!」
さっと、三守は顔色を変える。安世はしまった、という表情をした。
「ああ、済まない。大袈裟な事を言って。言葉のあやだよ」
「冗談にもそのようなことを言うのは止めて下さい!」
「ごめん、悪かった。口が滑ったんだよ」
「三守、いいから聞きなさい」
顔を赤くして安世を睨みつける三守に、神野は宥めるように言った。
「この冷然院で働きたいという、その気持ちは嬉しく思う。そなたがこの院におってくれることで、どれほど助けられてきたか判らない。己が邸で、中納言をあごで使って雑用に走り回らせるなどという贅沢をした者など、そうはおるまい。だがな―――そなたは台閣を退き、冬嗣は亡くなった。少し安世に、荷を負わせすぎたと思わぬか」
「それは―――」
神野はちらりと安世を見る。
「わたしも―――つい失念していた。安世もこういう男だからな。折々にぼやきは耳にしていても、まあいつもの調子でやっておるのだろうと、正直ほとんど心配もしなかった」
「それはひどい」
安世が冗談めかして口を挟む。神野も苦笑し、「すまぬ」と小さく言った。それから再び三守を見つめる。
「三守、もし友として安世の身を案じるなら、言うことを聞いてくれ。そうしてくれれば、わたしも安心なのだ」
「院―――」
複雑な表情で、三守は神野を見つめる。その視線をひどく柔らかい眸で受けとめて、神野は言った。
「この冷然院で、よく働いた。―――五年間……位を降りたわたしに、まさか、ここまでついてくるとはな」
しばらく、沈黙がある。やがて三守は両の掌を静かに床についた。
「判りました。身にあまる重職でございますが、心して務めさせて頂きます」
安世のために、そして何よりも―――神野のために。
自分に出来ることをするのだと、とうに誓っていた三守なのである。
☆
安世は二月に、そして三守は三月に、共に大納言として台閣に並んだ。
それからまもなく、これは嘉智子の薦めで、三守は安万子が産んだ次女、貞子を正良の下に入内させた。再び、三守は政治の世界に身を投じることになったのである。
そんな彼に向かって、
「うまくやったものですね」
と、さりげなく嫌味を言う者もいないではなかった。だが、もともと安世と並んで中納言であり、今回三守が大納言に昇ったせいで権大納言どまりとなった清原夏野でさえ、
「さぞお腹立ちでしょう。五年も職を放り出していた年下の人間に……」
と、同情とも揶揄ともつかない声をかけられるたびに、
「三守どののように官職を抛って主君にお仕えするようなお方が、果たしてこの台閣に何人おりますやら……。よいお方だと思いますよ」
と庇っていたのだから、それほど大きな波紋が広がった訳ではない。
それは確かに、三守という人間の持つ貴重な資質だったと言えるだろう。




