第十三章 向暮楊風(七)
「それともうひとつ」
神野が口を挟む。
「正良と良房が、近頃頻繁に往来している。もともと、順子は良房の妹だし、道康は甥にあたる。それに、順子と良房の母である美都子どのは、もともと嘉智子とは親しい仲だ」
「―――ええ」
三守は頷いた。
美都子は、三守の姉である。
「色々と、話は耳にしておりますが―――」
美都子は、三守が台閣から退いたことが非常に歯がゆいらしい。台閣に戻ってくれるようにと、三守は彼女からも再三請われていた。父冬嗣亡き今、母である自分が冬嗣の分まで息子たちを後見してやらねばならない、と美都子は気負っている。三守は官職を退いた時点で、既に中納言―――強力な後ろ盾ともなりえたのに、その地位を捨てて以来、三守はほとんど政治的な方面には関わっていない。
『あなたは、自分の甥だというのに可愛くないの?』
面と向かって言われたことすらあった。そんなとき、その勢いに気圧されつつも三守はいつも苦笑して、
『わたしは、そういうことには向いていないのですよ、姉上』
と答えるのが常だった。一門の栄燿栄華―――そんなものは、とうに三守の関心からは抜け落ちている。
更に神野は続ける。
「安世が、正良に楽を教えていたのを知っているな。それも正良の意向だと、良房が断ってきた」
『お忙しい中納言さまに、そのようにまでしていただいては心苦しい、と東宮さまがわたしにお命じになりました。わたしも、常々申し訳なく思っておりましたので……』
「そんなことが―――」
眉を顰める三守を、安世は慌てて宥めた。
「いや、まあ、三守、それはいいんだよ。良房どののことは。実際わたしもそれなりに忙しいし、腕のいい楽士を見つけてきたようだし」
「―――安世どのは、良房どのにとっても叔父君ではないですか。良房どのはそれを退けようとなさっておられるのですか」
「止せって。わたしはそんな風に考えているわけじゃない」
安世が制止しようとしたが、むしろ神野はきっぱりと言った。
「良房が退けようとしているのは、安世ではない。このわたしだ」
その厳しい口調に、三守はぎくりとした。安世は神野を見る。
「わたしは愛發が東宮大夫になったことにも、良房が一枚噛んでいるように思う。愛發は、大伴や正子は信頼しているようだが、どうもはっきりしない。確かに、わたしはあまりあの男を知らぬ。今の台閣で最も知らぬと言ってもよいほどだ。だからこそ、良房はあれをうまく抱き込んで、正良につけたのではないかという気すらする」
神野が退位して、まだ五年しか経っていない。神野が退位してから新たに台閣に加わったという人間はまだ少なく、ほとんどがいわば「神野の息のかかった」人間なのである。その点、ずっと大伴に仕え、二年前に参議に昇った愛發は、神野とはほとんど接点がない。
「院―――」
安世は眉根を寄せた。
「少し、お気にしすぎではありませんか。良房どのは確かになかなか抜け目のない男ではありますが―――まだ……えーと、確か、長良どのが篁と同い年で、それより二つ下でしたね」
「そう、まだ二十四。蔵人を経たとは言え、まだひよっこだ。だが、どうもわたしはあの男が気にかかる。だからこそ、潔姫を良房に与えた。あれの力は確かに必要だと思う―――思うのだが……」
潔姫は、臣籍に下った神野の娘のひとりである。懐妊が伝えられており、春には出産の予定だ。
かつて内麿が死んだとき、冬嗣は既に三十八歳で、参議だった。だが、冬嗣は自身左大臣にまで昇りつめたものの、長男にして未だ二十六歳という時点でこの世を去ってしまった。
今、藤原北家は冬だ。台閣にいるのは愛發ただひとり。しかも彼は藤原北家とは言っても、内麿が地方官として赴任している時の現地の女との間に出来た子供で、いわば庶流だ。
良房は、真面目で大人しいばかりの兄に代わって、ほとんど藤原北家を代表する形になっている。―――いや、内麿・冬嗣の家系を、と言い換えてもいいかもしれない。冬嗣が中納言内麿の庇護の下、一親王に過ぎなかった神野にようやく仕え始めた、その年齢で―――だ。




