第十三章 向暮楊風(八)
「院」
やんわりとした口調で、安世は声をかけた。
「どうか少し、お気を楽に。やはり、少し気を尖らせすぎておられるように思います。冬嗣どのが亡くなってから」
神野は僅かに視線を上げる。
「院にとって、共に闘い、競いあう「相手」は、ずっと冬嗣どのだった。良房どのはその冬嗣どのの死で今ようやく、院の前に立ったばかり―――しばらくは、お手並み拝見といこうではありませんか」
しばらく沈黙があった。ふ、と神野の頬に薄い笑いが浮かぶ。切れ長の眼を、神野は再び伏せた。
「……本当なら、良房の相手は正良であってよいはずなのだがな」
これには、安世も返答に窮する。
「わたしの相手は、確かに冬嗣だった。わたしたちは共に闘った。協力しあい、またときに競いあいながら―――あれはわたしの、大切な友だった」
ひとりごとのように、神野は言った。どこか淋しげな呟きだった。
「……そうだな。良房は遠い。わたしには―――」
「院―――」
神野は顔を上げ、頬を緩める。
「だが、そう言ってもおれまい。正良はどうも頼りなくてな。……つい手を出してしまう。まるで子供の喧嘩に親が出しゃばるようで何とも落ち着かないが」
柔らかいが、微笑と言うには少し苦い―――そんな表情で神野は安世を、そして三守を見た。
「半分は関わりのない話だったが―――どうだ、三守。納得してくれるか」
一転して朗らかな口調で神野が言い、それでようやく、安世は目的を思い出す。
「そう。何というか―――まだ、何がどうだとか言えるわけではないんだ。ただ、道康親王がお産まれになって、少し難しいことになってきたのは確かなんだ。いきなりまつりごとの場に戻って大納言をやってくれなんて言われて、戸惑う気持ちはよく判る。だけど、本当に、君にはそこを枉げて頼む。こんな時期だからこそ、君のような私心のない男に、台閣にいて欲しいし、一緒にやって欲しい」
正良に、そしてその息子道康に与する者。
恒貞に与する者。
中立を守る者、あるいは双方にうまく取り入ろうとする者―――
頼み込まれても、三守には、咄嗟にどう応えていいものか、正直見当もつかなかった。
安世が、こんな風に三守に頼みごとをするのは、長い付き合いの中でも初めてのことだった。中納言、左近大将という重職を務めながら、どこか少年の頃と変わらない、自在な雰囲気を持ち続けているこの友人の役に自分が立てるというなら、大抵のことであれば迷いはしない。だが、台閣三位の大納言となると、話があまりにも重大すぎる。
中納言にまで昇ったとはいえ、こういった「勢力争い」のようなものとはほとんど無縁に過ごしてきた三守である。三守は自分を「神野の臣」という以外に考えた事はなかった。東宮主蔵正となった遠い日から、常に三守の念頭にあったのは、この主人が少しでも心安く過ごせるように、自分に出来ることを精一杯やるのだという、ただそれだけだった。
神野が帝であったから、三守も台閣でその治世の安定のために尽力してきたのだし、神野が位を降りれば、その下で仕える。我ながら単純な話だとも思うが、そういう意味では、確かに自分は「私心がない」臣なのかもしれない。




