第十三章 向暮楊風(六)
天長五年(八二八年)が明けた。
年明けに行われる様々な儀式の合間をぬって、安世は冷然院の門をくぐった。
「実は、お願いしたいことがあるのですが」
そう言って、常になく改まった様子で神野の前に平伏した。
神野は安世の話に黙って耳を傾けてから、
「判った」
と頷き、三守を部屋に呼んだ。
「元気でやっているかい? 三守」
「ええ、おかげさまで。―――安世どのもご壮健で何よりです」
元気が取り柄さ、とか、三守が予想していた朗らかな声は返ってこなかった。戸惑う三守に、安世は言った。
「ちょっと、頼みがあってね」
「頼み?」
「三守」
会話に、神野が口を挟む。三守は神野に向き直った。
「はい」
「台閣に戻れ」
「―――」
三守は眼を見はる。
「院―――?」
「安世が大納言に昇る。そなたも台閣に戻り、共に大納言として主上を援けよ」
三守は青くなった。大納言といえばあまりに重職である。冬嗣亡き今、左大臣は空席であり、台閣の頂点である右大臣緒嗣に次ぐ席だ。
「そんな、突然―――! 中納言を辞して久しいわたしです。それを、突然大納言など―――とてもつとまりませんし、台閣の方々も納得なさらないでしょう」
「それはわたしが通す」
「院」
「頼むよ、三守」
言ったのは、安世である。
「安世どの」
「三守、藤原愛發という男を知っているか」
藤原愛發は、内麿の七男で、現在四十歳。冬嗣の十三歳年少の異母弟である。大伴が東宮になると同時に東宮大進となり、大伴の下で蔵人頭を経て参議に昇った人物である。どこかすばしこい眼をした小男で、文章生出身の「秀才」でもある。
「ええ、昨年参議に昇られましたよね」
「そう。わたしは大納言になるのを機に東宮大夫を降りることになったんだけれど、彼がその後任につくことになった。主上に強く働きかけたらしい」
東宮とは、もちろん正良である。
「はあ」
気の抜けたような相槌になったのも無理はない。それと自分が大納言になることと、一体何の関係があるのだろうか?
諄々と説き聞かせるように、安世は続けた。
「いいかい、愛發はもともと主上に近かった男だよ。切れる人間だし、主上も信頼しているらしい。皇后(正子)の信頼も篤い。その彼が、東宮大進として東宮御所を執りしきる地位につきたいと希望した、ということは―――何を意味すると思う?」
「―――」
三守は眉を顰める。しばらく考えて、言った。
「次の東宮は恒貞親王ではなく、道康親王だと見た、ということでしょうか」
昨年八月、正良の下に嫁いだ冬嗣の娘、順子が男子を出産した。それが道康親王である。
安世は頷いた。
「そう、その可能性がひとつ。恒世親王が亡くなり、東宮に御長男が誕生してから、にわかにそちらに近づきはじめた節がある。彼は、変節したのかもしれない。―――だが、もうひとつ可能性として、愛發は敵の懐に飛び込んだのかもしれない、という疑いも残る。東宮御所の動きを探るためにね。いずれにせよ、主上が愛發の考えをどのぐらい掴んでおられるのか、それはよく判らないが」




